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擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (2) [ファッション]

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Alexander McQueen 2016AW (Sarah Burton)

擬装と錯綜のモード ― 鷲田清一『モードの迷宮』を読む (1) のつづきです。


《制服という記号》

すべての衣服は制服であることという視点も面白いし、特に今の時点では、この本の書かれた当時より卑近な話題として解釈できる。
「〈わたし〉の自己同一的な存在は」 「意味の共同的な制度に自らを同調させること」 であり、「〈わたし〉がある属性を手に入れること」 「〈わたし〉の生成にとって決定的な役割」 をするのが衣服であるという (p.122~123)。
それは 「可視性のコード化」 (p.125) であり、「生存を制度化する (制服としての) 衣服」 (p.126) なのだというのである。

制服が個性を消してしまって均一の記号として作用するという負の面に対して、むしろ制服という記号のなかに個性を隠すという方法論も存在する。それが高校生の制服であり、それを拡大解釈したアイドル・グループの衣裳であり、そしてコスプレである。このラインはひとつながりであり、デザイン性の多少による違いに過ぎない。
鷲田はこうした可視性のコード化によって 「個々人の差異を消すという口実」 は 「もっとのっぴきならない事態を隠しているのではないか?」 と指摘する (p.127)。ではそれは何か。

衣服が常に両義性を持つものとするのならば、制服という強制力がもっと負の作用を強く持つ場合もあるはずである。つまり、その人がどういう職種であるかを同定させるためだけの記号としての制服であり、それは企業が従業員を従属させるために着せる、その多くはファッション性を持たない劣悪なデザインと縫製の制服である。個性をわざと喪失させ、醜悪な記号として押し込めることによって、人を奴隷的に扱えるような意図のもとに、それは作用する。
制服の究極の形態は軍服であり、軍服というコードが何を示すのかは明快である。本来、自分の自由度を表出するはずのモードが全く反対のものとして (つまり一種の拘束として) 作用するというのも皮肉な両義性である。こうした強制力をあらかじめ持っている制服のしめつけは、拘束というより暴力に近い。負の面に対する視点があまり見られないのは、やはりこの論の書かれた時代性だろう。つまり当時は、現代より物事に対してずっと楽観的であったのに違いない。

 わたしたちは他者たちからひとつのタイプとして承認されるかぎりでし
 か〈わたし〉となりえず、その意味で共同性のなかにすっぽり包みこま
 れることになる。(p.135)

衣服は、それ自体が社会的な意味作用を持ち、可視的なイメージを提出しているのだとすれば、その統一的なイメージとかスタイルというものは社会のなかの共同性として認識されるということだが (p.135)、つまり逆に言えばそうした記号化というかたちでしか承認され得ないという負の部分もあると思われるし、そしてそれは日々増長しつつある。


《匿名化》

さて、制服という匿名性を持つ現象を考えたとき、最も極端な状態はマスク (仮面) である。それは隠蔽性の極端なかたちであり、〈わたし〉の存在を匿名化する (p.138)。顔を隠すということは〈わたし〉を匿名化することであり、といって、顔を隠すことによって自分が完全に隠せるというものでもないと思うのだが、ともかく識別力は落ちるわけである。
それはさらに例としてあげられている 「秘部を隠せば何でもできる」 という常識からの逸脱の言葉となり、そして逆説的には 「顔さえ隠せば何でもできる」 というマスクの効用にまで達するのだ (p.139)。

つまり秘部ということについて言えば、具体的な 「だれかの秘部」 だからエロティックなのであり、性器それ自体とか、顔の写っていないヌード写真はエロティックではない、と鷲田は述べるのである (p.140)。
さらに 「秘部さえ隠せば何でもできる」 と 「顔さえ隠せば何でもできる」 という特殊論を一般論に拡大解釈すれば、「何にでもなれるという過剰な可能性」 と 「何にもなれないという空虚な不可能性」 は表裏のようでありながら、簡単に転化するものだというのがその論理である (p.140)。

通常のファッションは、そこまで追いこむことはなく、もっと軽薄で、衣服をとりかえることによる可視性の転位によるささやかなエクスタシーに過ぎない、と鷲田はいうが、その根源には、ここで引用されているロラン・バルトの 「モードは、人間の意識にとってもっとも重大な主題 (《私は誰か?》) と 「遊んで」いるのだ」 というヘヴィな意味あいを持っているのだ (p.141) といわれるとそうかもしれないと思う。

「過剰なまじめさと過剰な軽薄さの共存がモードのレトリックの基盤」 (p.143) というバルトの言葉は気休めであって、そうした重い認識は一度報されてしまうと人の記憶からは容易に薄れないはずである。


《フェティシズム》

フェティシズムに関して鷲田は、脚や髪や生殖器は 「あやしい部位」 であり、それはどういうことかというと、「〈わたし〉が少なすぎる部位」 だと述べる (p.154)。しかしその前に鷲田は、マスクに関連する個所で、具体的な秘部でなければそれはエロティックではないと書いているので (p.140)、「〈わたし〉が少なすぎる部位」 とは、それと呼応するものではないかと考えられる。
つまり〈わたし〉という個別性が薄いからこそ、それは架空のものに近くなり、フェティシズム (=物体としての執着/信仰) が生まれるのだといってもよいのではないか。
ファッションにおける 「身体の一部分を覆い隠すという衣服の構成法」 (p.158) もフェティシズムを逆用した行為であるとするのである。


《モードの〈ずれ〉》

モードとは自然からの逸脱であり、一貫した転位であり、そして〈ずれ〉によって成り立っていると鷲田はいう (p.159)。そしてモードには衣服だけでなく化粧もその中に含まれ、つまりそれらが 「わたしたちの可視的な存在をデザインする」 のだという (p.160)。
〈ずれ〉とはつまり、人は自分という存在をありのままに認めようとしないで、自分を自分の理想とするかたちに変えようとする人為的操作があることを示し、服装やメイクによって、いわば仮面を装着する行為を言っているのだ。それは自分を装飾し、実際より良く見せようとする欲望であるが、それが過剰になれば自分は消失してゆく。それは 「危うい行為である」 と鷲田は言う (p.165)。

 衣服の取り替えによる可視性の変換を、そして、それのみをてこにして
 〈わたし〉の変換を企てるというのは、可視性のレヴェルで一定の共同
 的なコードにしたがって紡ぎだされる意味の蔽いでもって、〈わたし〉
 の存在を一度すっぽり包み込むことを意味する。そうすると、わたしは
 たしかに別なわたしになりうるにしても、そのような〈わたし〉の変換
 そのものは、〈わたし〉が他の〈わたし〉とともに象られている意味の
 共通の枠組を、いわばなぞるかたちにしか可能とならないであろう。
 (p.165)

共同的なコードとはすなわち定型的なパターンの中に自分をまぎれ込ませることを意味し、そうした記号的なモードにおいて自分は消失し、属性だけが残る、その例が、制服で身を包むことであるとするのだ (p.166)。
それは制服という限定された記号だけに限らず、あらゆる衣服は制服としての特徴を持つ、と鷲田は言う (p.166)。
つまり制服という記号の中に自分をまぎれ込ませようという消極的な行為と、個性的な外見への過剰なこだわりによる積極的なモードへの固執は結果として同質の問題を含んでいるとするのだ。

なぜ可視的な存在をデザインする (可視性を変換しようと企てる) のかは、つまり自らの可視的存在についての不安があるからであり、自分のフィジカルな 「見た目」 に対しては、「こんなはずではない」 とする否定的な思い込みとコンプレックスがあり、そしてその自分の 「見た目」 は、自分から見た場合 「鏡像」 (=虚像) に過ぎず、自分が見えないものに対する不安が、その 「可視性の変換」 という行為を起こさせるというように考えていいのだろう。
メルロ=ポンティの次の引用は鏡の功罪 (どちらかというと罪) について語っているように思える。

 私が〈見るもの - 見えるもの〉であるが故に、つまり、そこには〈感
 覚的なものの再帰性〉があるが故に、鏡が現れるのであり、鏡はその再
 帰性を翻訳し、それを倍加するのだ。この鏡によっていわば私の外面が
 完成されるわけであって、私がもっているどんなに密かなものも、すべ
 てこの〈面影〉、この〈平板で閉ざされた存在者〉のうちへ入りこんで
 しまうのである。(p.174)

鏡に映る像は実体のようでありながらそうではなく、メルロ=ポンティはそれを幻影とまで表現しているが、つまりその虚像を実体として思い込もうとする行為は、その行為自体を表すと同時に、人間の認識の方法が脆弱であることのメタファーであるのかもしれない。
鷲田は次のように書いている。

 わたしたちの可視的存在は根源的に脆弱なものなのであって、その脆弱
 さが〈わたし〉が内的密度を手に入れることを不可能にする。〈わたし〉
 のこのような空虚を補塡するために、わたしたちは衣服という別の可感
 的で物質的な存在を呼びもとめる。(p.175)

しかしモードとは不完全で可変的なもの (現象?) であるために、「衣服はたえず変換しなければならない」 という。その変換がつまりトレンドなのである。

さらに鷲田はパンク・ファッションの様相についてさらっと触れ、ファッションはその現象面としてナルシスティックであり、可視性の様式化であるという (p.183)。もし、様式化というのならば、最初のほうで提起された 「SMファッションのステロタイプさ加減」 も、様式化という形容の中で正当性を獲得することになるのかもしれない。
モードは 「ある意味を加味しながら別の意味を失効させるという仕方で、たえまなく転位してゆく。累積するのではなく循環する」 (p.188) ので、それがファッション・デザインのステロタイプ (=限界点) であるともいえる。ファッションはメリーゴーラウンドのように回帰するが、しかし乗客は毎回異なる。あるいはまた、最高回転数を超えないように使い続けなければならない繊細なエンジンでもあるのだ。
それでいて、トレンドには法則性はないので、今シーズンのものは来シーズンにはダサくなってしまう (p.202)、という。

「わたしが〈わたし〉を追いかけるナルシスティックな回路」 (p.209) とは、ありのままの自分となりたい自分のことであり、それは自分を納得させるためにつくられた幻想の回路なのかもしれない。
さらに 「〈わたし〉の生成と崩壊が繰りかえされるきわめてエロチックな場面」 (p.209) というが、「この両義性がもっともあからさまに出現するのが制服なのであって」 (p.209) と繰り返し書かれているのを読んだとき私が連想したのは、その後の 「なんちゃって制服」 を経て、AKB的な制服/コスプレに到達する伝播と発展である。

        *

あとがきに、モードは残酷なものであると同時に、思いやりのあるものでもある、と鷲田は書く。それは人間の〈もろさ〉につけ込んだり、あるいはヴェールで覆ったりという相反する対応をみせるからであり、これもまた両義性と言えるのかもしれない。
ただ、この本の書かれたのが、もう30年も前の、ましてバブル期という特殊な時代であったことから来る古風な印象は否めない。なるべく普遍的な視点で終始しようとしても、時代からの影響はあるものなので、そうした 「旬」 の気配が必ずつきまとうのもモードという現象の宿命である。
また雑誌への連載であったという経緯があるためか、論理構造に 「行ったり来たり」 とか 「堂々めぐり」 (まさに 「死と再生の循環運動」 (p.098) である) があるように思えたので、一度解体して再構築しようとしたが途中で放棄した。すごく簡単にいえば 「可視性」 と 「制服」 という単語に全てが集約されてしまうように思う。「可視性」 とは、自分から見ることと、他人から見られることの差異を明白にするための論理基準であり、「制服」 とは個性を主張するか、マジョリティに埋没するかの選択肢における触媒である。どちらにもある種の憂鬱と抑圧が存在する。

しかしファッションとは、本来もっと軽く楽しくなくてはならないはずだ。ファッションという言葉の持つ軽さ (むしろ軽薄さ) と、モードという言葉の持つ暗い重さとでもいうべきニュアンスの違いを、直感的に私は感じとる。
あるいはファッションとは、それらの現象を、単発的に点としてあらわしているのに対し、モードは思想を継続的な流れとしてとらえているようにも思える。といってもこれはあくまで私の印象に過ぎないので、本来の言葉の真実の意味は、もっと別のところにあるのかもしれない。

しかしこの『モードの迷宮』後、時代は変わった。日本は不況となり、そうした動きは世界に蔓延し、気がつくと日本は物づくりの基礎を失った。クリエイティヴであることより、安価であることが重要な価値観となった。
それまではトレンドをファッションメーカーが主導していたのに、必ずしもそうではないトレンド (ニュートラとか渋カジとか) が起こるようになり、やがてデザイン性の無いもの (否定的な意味でなく質実であるということだけを特徴としたユニクロのようなブランド)、あるいはごく微視的なデザインの差異によるファッション・ブランドの並立や、ファスト・ファッションとして括られる使い捨て的なブランドが隆盛になった。
ハイブランドのオートクチュールやプレタポルテのファッションショーと、リーズナブルな、たとえばTGCのショーとは同じように見えて同じではない。しかしレストランにも高級なのと大衆的なものが存在するように、常に勢いがあり需要があるのは大衆的で大量生産のブランドである。

鷲田の 「すべての衣服は制服である」 という規定と、制服というタームは、かたちが少し変わっているが、ある意味予言的な言葉である。鷲田は制服の正の部分しか指摘しなかったが、それはAKBなどのアイドルグループの衣裳やコスプレの衣裳として具現化している。〈制服〉的なものは典型的な表象であって、普通の衣服とそうした衣裳との間にはグラデーションがあり、そうしたテイストのアイデアは数限りない。技術的な進歩があるにせよ、ごく廉価なファスト・ファッションに多く採用されるようになったスパンコールやラメ、フリルやレースなどの素材の使用もその一端である。
しかし、すでに私が指摘したように、制服には負の部分があることを忘れてはならない。それはまさに、悪辣な拘束と隠蔽と変形であり、そうした一見、理解しにくい不当な統制によって人の精神を損壊する行為に加担するのである。
そうした現象は、鷲田がこの本を書いた時代よりずっと顕著に悪質さを増加させていると思われる。そうしたことと比較すると、この鷲田の制服論はずいぶん穏やかなのである。

もうひとつ、私が不満なのは、「可視性」 ということへのこだわりは、あくまでファッション/モードを消費する側からのこだわりであり、精神分析的な 「わたしたちのこころ」 の問題としての分析のように思えてしまうからである。
モードについて、たとえばクリエイターたちはどう考えているのか。そして彼らが考えていることに対して、消費者はどのように反応しているのか、それともそうしたシステムはすでに衰退の時代にあるのか、そうしたアプローチに乏しい。それはあくまでこの本が、ファッションに関する現象への論考であって、ファッションそのものの論ではないからである。
クリエイターの意図は必ずしも市場に正当に、想定していたように反映されるわけではない。その意外性もファッションのひとつの特徴であると言えよう。

ファッション・デザインを変化させるエレメントは数多く存在するが、その変数は一定の区間を往復するしかできないものであり、ファッションの歴史のアーカイヴから一部引用する (p.189) という手法が一般的であり、したがってそのラティチュードは思っていたよりも狭いのである。
しかしファッションとは強制的な消費を起こさせるための仕掛けであるから、今シーズンが昨シーズンより必ず斬新で優れているという説得性を創り出して、昨シーズンのデザインはダサいと消費者に思い込ませ、新たな購買意欲を喚起させなければならない。つまり 「さまざまな 「共感覚」 [シネステジー] を新たなかたちで蠢かせることによって」 (p.207) 次のトレンドが正しいと信じ込ませる必要がある。それは一種の幻想の創作である。簡単に、脈絡もなく、それまでの美学が反古にされてしまうという点でファッションは芸術とは異なるのである。そこに特権的な例外はない。それは引用されているボードリヤールの言うように 「あらゆる記号が相対的関係におかれるという地獄」 (p.202) なのである。

ではファッションとはそのすべてが消費の海の藻屑となり淘汰されてしまう消耗品なのだろうか。そうでないものは確実に存在し、目先が変わってもその基部は動かない。決してラビリンスではなく、整然としていてパースペクティヴを持っている。その原動力となるものはファッションに対する信念あるいは思想である。それが真のクリエイティヴなものであるのならば、消費されながらも厳然として残っていくものである。


鷲田清一/モードの迷宮 (筑摩書房)
モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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末尾ルコ(アルベール)

おもしろいですね~。わたしはどちらかと言えば、日本国内の「ファッションの流れ」に批判的ですが、しかしその中に魅力的な部分があることも理解しており、恋愛感情あるいは性愛感情と服装、そしてフェティシズムとの強い関係にも大いに興味あります。ついでに言えば、わたしは和服より洋服が好きで、さらに言えば、「洋服を着た欧米人女性」よりも「洋服を着た日本人女性」の方が好きです(笑)。   RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-06-25 12:32) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

制服がコスプレにつながるというのは、
鷲田先生が言っているわけではなく、私の勝手な解釈です。
そもそも1989年だと、まだコスプレも
今ほど一般的ではなかったと思いますし。
たとえばルーズソックスというのも
消費者側から発生したファッションメーカー非主導の流行ですが、
そうしたいわば反体制的なものに興味を感じます。

制服論の解釈として、
人には一定の規準に縛られたいという欲望と、
縛られたくないという欲望とが並列して存在すると思います。
つまりSになったりMになったりする……。(笑)
そうした動向を上手く使えばトレンドにつながるし、
逆の場合は極端にいえば思想統制にまで達します。
そしてこのファッションという言葉もまたメタファーです。
押しつけようとする上からの力、
押しつけられまいとする下からの抵抗、
これはひとりファッションに限りません。

ただファッションの場合は、ご指摘のように、
性愛とかフェティッシュな感情とか、
理性でなく感情に訴える部分が多いことは確かです。
そのファッションがなぜ良いのかということは
理性的な言葉だけでは解決できません。
欧米人より日本人のほうがいい、という例もそうですが、
それはただ 「それが好ましいから」 であって、
理論はないんですね。
そして理論がないけれどそれをなんとかしてかたちにする、
というのがファッションデザインであり、そこが面白いです。
by lequiche (2016-06-25 15:32) 

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