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ブーレーズによるマーラーの読解 [音楽]

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Pierre Boulez

ちくま学芸文庫の『ブーレーズ作曲家論選』に収録されているマーラー論は、ブーレーズがマーラーをどのように捉えているのかが明確にわかって、たとえばバーンスタインのようなシンパシィを持ったマーラーなどとは異なるブーレーズのマーラー観が興味深い。

ブーレーズはマーラーのことを 「ひとりの非凡で気難しく、厳格で風変わりな演奏家の思い出」 (p.129) として語ろうとする。
そして、マーラーはオーケストラ指揮者であり過ぎたために作曲家としては十分でなく、指揮したオペラは彼の創作には反映されなかった、という。そこには、マーラーと同じく、自身が指揮者であり、かつ作曲家であるブーレーズの指揮と作曲へのアプローチの相違と、作曲と指揮の混濁を避けようとする姿勢がうかがえる。

だからまずブーレーズは、マーラーに関する否定的な特徴を列挙する。ブーレーズによれば、マーラーは 「交響楽という高尚な領域に、彼は演劇の邪悪な種を大量に撒き散らし」 (p.128)、感傷的で卑俗で無秩序な領域に変えてしまった作曲家であり、その結果として彼の作品を賞賛した者と否定する者を生み出したのだという。それはまだマーラーが作品を発表していた当時から存在したリアクションだった。

両極端のリスナーの誕生は、マーラーに対する評価にも両極端の異なる様相を帯びた批評が生じたことと無縁ではない。
伝統的で保守的リスナーはマーラーの無秩序に見える曲構造がわからなかったし、逆にしばらく時が経つと、modernitéから見たマーラーはすでに妙に感傷的で 「ロマン主義の売れ残り品」 (p.130) であるという革新的リスナーからの評価にもさらされてしまった、とブーレーズは分析する。

 「第一段階の聴取」 は、しばしば、心地よい常套句、甘ったるい文句、
 ヴィニェット [訳注:背景をぼかした写真] で保存された過去の次第に
 薄れゆく束の間の一光景のようなものに基づいている。それはある人々
 を魅了し、他の人々を苛立たせ、両方の人々に、そうした最初の外観の
 彼方へ進むことを妨げるが、実際、その外観は控えの間に過ぎない……
 (p.134)

他にも、容易に見極められる主題とか陳腐とか大仰とか冗長といった言葉でマーラーの特徴を形容しながら、他の作曲家たちにおいては死に絶えたそうしたロマン主義的身振りが、マーラーに関しては 「悲壮な成功」 として残っているのだという。この皮肉混じりの、いやむしろ皮肉だらけの、そこまで言うかという形容はまるで野村克也みたいだが、マーラーの特徴をよく捉えていてさすがだと思わせる。
また、マーラーの音楽に漂う郷愁が存在することを言いながら、そうした感傷性が果たして真実なのか、それともカリカチュアなのか確信が持てないとも書いている。

そしてそうしたマーラーの特徴がどうして生じるのかということについてブーレーズは次のように分析する。

 マーラーは、全ての 「ジャンル」 を混ぜ合わせるという自由に往々熱狂
 的に身を委ねる。彼は格調高い素材とその他の素材の区別を拒絶し、確
 かに注意深く監視されてはいるが、見当違いの形式的限界から自由にな
 った構成の中で、あらゆる原素材を意のままにする。同質性、ヒエラル
 キーといった、この場合ナンセンスな諸概念は彼にとって重要性を持た
 ない。マーラーは、自分のヴィジョンを、それが含み持つ格調高いもの、
 陳腐なもの、張り詰めたもの、緩んだもの全てを伴って、私たちに伝え
 る。彼はそうした雄弁さにおいて選択を行なわない。選択は裏切りに等
 しく、彼の最も大切な企てを放棄するのに等しいからである。(p.138)

マーラーの作品が冗長だと言われていることに対しても、シューベルトに対する 「天上的な長さ himmlische Länge」 という肯定的な評価を引き合いに出し、なぜマーラーについては長大であることがマイナス要因として指摘されるのかということに言及し、最初の辛辣な皮肉な口ぶりからだんだんと転じてマーラーについて語り始める。
時間に関してのブーレーズの分析は次の部分にある。

 諸々の音楽的な出来事の密度、——演劇的状況の要求に応じて冗漫だっ
 たり、収縮したりする——音楽的時間の密度を受けとめることである。
 なるほど、あらゆる音楽の根源には、音楽的時間のそうした伸縮性が存
 在するが、それは知覚の最も重要な現象ではない。けれどもマーラーに
 おいては、それは絶えず最も重要な現象となる傾向にあり、往々、他の
 全てのカテゴリーに勝るようになる。私たちを導き、全体として聴けば
 良いものと、殆ど分析的な鋭敏性を以て聴く必要のあるものとの区別を
 助けてくれるのは、そうした伸縮性である。音楽的時間の伸縮性は、私
 たちが語りの様々なプランを知覚し、物語の増殖を瞬時に秩序づける手
 助けをしてくれる。(p.140)

ブーレーズはそれぞれの楽章の重要性が必ずしも等価ではないとし、「楽章に応じて、要求される聴取の質は異なる」 (p.141) とする。そうした比重の違いというのは、前述されている素材の区別をしないということと通じるニュアンスを持っている。
素材の優劣 (格調高いもの/低いもの) を区別せず、混在して使うのだが、しかし、そうした混在性は、リスナーの聴取において重要な場合/そうでもない場合が存在する、というふうに考えてよいのだろうと思う。
それは時間の概念から見れば、つまり凝縮された時間もあり、弛緩された時間もあるということ=音楽的伸縮性ということだろう。

そうしたマーラーの、楽曲の各所による重要性/非重要性の重層さはどこから出てくるものなのだろうか。ブーレーズの次の指摘はとても的確である。

 マーラーにおける読解の難しさは、多分、身振りと音素材との間の不一
 致にある。身振りは次第に 「雄大」 になりがちだが、他方で音素材の方
 は次第に 「卑俗」 になる恐れがある。一貫性のなさは、そうした根本的
 な矛盾からと同様に、作曲そのものの中でマーラーが自分の思考過程の
 多用な契機を各々相互に結びつけることができていないということにも
 起因している。その作曲法は、幾つかの主要な核となるものの周囲で様
 々な音楽的アイデアを繁殖させていく。彼の作品では、先に進めば進む
 ほど、テクスチュアが、厚みによってではなく、旋律線の複雑さによっ
 て密度を獲得していくことがわかる。(p.147)

「多分」 と断りながらもブーレーズは 「思考過程の多用な契機を各々相互に結びつけることができていない」 からなのだという。バッハをその頂点とする音楽の構造的美学は次第に崩れてはきたが、それでも古典派では一定のパターンを保持していた。時代が下るとともに表現は楷書的なものから草書的なものへと変わっていったが、それは構造的美学に破調を付け加えるという目的から、ついには破調そのものが美学であることに転じてしまう。(草書的という分類から私はラフマニノフのシンフォニーを連想してしまうが、その方法論はおそらくマーラーとは異なるのだろう。)
雄大/卑俗という分類は、一見おおげさに感じられる、ここがメインと思われる部分が実はパロディとか目眩ましである可能性もあるということだ。
私はブーレーズのマーラーに対する解釈とバルトークに対する解釈に非常に興味を持っているのだが、それはパッショネイトなものを求めるリスナーにとっては、時にあまりに冷徹な響きに聞こえることもあるのではないかと思うブーレーズの特質である。そして、ここでブーレーズの言う、テクスチュアが旋律線の複雑さによって密度を獲得していくというのに、あらためて納得する。バルトークの場合はテクスチュアの厚みというのは重要な要素であると思うが、でもブーレーズは、マーラーに関しては、あれだけ大量で多種類なインストゥルメンツを用いながらもそれはテクスチュアの厚みではないと言い切るのである。

センチメンタルとかノスタルジーに偏った見方は、その本質を見誤る可能性があるとブーレーズは言っているのであり、マーラー信奉者が必ずしもマーラーを理解しているわけでなく、むしろ単なるマテリアルに過ぎない過去の遺物をわざと使用しているのに、寿命の尽きたそれらに肩入れしてしまうことは誤りだと言っているのだ。

 たしかに、マーラーの霊感の典拠、彼の拠り所の地理は、一新されるど
 ころか、幾つかの表現法や、決定的に消滅しつつある社会形式の反映に
 あくまでも固着し続けている世界の中に厳密に閉じ込められ、狭く限定
 されているように思われるかもしれない。実際的に、それらの典拠がも
 はや存在しない以上、私たちはそれらを、一層冷静な眼差しで、私たち
 にはもはや直接耳にできない価値ある証言として考察できる。そうした
 音楽素材は、したがって資料的な価値を持ち、私たちは、それを拒否す
 るよりもむしろ、創造の第一段階として考察すべきだろう。(p.149)

マーラー自身がそうしたマテリアルをマテリアルとして認識していたのかどうかをブーレーズは問わない。それはブーレーズの解釈だからであり、マーラーが意識的に 「格調高い素材とその他の素材の区別を拒絶」 していたのかといえばそれは違うだろう。だがそのように分析することによってマーラーがどのように作品を構築していったのかを理解するためのヒントにはなる。

インタヴューで、ブーレーズは指揮と作曲と両方をこなすことに対することに対する自身への評価を冷静に語っている。

 聴衆というものは、常に、二つのタイプに分かれるものでね……。作曲
 家である私と指揮者である私の間にジャンクションを見出すことができ
 ない。でもね、そのことは、私にとってそれほど大きな問題ではないの
 です。作曲家としての私の仕事に関心を持ち、評価してくれる聴衆層が、
 間違いなく存在するからです。もちろん、作曲家としての私と指揮者と
 しての私をトータルなものとして受けとめてくれるに越したことはない。
 でも、そのことを強制することはできませんからね。そういうものだと
 割り切るしかないでしょう。
       (ユリイカ1995年6月号/特集・ピエール・ブーレーズ p.70)

「評価してくれる聴衆層が、間違いなく存在するから」 とする彼の見方は音楽だけに限らない。あきらめない真摯な姿勢が必要なのはどのジャンルにおいても同様に存在するように思う。


ブーレーズ作曲家論選 (笠羽映子・訳、筑摩書房)
ブーレーズ作曲家論選 (ちくま学芸文庫)




Boulez conducts Mahler Complete Recordings
(Deutsche Grammophon)
Boulez Conducts Mahler-Complete Recordings




Pierre Boulez/Mahler: Symphony No.2
https://www.youtube.com/watch?v=5ke_6a9kZzA
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青山実花

昨日のぼんぼちさんのオフ会で
お会いできるかと思っていたのですが、
お忙しかったようですね、
残念です。

また次の機会には、
お互い、参加できるといいですね。
これからも宜しくお願いします。
by 青山実花 (2015-06-28 18:40) 

lequiche

>> 青山実花様

時間的にまだやっているかな、とも思ったのですが、
少し遅くなり過ぎてしまいましたので、お伺いしませんでした。
私も大変残念です。
随分多くのかたがたがお集まりになったようですね。
また何か次の機会にお会いできるようにと願っております。
by lequiche (2015-06-28 20:59) 

sig

こんばんは。
昨夜はお会いできるかもと楽しみにしていたのですが、とても残念でした。音楽以外にも多方面の芸術に深い造詣がおありで、すばらしいですね。機会があれば、ぜひお話を伺いたいものです。
by sig (2015-06-29 19:50) 

lequiche

>> sig 様

私も楽しみにしておりましたが残念でした。
いえいえ、多方面かもしれませんが、
ごく浅薄な知識でお恥ずかしい限りです。
オフ会に限らずお時間のあるときにでも
お会いできればと思っております。
よろしくお願い致します。
by lequiche (2015-06-30 00:50) 

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