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本がそれ自身で語り始めようとするとき — 寺山修司とバルトーク [雑記]

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(left to right) Josef Szigeti, Béla Bartók and Benny Goodman
recording Bartok’s “Contrasts” in 1940.

新聞に《レミング》の新聞広告が載っていた。《レミング》は寺山修司の戯曲で、生誕80年という惹句とともに演劇を中心とした幾つかのイヴェントがリストアップされている。2013年の公演の配役を替えた再演であるがパブリシティは踏襲されていて、ポスターに使用されている画はブリューゲルのバベルの塔で、ブリューゲルにはもっと普通の明るい雰囲気のバベルの塔もあるが、これは負のイメージを持っているほうのバベルの塔だ。たぶん狸の棲んでいるバベルの塔である。

つい最近、生物学系の本を読んでいたら 「レミングの暴走はディズニーのヤラセだよ」 ということを遅まきながら知って、レミングという言葉から連想するイメージを修正しなければならなくなった。寺山がこの本を書いた頃、彼はレミングに対してどんな認識を持っていたのだろうか。

バルトークの3つの舞台音楽は彼の作品のなかで特殊な位置を占めている。オペラ《青髯公の城》、バレエ《かかし王子》、パントマイム《中国の不思議な役人》はそれぞれ異なるジャンルのための音楽であり、具体的な舞台での上演という目的のために作られながら、内容はやや抽象的でありながら蠱惑的であり、それはバルトークの最もダークで性的なイメージを垣間見せる。《中国の不思議な役人》(Der wunderbare Mandarin/A csodálatos mandarin) の内容が非常識で不謹慎であるという評価にさらされたのは有名な話だ。
寺山に《中国の不思議な役人》と《青ひげ公の城》という同名の戯曲があるのは、その不道徳さと背徳感が寺山の嗜好と想像力を刺激したからに他ならない。

たまたまCDが見当たらなかったのでYouTubeにあった小澤征爾の《中国の不思議な役人》を聴いてみた。冒頭のオーケストラが静まってクラリネットのたゆたうようなソロが始まり (楽譜[13])、それに導かれてオーケストラがトゥッティでリズムを刻み始める部分 (楽譜[16]) が私はとても好きで、ストラヴィンスキーっぽい感じもするが、でもこのリズムはすぐに静まる。この美しさは比類がない。

寺山修司の演劇については以前にも書いたことがあるが (→2013年04月23日ブログ)、彼の戯曲/台本はひとつのプランであるという見方を私はしてきた。そうした方法論はかつて安部公房も試みたことがあるし、それは演劇においては明確に認識できるが、彼の他の作品の方法論の全てが実はそうなのではないかという気がする。したがって寺山修司作品の、ある程度まとまった納得のいく全集はいまだに存在していないと私は思うし、おそらく今後もそれが出されることはないだろう。なぜなら本とかディスクという媒体だけでその作品を格納するのはむずかしく、そこに現出するのはある一面からの虚像であって寺山修司の全体像ではないからだ。
むしろ自らの実像を現さないために彼はそのような方法論を採ったのではないかと思われる。

たとえプランであっても、もう戯作者本人はこの世にいないのだから、それをテクストとして演劇を成立するしかないのだろう。ピアソラはいないがピアソラの音楽は残ったように、次善の策であるかもしれないが、寺山の戯曲もシェークスピアのようにして残らざるをえないのかもしれない。どのようにアレンジメントされてもその本質が変わらない核のようなものをそれは備えているからである。それはどのようにしても寺山修司の影を持つフレキシビリティがありながら、どのようにしても寺山修司そのものではない。

《レミング》のサブタイトル 「~世界の涯まで連れてって~」 という言葉も、安部公房が唐突に提示した 「世界の果」 (「ガイドブック」) という言葉からの引用なのではないかと、ふと考えてみた。


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Seiji Ozawa/Bartók: Concerto for Orchestra, The Miraculous Mandarin
(ユニバーサルミュージッククラシック)
バルトーク:管弦楽のための協奏曲、バレエ「中国の不思議な役人」




PARCO STAGE/レミング
http://www.parco-play.com/web/play/lemming2015/

Seiji Ozawa/Bartók: Der wunderbare Mandarin
http://www.nicovideo.jp/watch/sm21685709

注1) バベルの塔の狸とは安部公房『壁』(1951) に収録されている 「バベルの塔の狸」 からの連想である。「ガイドブック」 は1971年の安部公房の戯曲。『安部公房全集』第23巻 (1999) に収録されている。
注2) バルトークの Contrasts (1938) はクラリネット、ヴァイオリン、ピアノのための作品。これにチェロを加えればメシアンの Quatuor pour la fin du temps (1940) と同じ編成になる。偶然とはいえ、どちらもクラリネットの音色がその重要なファクターとなっている。Quatuor pour la fin du temps (時の終わりのための四重奏曲) の成立の経緯についてはリチャード・パワーズ『オルフェオ』のブログですでに書いた (→2015年10月09日ブログ)。
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lequiche

>> desidesi 様

wikiにも書いてありますから既定の事実なんでしょうね。
でも、自然のナンチャラみたいな動画は、
ヤラセとは言わないまでもほとんどが編集によるものだそうです。
鷹がネズミを狙って急降下!みたいなの。
夢を与えようとすればするほどウソの夢になるというわけで。

裏安って…… ミルカラニヤスッポイ (^^;)
ネズミは逞しくてどんどん増えますから
少しのことでは挫けませんし、
次の手を考えているかもしれません。
by lequiche (2015-11-08 20:25) 

ぼんぼちぼちぼち

もう少し早く生まれていたら寺山修司と安部公房の自ら演出する舞台を観に行けたのに・・・
と、ちょっとくやしく思いやす(◎o◎)b

by ぼんぼちぼちぼち (2015-11-09 10:54) 

lequiche

>> ぼんぼちぼちぼち様

でも欲望というのは果てしなくて、
私は世阿弥自身が舞う世阿弥の舞台とか見たいんですが、
ドラえもんがいないとちょっと無理ですよね。(^-^;)
いまさら無理なものは仕方がないので、
できる範囲内でいいんだ、と最近は思うようになりました。
by lequiche (2015-11-10 15:56) 

prin4795

貴ブログを
拝見しますと、自分が何も知らない
無知で、~で蟻より小さいものに思えます。

すごい方ばかりです。ブロガーの方々。
by prin4795 (2015-11-11 07:47) 

リュカ

寺山修司さんの作品は「田園に死す」を映画で見ました。
20代の頃、渋谷の単館で・・・すごくすごくふしぎで
すごく惹かれたのを思い出します。
今見たらどう思うのかな〜〜〜
by リュカ (2015-11-11 13:06) 

lequiche

>> prin4795 様

コメントありがとうございます。
いえいえ、いつもテキトーな話題ばかりで
もう少し深い内容になればいいのですが全然進歩しません。
文章を書く練習みたいなものだと割り切っています。

prin4795さんのこの前のブログで、
安川加壽子さんのお名前が出て来たのにはびっくりしました。
江藤俊哉、巌本真理などと並んで伝説の人ですね。
by lequiche (2015-11-11 19:00) 

lequiche

>> リュカ様

おぉ、映画館で観たというのはすごいですね。
私は、たぶん《田園に死す》は、ちゃんと観ていません。
映画だけでなく、知識が断片的にしか無いのが実態です。
寺山は、自分の幻想をしっかりと持っているのはいいんですが、
妄想が過ぎてしまう部分もあったんじゃないかと思います。
もっと長く生きていたらどうだったろう? と残念でなりません。
by lequiche (2015-11-11 19:01) 

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