虚無的なプッチ柄 — 金原ひとみ 「軽薄」 [本]
金原ひとみは文藝春秋で 「蛇にピアス」 を読んだときからこれはすごいなぁ、と思っていて、それはその題材とかストーリー展開とかもそうなのだけれど、なによりも渋谷がうまく描かれているということにあった。しかもそれは、ごく狭く限定されたあの時代の渋谷であって、村上龍の作品のどれかで描かれていた渋谷よりも渋谷らしかった。
その後、少しの間読んでいたのだが、なんとなくこれは失敗作かなというのがあって、しばらくして、また短編かなにかを読んだらそれもちょっと拒食症かな、という感じがして、遠ざかってしまっていた。最近、さらっとシャレた装丁の『持たざる者』を、ふと思い立って買ってみたのだが、でもそれより先に新潮に掲載されている 「軽薄」 を読んでみた。
まずそのシチュエーション。1人称の私 (=カナ) はイギリスに留学してファッション関係の勉強をしているとき、業界の有能な男と出会って結婚。日本に帰ってきてスタイリストをしている。何不自由のないプチセレブな毎日の生活。だがイギリスに留学した理由は、日本で恋人だった男がストーカーに変質し、殺されかかった恐怖から逃れるためであったという過去がある。
カナには父の異なる姉がいて、その姉の子ども、つまりカナにとっての甥である19歳の弘斗と、ある日、関係を持ってしまう。10歳も年下の弘斗に、だんだんと翻弄されていくカナ。弘斗に見え隠れしてくるデーモンの影は何なのか。
生活的には非常に満たされているカナの現在の描き方がものすごく通俗的で、週刊誌ネタ的でもあり、現実と乖離したトレンディドラマのような、バブル期の成金ふうな昂揚感があって、こうした描き方のステロタイプさ加減というか、つまりこの通俗性が作家の生活ないしは過去に経験してきたこととイコールであると思わせてしまう手法はいつものことだ。
少なくとも、金原には、主人公イコール作家の経験と思わせてしまうキャラクター生成術と雰囲気があり、もしそうなのだとしても、どこまでが経験でどこからが妄想なのかという境界線を考えてしまったりもするが、それこそまさに彼女の思う壺である。
カナがだんだんと弘斗に深入りしていくにつれ、回りからは理想的でリッチな生活と見られているはずの彼女のあちこちが少しずつ綻びてゆき、不毛さが増殖してゆく。それはカナが愛情を恐怖と表裏一体のものとしてとらえ、それを封印してしまったからなのだ。だから今の夫との結婚も、その経済的リッチ感が全てであり、それは打算で、自己保身のためであり、まさに今、経済最優先のこの国の現状を映し出している鏡なのである。
私は、このまま夫と子供とずっと安定した家庭を保ち続けたいのだろう
か。それとも全てを破壊して、全てを喪失したいのだろうか。どっちも
嫌だ。私は、安定した家庭を保ち続けながら、たまに弘斗とセックスを
していたいのだ。自分の欲望の正体がわかってしまうと、その身も蓋も
なさに惚けてしまう。(p.53)
そしてカナは、ごく常識的で通俗的でもある姉を軽蔑し、その姉の子供である弘斗の性格が姉の通俗性に反撥した結果なのだと思いこむ。通俗性への嫌悪は姉だけでなくその生活の全てに及び、カナには経済的満足以外の喜びが無くて、感動が無く、本当の意味での信頼が存在しない。
人間不信と、セレブリティの側にいながらのマジョリティなるものの分類への不快さが、彼女の心の中にひそんでいる。
アメリカの映画やドラマでよく、ゲイの人が周囲の人にそれを打ち明け
られずに苦しんだり、ゲイ宣言したり、そこで生じた家族内の対立を解
消するストーリーを目にするたび、私は違和感を抱く。別に家族に理解
されなかろうが、親に黙っていようが、誰に言おうが誰に黙っていよう
が自由だし、誰かに自分の性癖を吐露出来ない事が不幸であるという考
え方は受け入れ難かった。マイノリティである事を、マジョリティの側
に入れてもらい認めてもらう事がマイノリティの幸福であるかのような、
そんな本末転倒を感じる。マジョリティである人間などいない。本当の
自分など存在しない。全てをオープンにして隠し事をしないという事が、
人と人との距離を縮めるわけではない。(p.30)
やがて若くてカッコよくて理想的な不倫相手であった弘斗が今まで見せなかった部分が、他の人たちの話から次第に明らかになってゆく。なぜ弘斗がカナの昔のストーカー事件に反応していたのかということが。
それはカナの中の孤独と空虚さとに呼応し、穴を拡げてゆく。
弘斗が言うように、私は弘斗の物質的な部分だけを求めていたのかもし
れない。でももしも本当に、私が弘斗の言うように軽薄な理由で彼を求
めてきたのだとしたら、私が今ここで彼を拒否する事は、その軽薄さを
極めるだけであり、私たちの関係性を最も卑しめる行為にならないだろ
うか。(p.113)
ファッション的なアイテムとして、さりげなく効果的にアレキサンダー・ワンとかルブタンなどが出てくるが、トータルで見るのならばそれは、言葉が悪いかもしれないが、そうしたクラスの下品さとして作用している。
そうしたことも含めて、ストーリー展開のうまさと主人公の影に巧妙に隠れてしまう金原の手練れさが非常によく感じられる。そしてその根底には、アメリカやイギリスと同様に、日本にも階級制度は存在するし、差別があるということが示されている。午後の性風俗ドラマ風に見えて微妙に異なっているのが金原の作風であり、ある意味ではいつものステロタイプなのかもしれない。
amazonで『蛇にピアス』のフランス語版を見つけたが (トップ画像)、フランス人から見た 「蛇にピアス」 のイメージはこういうものなのだろう。それに serpents et piercings とは 「蛇とピアス」 であり、「蛇に」 という意味は消し飛んでしまっている。
新潮7月号 (新潮社)
蛇にピアスは、タイトルは知ってるのですが
どんなオハナシか知らないです。
一つ、作品が面白くてその人の作品を何作か読んでみると
あれー?なんか違う・・・って思って遠ざかる作家さん居ます。
「軽薄」 はまだ雑誌掲載なのですね^^
by リュカ (2015-07-03 15:02)
ぐうの音も出ません。
by hasselti (2015-07-03 15:18)
>> リュカ様
『蛇にピアス』は、ピアッシングとかタトゥーを題材にしていて、
ちょっと気色悪い内容の小説です。知らないほうがいいかもしれません。
金原ひとみはこれ1作でいきなり芥川賞をとりました。
村上龍は絶賛しました。
蜷川幸雄が映画にしましたが原作の味が色濃く出ています。
小説の主人公も、金原ひとみも、映画の主演・吉高由里子も、
当時、皆19歳〜20歳でした。
映画のトレーラーはこれ↓です。
https://www.youtube.com/watch?v=dXuqxodg3R0
何か違うように感じるのは、きっと肌合いが合わないんですね。
単純に言えば好き嫌いですが、文学でも音楽でもアートでも、
上手いけど嫌いとか、上手くはないけど好きとか、
そういう共感度のことなんだと思います。
軽薄は、今月号の雑誌掲載作品なので、
詳しいストーリーについてはわざと伏せて書いています。
by lequiche (2015-07-04 02:23)
>> hasselti 様
ふふふ。
たとえば松任谷由実が、
「今日にかぎって安いサンダルをはいてた」 と歌っても、
それは取材による歌詞だとわかりますよね。
ユーミンが安物のサンダルを履くはずがない。
ところが金原ひとみの場合は、その境界線が分かりにくいです。
というより 「作者=ヒロイン」 みたいに錯覚させられます。
でもそれこそが小説家のトリックなのです。
それと金原は以前はアメリカ、今はフランスに住んでいて、
父親は著名な翻訳家ですし、言語的にバイリン気味で、
つまり故郷喪失者的な傾向があります。
それはナボコフのように詐欺師だということです。
by lequiche (2015-07-04 02:24)