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エラートのブーレーズを聴く ―《Pli selon pli》 [音楽]

Boulez_rehearsal1969_160905.jpg
Pierre Boulez leads the CSO in rehearsal
for his Orchestra Hall debut concerts in 1969.

ピエール・ブーレーズの仏・エラート盤への録音は1980~1991年頃となっていて、ブーレーズは1925年生まれだから年齢的には55~66歳ということになる。60歳前後というとかなり後のように思えてしまうが、その後のグラモフォンへの録音から考えると、ブーレーズが亡くなったのは91歳だし、まだ若い頃 (といったら語弊があるかもしれないが) ということになる。

今まで私はブーレーズに関して、録音時期というのをそんなに意識していなかったのだが、「ブーレーズって齢をとったら丸くなっちゃって」 みたいなことを聞くと、じゃ、若い頃ってもっとトンガっていたのかなと興味が湧くのだが、でも、Sony Classics から以前に出ていた京都賞受賞記念エディションというCBS音源のはエラートよりもっと前のはずで、でもそんなにキツかったかなと思い出しても記憶がない。
しかも同一デザインのつまらないジャケットのソニー・クラシック盤をせっかく揃えたのに、その後、オリジナル・ジャケットのコンプリート盤として出し直されてしまっているし、う~ん、これってキリがないですよね。それがレコード会社の売り方といえばそうなんだけど。

でも、なにはともあれエラート盤を聴いてみる。
ストラヴィンスキーがdisc1から3、そして4と5がシェーンベルクで、disc12~14が自作曲という配列になっている。ところが中のパンフレットに Recording のリストがあって、一瞬、よくわからなかったのだが、時系列でのリストになっているのでこれは便利! 見ていくとメシアンのみが1966年の録音になっていて、それ以外が80年から91年に録られた演奏。そして《プリ・スロン・プリ》は1981年11月と表示されている。
ちなみに1966年はCBSでの録音の始まった年で、ベルクの《ヴォツェック》がそのCBSでのデビュー盤だったとある (ベルクのヴォツェックについては→2016年06月04日ブログを参照)。

シェーンベルクといえば 「シェーンベルクは死んだ」 という有名なブーレーズのフレーズがあって、『ブーレーズ作曲家論選』のなかにそのタイトルがある (→2015年06月28日ブログ参照)。そのためか ja.wiki には 「シェーンベルクの音楽に対しては次第に批判的になる」 などと書いてあるが、まるで皮相的な見方でしかない。もしそうだったら、こんなにシェーンベルクをとりあげて演奏するはずがない。ブーレーズの文章は常に持って回った言い方で情報量が多くて理解しにくいことが特徴であり、それが原因としてあるのかもしれない。

さて、《プリ・スロン・プリ》はブーレーズの作品のなかでかなり有名な1曲であるが、それは最初からそのかたちをしていたのではなくて、だんだんと増殖して最終形 (つまり pour voix de soprano et orchestre) になった経緯がある。
その根源となる曲は1957年の《écriture d'Improvisation I sur Mallarmé》だという。マラルメの詩を元にしているので、最初からソプラノの歌唱は固定されているが、それ以外に選択された楽器はハープ、ヴィブラフォン、鐘、打楽器とあり、まだ完全なオーケストラの形態ではない。ただ、鐘が選ばれているのは重要である。この曲の個性を示しているからだ。

一応のかたちとして5つのパートとなり、それを演奏したのが1960年のケルンということだが、完成形としては1960年版をさらにいじった1962年のドナウエッシンゲン・フェスティヴァルでの演奏あたりだと思っていいのだろう。
したがってCBS盤のブーレーズ指揮/BBC交響楽団とハリーナ・ルコムシュカのソプラノによる1969年録音がこの曲が固定されたその最初のディスクだということになる。

ソプラノの歌唱が重要であるということから連想されるのは、シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》であり、さらにいえば《弦楽四重奏曲第2番》である。第2番は1907年から08年にかけて作曲された弦楽クァルテットではあるが、弦の音の上に乗るソプラノということで、《プリ・スロン・プリ》にそのイメージ (つまりシェーンベルクの影) を重ね合わせるのはそんなに見当外れなことではないと思う。
ただ、前述したように、《プリ・スロン・プリ》で重要な意味を持つのは鐘であり、打楽器群の鋭い反応と呼び交わしがスリリングである。クリアな音はエキセントリックではなく、といってもちろん鈍重ではなくて、ブーレーズの意図する音が十分に形成されているような印象を持つ。
DG盤と聴き較べてはいないのだが、一聴してエラート盤のほうがシャープネスな印象がある。

唐突な比較をすればたとえば武満徹の音とブーレーズの音は全然異なっていて、ブーレーズのこうした音の扱いかたを聴くと武満の音はとても日本的だ。それは良い悪いというのとは全然違っていて、リズムのタイミング、それぞれの楽器の固有のクリアさ、重なって鳴ったときの響きなど、つまり打楽器の音の扱いに民族性が出るのである。
もっとも、以前、私はブーレーズの《リチュエル》について、作曲者本人の指揮より弟子のデイヴィッド・ロバートソンのほうがソフィスティケートされているというようなことを書いたが (→2012年11月16日ブログ)、それは時代性というよりも本来のブーレーズが持っていたテーマへの偏執性の差であって、本来の《リチュエル》はエグくてアクの強いものであるのかもしれないということに思い当たった。
だが逆に、下記の動画リンクのように、作曲者本人の指揮でない演奏のほうが客観的であり作品に普遍性が出てくることは確かである。それにそのほうが作品としての命脈も長くなるように思われる。

プリ・スロン・プリというタイトルは、ステファヌ・マラルメのソネット (14行詩のこと)〈ベルギーの友の思い出〉(Remémoration d’amis belges) からとられている。

 Que se dévêt pli selon pli la pierre veuve

ネットを探して、山中哲夫氏のマラルメに関する非常に詳細な分析を拝読した。remémoration という古語をわざと使ったり、selon も本来なら pli à pli であることなど大変参考になった。もっともその全体像は私には高度過ぎる内容であったが。

今回聴いていて《プリ・スロン・プリ》以外のブーレーズの作品のなかで秀逸だと思ったのは《Dialogue de l’omble double》(二重の影の対話/1985) である (タイトルに内在するDの連鎖、Lの連鎖、そしてbleの重なりなど、タイトルそのものが美しい)。pour clarinette et dispositif électronique と楽器が指定されているが (dispositif は英語で device のこと。「クラリネットと電子装置のための」)、単純にクラリネットを用いているわけではなくて、この楽器が各音域によりどのような音が出すのか、というのを見極めながら精緻なライティングをしている。クラリネットでありながら、その深みのある音色から、私が連想したのはもっと低い音域のバス・クラリネットを使うエリック・ドルフィのインプロヴィゼーションで、しかしそれよりも記譜するという冷徹な行為がある分だけ音はより緻密だ。
同曲は後年、バソン (1995) とフルート (2014) に編曲されている。


pliselonpli_1969analog_190905.jpg
Pli selon pri ジャケット (CBS盤1969年録音)

Pierre Boulez/The Complete Erato Recordings (Erato)
Pierre Boulez: The Complete Erato Recordings




ブーレーズ作曲家論選 (笠羽映子・訳、筑摩書房)
ブーレーズ作曲家論選 (ちくま学芸文庫)




Matthias Pintscher, Marisol Montalvo,
Orchestre du Conservatoire de Paris
Ensemble intercontemporain/
Boulez: Pli selon pli (Don)
https://www.youtube.com/watch?v=W56pQqEVetA
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末尾ルコ(アルベール)

> 「ムダにセクシー」 (笑)

(笑)ウケました!先ほどまでリンクの「完璧な脚」と歌を鑑賞しておりました。ライブで風船もって殿方がピョコピョコやってるのがさらにウケました(笑)。そして今、《プリ・スロン・プリ》を聴いております。この曲、深夜にまたじっくり鑑賞したい感じです。目を閉じて、マラルメの「火曜会」にでもいるつもりになって・・・。   RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-09-05 07:28) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

そうですか。ありがとうございます。
《プリ・スロン・プリ》のマラルメだけでなく
ブーレーズの代表作の《ル・マルトー・サン・メートル》も、
ルネ・シャールの詩が創作の際の元となっています。
彼の音楽における言葉の重要性がわかりますし、
音楽を不得意としたアンドレ・ブルトンの残滓を
かろうじてすくい上げた感もあります。
とはいえ音楽自体にはシュルレアリスムとの関係性は感じませんが。
by lequiche (2016-09-06 04:59) 

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