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擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (1) [ファッション]

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拘束と隠蔽と変形。大きく3つに分けられたそれぞれの章タイトルに入っているこれらの言葉から連想されるのは、SMとかフェティシスムに通じるイメージである。
鷲田清一の『モードの迷宮』が単行本として上梓されたのは1989年というバブル景気の時代で、その時代はそうしたスキャンダラスなテリトリーに属する言葉を 「ファッション」 のように用いるのが、一種のトレンドだったのかもしれない。だとすれば、その分、少し割り引いて考える必要があるが、SMのファッションに関して記述されている個所で、最もウケたのはSMプレイに関する次の部分である。

 一定の規範的秩序のなかで自らを編成してきた〈わたし〉は、野性的な
 ものの無規範性、つまり動物性との境界にふたたび連れ戻される。四つ
 ん這いにさせられ、「雌犬」、「ブタ」 とののしられる。(ここで侮蔑語と
 して人間と野獣の中間にいる動物、つまり家畜やペットの名が選ばれ、
 だれも 「北極グマ」 とか 「キリン」 とは呼ばない ―― E・リーチ 「言語
 の人類学的側面」 参照。) (p.075)

確かにそうだ。でももっとよく考えれば、それらはイヌとかブタなどのごくありふれた、人間の生活に密着した種類の動物に限られ、たとえば 「ドロボウネコ」 とか 「エロウサギ」 くらいまでなら使うのかもしれないが、ハムスターとかハリネズミになるとちょっと微妙である。

なぜSMの話題が出て来たのかというと、

 実際、魅惑的なモードというものはいつもどこかにSMファッションの
 統辞法を導入している。(p.076)

からなのだが、しかしSMのファッションというものは永遠のステロタイプであり、ファッションというタームが流行という意味を包含するものならば、そのパターンは固定されていて保守的であり、つまり一種のトラッドで流動性はない。
ファッションとは限られた範囲のなかから適宜取捨選択するものに過ぎないとはいうのだけれど、たぶんそれは一般的ファッションについての方法論に過ぎないのであって、SMファッション自体には、たとえばヘヴィメタルと同じように様式美だけが存在するように思う。ただこれは現代からの視点であって、1989年にはもっと異なるアクティヴな様相があったのかもしれない。


《コードを欠くモード、あるいは美徳の不幸》

SMというイメージから敷衍して拘束というキーワードの下に語られるのは、「お決まり」 な流れなのかもしれないが、まず19世紀ヴィクトリア朝におけるコルセットである。コルセットは貞淑、気品、礼節といった美徳を形成するための衣服 (というより器具、むしろガジェット) として流行し発達したはずだったのに、それは次第に別の効果を示すようになる。「肉感性を隠伏させてしまうはずのアイテムが、逆に肉感性を顕在化させてしまう」 (p.059) のだ。

それは纏足とかハイヒールでも同様であって、このような身体に対する物理的な変形とか毀損というかたちでの拘束が、身体の本来の動きを制限し、変容させることによって別の意味を持つようになるという。
そうなると歩行は単なる歩行でなく、妖艶であったり、コケティッシュで挑発的であったりするという視点でとらえるようになることを、鷲田は 「一個の個性的・感情的・性的な表現」 であるというメルロ=ポンティの言葉を引用して指摘する (p.051)。

シンデレラの靴は、靴が一定の目的のためにハイヒールという形態をとるに至るルーツであるが、グリム版のシンデレラでは、シンデレラの姉が無理矢理に小さい靴を履こうとして、母親に渡された包丁で自分の足指を切ってしまう描写があるのだという。しかし靴から血があふれて、イカサマをしたことが王子にバレてしまうのであるが (p.045)、これを鷲田は 「モデルを身体に合わせるのではなく、身体をモデルに合わせてゆくという、ファッションの原則」 (p.046) であるという。
それはこの 「拘束の逆説」 という章の最初で、すでに規定されている。

 わたしたちは衣服を身体に合わせるというより、むしろ自分の肉体をモ
 デルチェンジして、モードという鋳型に合わせようとしているのではな
 いだろうか。
 イニシアティヴをもっているのはモードである。そして、これが衣服と
 身体に規則を与える。(p.023)

昔の軍隊で、軍服や軍靴に身体を合わせろと言われたという理不尽さや、トレーニング・ジムのCMで、太った身体が一定のパターン化された〈鍛え上げられた身体〉に変わる使用前╱使用後の対比画像などは (エステティック・サロンの肥満╱痩身の対比でも同じことだが) 目標となる完成形が一定の規則を持つモードなのである。

 わたしたちはモデルに従って、自分の衣服、自分の身体を見る。モデル
 に則って衣服を取り換え、身体を変形する。モードの主導権。標準的な
 サイズ、規範的な状態が、わたしたちを金縛りにする。しかも、当の標
 準や規範は目まぐるしく変化する。そしてわたしたちは、そのつど見え
 ない規則を遵守し、ときにはそれから逸脱するほどに、装飾をこらし、
 衣服で身体を拘束し、ひいては自分自身の身体をも変形しつづける。そ
 してそれでもなお、わたしたちは自分の衣服に、自分の身体に、いつも
 不安を抱きつづけるしかないのだ。(p.025)

では、目まぐるしく変化するモードの標準や規範は誰が操作して決定しているのだろうか。その答えは無い。
ただ、そのようにして不安を抱き続けるということは 「ファッションに関心があるか、ないか、ということとは何の関係もな」 くて、むしろファッションに関心がない、無感覚であると言っている人ほど、その時点での流行服を身につけていることが多く、したがって 「様式にこだわるという語の本来の意味で、彼らこそもっともファッショナブル」 (p.025) なのだとする、一見逆説的な提示にヒントがあるように思える。

言語表現においてはひとつの言葉が多様な意味を持つ場合と、多様な言葉がひとつの意味しか持たない場合とがある (前者の例として 「雨降りだ」 と言ってもそれが 「傘を持ってきてよ」 「君の勘はよく当たるね」 「きょうの試合は中止だ」 「外出するのが億劫だ」 といった幾つもの意味を持っていたりすること。後者の例として 「寒い」 「あした会える?」 「旅に出たいの」 といった多様な言葉の真の意味はたったひとつである、と鷲田は解説する。(p.030))。衣服においてもそれは同様に成立するが、しかしファッションの構造 (アイテムの組み合わせ) は言語のようにシステマティックではない。

 衣服を構成する各アイテム間の配置関係には、言語に見られるような、
 一義的に規定された顕示的な意味と言外の意味との構造的分割が見うけ
 られないということだ。厳密なコードによってシステマティックに規定
 された意味を欠くがゆえに、衣服の意味はそれだけ多義的なものとなる。
 すべての意味が暗示 [ほのめかし] であると同時に、表面に露出している
 ことになる。(p.031)


《可視性の変換》

ここで鷲田の提示するのが可視的、可視化という概念である。これは全編にわたって使用されている重要な言葉である。

 身体は〈わたし〉という見えないものに浸透されてはじめて、〈わたし
 の身体〉として可視化する。ところが逆に、この〈わたし〉という見え
 ないものは、衣服や身体、さらにはそのヴァリアントとしての言語とい
 った、可感的な物質の布置のなかで、〈意味〉を通して紡ぎだされるも
 のでもある。要するに、衣服=身体は、意味を湧出させる装置でありな
 がら同時に意味を吹き込まれるもの、つまりは意味の生成そのものなの
 だ。(p.027)

単純に物理的な身体を覆うものとしての衣服という考え方だけでは人間の衣服に対する (特にモードとしての衣服に対する) 認識の思考は説明できないと鷲田は指摘する。
ファッションというものは他人に見せる、あるいは他人から見られるということを大前提としていて、しかしそのように視覚にたよることが重要であるのにもかかわらず、ひとつの矛盾が存在する。それは人は自分の姿 (実像) を見られないということなのだ。

 わたしたちは、自分の可視的な存在を想像のなかでしか手に入れられな
 い。身体の目に見えるわずかな部分を、鏡に映った像を、パッチワーク
 のように自分の想像力の糸で縫い合わすしかない。(p.088)

鏡像のなかの自分は虚像であり、実際の自分とは違う。写真や動画に撮られた自分も2次元の複製に過ぎず、真の自分の姿ではない。人が自分の姿を見ることはできないのだ。そしてたとえば写真に撮られた自分の像に満足するひとはいない (p.088) ことからも、人が自分で考えている自分の実像と実際の像には 「ずれ」 があるとするのである。

拘束という言葉と並列して語られる隠蔽については、まず、A・リュリーの刺激的な引用がある。

 衣服というのは、言葉でいえば 「私には秘密があります」 というせりふ
 にあたる。(p.093)

想像力は隠れているものを見たいというのよりは、隠されているものをこそ見たいというのが、そのめざすものだというのだ。それを可視性という言葉にからめて表現するのなら次のようになる。

 だから 「わたしには秘密があります」 ということが重要なのであって、
 「秘密」 そのものが重要なのではない。秘匿されているものではなくて、
 「何か」 が秘匿されているという事態が、可視性の表面にざわめきをひ
 き起こすのだ。(p.094)

モードのポイントはつねに環流し、循環するものであって、一定の幅の範囲内で、その丈、長さ、幅、大きさといったファクターを往復するが、それは死と再生の循環運動でもあるのだという (p.098)。
また、過去の差異の在庫目録から一部を引用するのがファッション・デザインの正統な手法であるとも言う (p.189)。

〈拘束〉という言葉は、一定の道徳的規準によって定められた規範への従属をうながし、規制するものであるのに対し、〈隠蔽〉とは規範から逸脱するものを秘匿し隔離することを表す。それらは 「肉的・野性的」 と表現されているが、つまりもっと具体的には性的で淫靡な状態、原初的で衝動的な状態になることを回避するために〈拘束〉や〈隠蔽〉の手法が用いられるということである (p.100)。
しかしヴィクトリア朝における、コルセットで拘束し、幾層にも重ねられた長いスカートと下着で隠蔽するという美徳への偏執的手法が、かえって性的なフェティシズムを増長させるもとになったことはいうまでもない。

なぜそのようにしてまで偏執的に隠蔽しなければならないのだろうか。身体には 「これ以上見せてはいけない」 部位と 「見せてもよい」 部位とが存在するというが、ではその境界線はどこなのだろうか、とする問いがある (p.099)。
〈わたし〉の可視性を変容させるものがモードの視点であり、そして〈わたし〉の可視性は演出可能であるとするのならば、隠蔽するという手法は身体を隠蔽という視点からでなく可視性の変換という視点から見られねばならない、とする (p.104)。
隠蔽と対立する概念である露出に対してもそれは言えて、つまりあるものを見せたり隠したりすることによって、別のあるものを見せたり隠したりしてしまう転位とか擬装という行為 (一種の 「めくらまし」 だろうか) が問題だというのだ (p.105)。

こうしたテクニックは鷲田が規定する性的な何かを対象とした隠蔽の手法に限らず、ファッションの手法としてよく行われることである。つまり、色彩や形状によって錯覚を誘い、撹乱して、弱点のある部位から目を逸らさせるための工夫である。

擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (2) へつづく。


鷲田清一/モードの迷宮 (筑摩書房)
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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末尾ルコ(アルベール)

おお!続きましたねえ。
ちなみにわたしは「日本的SMメンタリティ」は、とても麗しく官能的な日本人ならではのエロティシズムだと考えてまして、それは必ずしも「いわゆるSMプレイ」である必要はないものだ、などと。
ともあれ、続きを楽しみにしております。

                        RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-06-19 01:00) 

リュカ

コルセットもハイヒールも
結婚式のときに身につけたのが最後だわwwって思いながら
読みましたーーー(笑)
by リュカ (2016-06-19 22:04) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

少し長過ぎるかなぁと思って分割しました。(^^;)
日本的メンタリティ、言えてますね。
何でもそうですが、そのまま直輸入ではなくて、
うまく日本的風土に合わせてしまう
というのが日本人の特質なのかもしれません。
by lequiche (2016-06-20 00:43) 

lequiche

>> リュカ 様

あ、そうなんですか。
だとするとヴィクトリア期の慣習というのは
ある程度は形骸化されながらも
まだ連綿と続いているということでもあるんですね。
でもここだけのナイショの話ですが、
鷲田先生はSMのことが書きたくて
無理矢理そっちの話から始めたんじゃないか、
という疑惑を持ってます。(^^;)
by lequiche (2016-06-20 00:44) 

末尾ルコ(アルベール)

おはようございます!わたしのブログへのコメントありがとうございます。
どなたにも楽しんでいただける文章というのは、一流の作家にとっても永遠のテーマでしょうが、わたしがlequiche様の文章でいつも感じているのは、「極めて深く豊かな内容」と「様々な表現を愛してらっしゃる開放感」などです。いつも素晴らしいなと感服しております。   RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-06-20 09:55) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

こちらこそありがとうございます。
「極めて深く豊かな内容」 はあまりにも実際と異なりますが (^^;)
多様なものへの興味ならあるかもしれません。
人間ってどうしても視野が狭くなってしまいますから、
とりあえず関心を持つことは大切だと思います。
最近、日本のポップスしか聴かないとか
ごく興味が限定されてしまう人など
よくいらっしゃいますが、もったいないなと思います。
by lequiche (2016-06-21 13:11) 

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