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ジスモンチとヴァスコンセロス [音楽]

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Egberto Gismonti, Naná Vasconcelos
Teatro del Parque Araucano, 2014.06.08

この頃、エグベルト・ジスモンチの初期のECMへの録音を聴いている。
彼のECMからの第1作は《Dança das Cabeças》(1977) であり、リリースされたのは1977年だが収録は1976年11月の3日間、オスロと表記されている。そのとき、ジスモンチは29歳であった。演奏はナナ・ヴァスコンセロス (Naná Vasconcelos) のパーカッションとのデュオである。

ECMという外国のレーベルで、しかも当時ジャズ系の演奏が主体だったレーベルからリリースすることは、ジスモンチにとって冒険だったのかもしれなかったが、結果としてそれは成功し、以後、ECMから作品を続けて発表することになる。ECMにとっても、そのサウンドカラーを印象づける重要な演奏家のひとりを獲得できたことになったと思える。
独特の奏法によるジスモンチのギターとピアノはすでに完成形にあり、この40年前のECM盤とごく最近の演奏とを較べても、彼の世界はほとんど変わらずに創り出されていることがわかる。

ジスモンチはブラジルで生まれ、子どもの頃にはクラシックを学んでいたが、次第にポピュラー音楽に目覚め、1969年に22歳でフランスに行き、ナディア・ブーランジェから学ぶ。ブーランジェはジスモンチに故郷ブラジルの音楽を生かした曲づくりをするように教える。
ブーランジェは曲づくりに悩んでいた若きアストル・ピアソラにも、彼本来のルーツであるタンゴを生かせと教えたが、それと同様である。

ジスモンチはフランス滞在時 (1969~1970年頃) に、ブーランジェ等から学びながらも、すでにマリー・ラフォレの編曲等の仕事をしていたが、彼女がフランシス・レイ作曲の〈Je voudrais tant que tu comprennes〉を歌ったのが1966年、彼女の最も活躍していた時期の一翼を担っていたといえる (この曲は1989年にミレーヌ・ファルメールが最初のライヴ En concert (1989) でカヴァーしたことで知られる。ラフォレのオリジナルはアルバム《Manchester et Liverpool》(1967) に収録されている。尚、アルバム表題曲の〈Manchester et Liverpool〉はアンドレ・ポップ作曲で、ピンキー&フェラスもリリースしていた。ノスタルジックな、いかにも60年代風のポップチューンである)。

さて、そのECM最初のアルバム《Dança das Cabeças》だが、トラックリストを見るとPart I と Part II とに別れていて、それぞれが幾つかの表題を持った小曲の集成であるような形態になっている。全体の雰囲気はやや抽象的で禁欲的であり、それはジスモンチのもともとの個性だけでなく、やや気負いがあるのではないかとも感じられる。あくまでジスモンチの個性が勝っていて、ヴァスコンセロスのカラーは少し薄めな印象がある。
私が連想したのは、まるで見当違いかもしれないが、曲のなかでのパーカッションの印象的な扱いかたとか、ややルーズな構成の長めの曲 (それは幾つかの曲をつないだものではあるのだが) というフォームなどから、すでに数年前にベストセラーになっていたキース・ジャレットの《Death and the Flower》(1974) のことであった。
もちろん曲想は全然違うし、ジスモンチはキース・ジャレットのようにポップではなく、やや取りつきにくい曲ではあるのだけれど、静寂からやがて音数が増して昂揚してゆくような流れは、《Death and the Flower》がそのもっとも典型的な例ではあるが、そうした傾向 (曲の持って行きかた) が当時は流行していたのではないかとも想像してしまう。その当時、ジスモンチが欧米系の音楽シーンをあまり知らなかったとは言え、まるで無関心だったはずはなく、売れ線であったキース・ジャレットの動向は意識していたのではないだろうか。
もっともこれも、いつも私が書いているように、21世紀から見た客観的というよりは冷静過ぎる耳で聞いた感想に過ぎないのかもしれないが。

ジスモンチがヴァスコンセロスをデュオのパートナーとして選んだのは多くのメンバーで演奏をするのに支障があり、ECMにとっても最も負担の少ないデュオという形態をとらざるを得なかった窮余の一策という面がある。
同じブラジル人として意気投合した2人は、その後も共演を繰り返した。《Dança Das Cabeças》以後のジスモンチ名義のヴァスコンセロスとのアルバムには《Sol Do Meio Dia》(1978)、《Duas Vozes》(1984) がある。またヴァスコンセロス名義のジスモンチ+オーケストラのアルバムとして《Saudades》(1980) がある。

ヴァスコンセロスは、たとえば下記にリンクしたジャック・ディジョネットのユニットで見せているような色彩感豊かな演奏が素晴らしい。彼の音楽のなかにはヴィラ=ロボスと同じようにブラジルの美しい鳥や動物たちがいつもずっと棲んでいる。

今年 (2016年)、ジスモンチとヴァスコンセロスはデュオとして来日し公演が予定されていたが、その寸前にヴァスコンセロスは急死してしまった。彼は多くの人たちと共演したが、それは音楽のジャンルを超えて、ブラジルの自然の美しい鳥たちと同じように、いつも、いつまでも自由である。


Egberto Gismonti/Dança das Cabeças (ECM Records)
Danca Das Cabecas




Egberto Gismonti & Naná Vasconcelos/Dança das Cabeças
Kaiser Bock Winter Festival 30/06/1996
https://www.youtube.com/watch?v=K1EwZPvdmvw

Nana Vasconcelos, Jack Dejohnette/Preludio Pra Nana
Montreal Jazz Festival
https://www.youtube.com/watch?v=cgFSt2jK7BE
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末尾ルコ(アルベール)

> すでにマリー・ラフォレの編曲等の仕事をしていたが、

そうなですか!マリー・ラフォレ。目がとても素晴らしい女優でした。フランスの場合、「女優と歌」が特別な関係にある気がします。
ジスモンチについてはあまり知りませんでした。キース・ジャレットとの比較など、とても興味深いです。またじっくり聴いてみます。    RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-06-29 20:02) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

昔は、女優は歌を歌うもの、
というような不文律 (?) があったのでしょうか。
当時はまだ分業化されていなかったのかもしれませんね。(笑)
もちろん今でも歌う女優はいますが、
絶対歌わない女優というのも多いように思います。

マリー・ラフォレとジスモンチに関しては、
ざっとwikiを読んだ範囲内のことですが、
fr.wiki のマリー・ラフォレの項には
ジスモンチとのことが書いてあるにもかかわらず、
ジスモンチの項目には、
彼がラフォレの編曲とか伴奏などをしたということは
ja.wiki にしか書いてないんです。
fr.wiki には名前が1回出てくるだけ、
en.wiki や pt.wiki にはラフォレの名前は出てきません。
つまりまだ彼も駆け出しだったので、
あまり触れてもらいたくない歴史なのかもしれません。

Je voudrais tant que tu comprennes という曲は
ミレーヌ・ファルメール・ファンにとっては特別な曲で、
それがマリー・ラフォレの曲のカヴァーだったというのが
一種の謎だったんですね。
そのことについては後年、ミレーヌが何かコメントしていましたが
どういうことだったか忘れてしまいました。(^^;)

ジスモンチもピアソラもナディア・ブーランジェ門下生ですが、
マリー・ラフォレはソラナスの《タンゴ — ガルデルの亡命》
に出ています。この音楽がピアソラなんです。

ブラジルとアルゼンチンという、どちらも南米の出身ですが、
ピアソラはともかく、ジスモンチも本国では有名だといいますが、
彼の世界的な評価が実際にはどの程度なのか、
私にはまだよくわからない状態といっていいです。
クラシックとポピュラーのボーダーラインっぽい感じもありますし、
少なくとも、キース・ジャレットとかチック・コリアのように
わかりやすい感じではないです。
by lequiche (2016-06-30 02:37) 

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