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瓶入りの手紙 — 大久保賢『黄昏の調べ』を読む [本]

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Claude Debussy (1862-1918)

書店で、音楽書の書棚を見ていたら 「買って!」 と言っている本があったので買ってきた。大久保賢『黄昏の調べ』という本で、「現代音楽はなぜ嫌われる?」 という帯が付いている。
黄昏の調べというタイトルがすでに意味深である。最初に書いてしまうと、つまり20世紀に最も隆盛を極めた現代音楽はすでに黄昏れてしまったというのがその結論なのである。

前半は現代音楽に至るまでの音楽の歴史の過程が描かれていて、シンプルでわかりやすくて読みやすい。音楽史の教科書のようである。現代音楽というものの定義も明快で、それは 「調性」 があるかどうかによる、というのである (p.26)。調性がないのが現代音楽、調性のあるのはクラシック音楽という分類法なのだ。大久保によれば現代音楽という語が意味するのは20世紀以降に書かれた前衛音楽のことであり、前衛とはつまり非調性と言い換えることができるともいう。だからラヴェルとかブリテンは調性があるので、20世紀の音楽であっても現代音楽ではなくてクラシック音楽であるとのこと。

さらに調性とはメジャー&マイナースケールとその上に生成される三和音に基づく音組織の体系であって、

 とりわけ重要なのは 「ドミナント和音 (ソ・シ・レ) → 主和音 (ド・ミ・
 ソ)」 (そして、その中に含まれる 「導音 (シ) → 主音 (ド)」) という連結で
 あり、これが句読点となって調性音楽の文章は綴られている。(p.40)

とある。この個所の註にはサブドミナントの性格に関する言及もあって、これとは視点が異なるけれども、この前、プリンスについて書いたとき、大谷能生がドミナント→トニックが強過ぎると書いていたことを思い出した (→2016年07月25日ブログ)。それはすべてを解決するモーションで、つまりそれこそが伝統的ヨーロッパ音楽の典型的な手法のひとつなのだとも言える。マイルス・デイヴィスがモードに新たなルートを見出そうとしたのも、この導音解決の押しつけがましさからの離脱に他ならない。

さて、上記のように現代音楽を定義してしまったので、その水源はたとえばスクリャービンとかドビュッシーに始まることになっている。ドビュッシーの和声の曖昧さを、機能的和声が生まれる以前、つまり中世~ルネサンス期の施法への志向があったと言い、そうした施法を拡大解釈していくことにより和声の機能を無効化したのだと分析している (p.52)。そしてドビュッシーの音は、アンセルメの言葉も引用しながら、調性でなく音響であるというように表現している (p.129)。
シェーンベルクとドビュッシーの対比 (シェーンベルクは協和音を意図的に避けようとしたがドビュッシーは和声進行そのものを無効化したのだという)、バルトークとストラヴィンスキーの対比 (バルトークはドビュッシーの影響を受けながらもヨーロッパ伝統音楽とハンガリー民族音楽の語法を共に尊重したが、ストラヴィンスキーは素材の切り貼りこそが方法論だとしたこと) という比較論もなるほどと思わせる。

そして現代音楽は、特に伝統的ヨーロッパ音楽の末裔として、より複雑に難解に高踏的に変化していったため、それに対抗する方法として、パロディ的な意味あいも想起させる引用/コラージュといった方法が出現してきたのだという。
コラージュの度合いと引用の多さとしてベリオの《シンフォニア》について言及し、そしてライヒを始めとするアメリカ系の反復技法 (≒ミニマル・ミュージック) の出現、そしてビートルズのミュージック・コンクレート的アプローチやフランク・ザッパ、セシル・テイラーなどのポピュラー・ミュージックにそうしたムーヴメントが影響して発展していくというのは、ごく表層的な辿りかたではあるが、それゆえに理解が容易である。

モートン・フェルドマンについての見方も興味深い。大久保はフェルドマンはクセナキスと逆に極端に少ない音でありながら、その 「音のありようが多義的 (≒曖昧)」 という。さらに庄野進を引用し 「フェルドマンの音楽は、まったくの無秩序でもなければ、厳密に構成し尽くされた秩序でもない」 と規定する (p.140)。
また、フェルドマンと同じように静寂が支配する作品でありながら、ルイジ・ノーノの《断章――静寂、ディオティマへ》(1980) に対して、同じ静けさでもフェルドマンのような静けさではなくて、そこに時々露出する暴力的な表情がノーノだとする。そうした緊張感は息苦しくもあり、本来享楽的であるはずの音楽という場を拒んでいるようにも見えるという (p.168)。
ノーノについて私は、著者も言うように、かつてポリーニの弾いた曲くらいきり知らず、フェルドマンとの比較となる沈黙に近い音の作品があるというのは意外だった (尚、フェルドマンについて私はすでに過去のブログで繰り返し書いた。たとえば→2013年03月19日ブログ)。

大久保のユニークな点は、必ずしも音楽系の人でないところから言葉を探してきて、それを音楽論としてとりこんでいることだ。たとえば哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットの音楽論から、今までの音楽は自分自身の中に引き起こす反響であったが、新しい音楽とは自己の外にある音楽であって、純然たる観照者となることだとか (p.128)、ジュリア・クリステヴァの記号論から 「どのようなテクストも引用のモザイクとしてできている。言い換えれば、どのようなテクストも別のテクストを取り入れ、変形したものだ」 という個所を引用し、そうした見方は音楽に敷衍できるとする (p.166)。

というようにわかりやすいけれど現代音楽史を、ある意味、淡々と解説しているようにも見えるこうした解説の果てに、巻末の結論的部分になるにしたがって、本書は俄然面白くなってくる。著者は現代音楽を愛しながらも、それが極端にわかりにくくなり、そしてその結果、孤絶した音楽となっていることに不満を表明しているのだ。そして現代音楽は能や歌舞伎のような一種の古典芸能だ、とまで言い切る。一定の枠組みや約束事や、そしてなにより世の中の動向から隔絶していることがまさにそうだと断言する。もはや現代音楽は contemporary ではなくtemporary (つかの間のもの) に過ぎないという。ああ、つまり一種の temporary file に成り下がっているということなのだろうか。

そして、ではどうすればいいか、という問いに対して、「芸術であることの程度を少しばかり下げること」 だと大久保はいう (p.208)。かつてモーツァルトの音楽は、ハイブロウな人にも一般大衆にも、同時に受け入れられていた。そのような処世術があるはずだというのである。そしてシェーンベルクは 「芸術は万人のためのものではない」 と言っていたが、しかし 「ものには限度がある」 と切り返すのだ。
即物的かもしれないが、わからな過ぎる特殊化し過ぎた音楽を少しはわかるように、と願う著者の考え方がストレートに書かれていて小気味よい。大久保は、現代音楽でなくて、現代の音楽を聴きたいというのである。
しかし一方で、リチャード・パワーズの《オルフェオ》のように、孤絶した環境だからこそ輝きを増す現代音楽というとらえかたもあるわけで、それは自閉的でもあるのだが、どちらに加担すべきか簡単に選択することは困難だ (オルフェオについてはすでに書いた通りである→2015年10月09日ブログ)。

それと、後書きにあるように、大久保は武満徹の《カトレーン》を聴いた衝撃から現代音楽というものに興味を持ち、そして深入りしていったという自らの過去を語るのにもかかわらず、日本の現代音楽家のことに全く触れていない。とりあえず重要な作曲家のひとりである武満に触れていないのはアンバランスであるように思う。
それは著者自身もよくわかっているし今後の課題なのだろうが、世界のなかにおける日本の現代音楽の立ち位置について、次の著作を期待したい。


大久保賢/黄昏の調べ (春秋社)
黄昏の調べ: 現代音楽の行方




Mitsuko Uchida/Debussy: Etudes
https://www.youtube.com/watch?v=nafCb9wId1c
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末尾ルコ(アルベール)

これは実に興味深く、特に今の日本には大切なテーマですね。
例えば「現代詩」という分野も、もはや超々マイナーな芸術として何ら力を持っていません。正直なところ、(これを一般の人に理解せよというのは無理・・・)という作品ばかり。ただ今の日本、何らかの作品に対する理解力だけでなく、「理解したいという気持ちも」希薄になり、いいものを作っても受け手がごく僅かという状況。クオリティを保ちながらより大衆にアピールする作品を多く作る必要性と同時に、「芸術の快楽性」そのもののアピールも大事かなと感じている次第です。RUKO  追記 シーナ&ロケットも大好きです!

by 末尾ルコ(アルベール) (2016-08-13 01:47) 

Enrique

「現代音楽」の定義はさておき,大衆にそっぽを向かれると衰退する,かといって大衆に迎合すると見透かされてしまうというジレンマを分析している様にも見えます。
日本の現代作曲家に触れていないのは,無評価なのか未評価なのか,バッサリ斬るのが難しいのか,どうなのでしょう。
by Enrique (2016-08-13 05:48) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

現代詩! そうですか。
確かにマニアックな感じは受けますが、
一般的な話題になるようなことはほとんど皆無ですね。
吉増剛造の新刊も書店で見ましたが、
面白いですけれど一種のフェティシズムだと思います。

理解力が低下しているというというご指摘もわかります。
確かに難解過ぎるのはよくないですが、
たとえば洋楽とか翻訳書を最初から拒否しているような風潮が、
残念ながらあるように思えます。それは鎖国と変わりません。
国際的視野とかいいながら実際には全く逆の傾向が見られます。
そうしたなかではシナロケなども理解されにくいようです。
by lequiche (2016-08-14 04:32) 

lequiche

>> Enrique 様

ジレンマはあるでしょうね。
音楽に限らず、どのへんにその平均値を設定すべきか、
ということなのかもしれません。

日本の作曲家については、この本の範囲では、
そこまで深入りするキャパが無かったというのが実情でしょう。
著者にとって、初めての単著だということで
制約があったのではないかと思えます。
ただ、武満にショックを受けたというのはわかりますが、
結局その作品に対する評価はどうなのか、ということが
明確にされていません。
武満は日本の作曲家云々以前に世界的な作曲家であるはずで、
音楽史的に見ても、たとえばノーノなどよりずっと重要です。
たぶん著者は、自分の文章を組み立てていく上で、
その構造のなかに入れにくいと考えたのではないかとも思えます。
読んでいる途中でそれがわかってしまうところがちょっと残念です。
by lequiche (2016-08-14 04:32) 

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