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アート・リンゼイを巡る人びと ― 別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉 [音楽]

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別冊ele-king第5号の〈アート・リンゼイ〉をぱらぱらと読んでみた。
アルバム《Cuidado Madame》はリンゼイの13年ぶりのソロアルバムだということで、そのプロモーション的な意味あいがあるのだろう。でも私はリンゼイについてはほとんど知らない。

cinra.netというサイトにリンゼイのインタヴュー記事があって、それによればリンゼイが初来日したのは1985年、トランペッターの近藤等則に招かれて、ファイブハンドレッドスタチューズというバンド名でツアーをしたのだという。メンバーはジョン・ゾーン、レック (FRICTION)、山木秀夫とのこと (Five Hundred Statues って五百羅漢ですね)。

近藤等則はアヴァンギャルドなジャズ・トランペッターでありながら、他のジャンルの演奏者と積極的にコラボした人である。フュージョンの古語としてのクロスオーヴァーでなく、わざと異種の音楽とのクロスオーヴァーにより刺激的な音を創り出すという考え方を持っていたようである。
たとえば浅川マキ《CAT NAP》(1982) とかエレファントカシマシ《東京の空》(1994) といったアルバムに参加している。

ファイブハンドレッドスタチューズの前年の1984年に、近藤はTOKYO MEETINGというイヴェントを主催したが、そのリストを見ると、ペーター・ブロッツマン、渡辺香津美のようなジャズ系の人とともに、ヘンリー・カイザー、坂本龍一といった、その頃まさに境界的なポジションにいた人たちが集められている。
その後、リンゼイは1985年の坂本のアルバム《Esperanto》に加わったり、繰り返し坂本と共演している。

しかしリンゼイのギターは単なるアヴァンギャルドではなく、その根本的な理念が異なっていることが注目すべき点である。たとえばギタリストだったらヘンリー・カイザーはそのエフェクトを含めて十分に変態だし、デレク・ベイリーはアヴァンギャルドの典型ではあるが、そのギターテクニックそのものは伝統的なジャズを踏襲した手法であり、一種のアカデミズムがそのルーツである。たとえば恒松正敏だったらベーシックはロックであり、ハウリングやカッティングのヴァイオレンスさがパンキッシュではあるが、そこから見えてくるコンセプトがアヴァンギャルドであるだけで、出音は尖鋭ではあるがアヴァンギャルドではない。
しかしリンゼイの11弦ギター (12弦から1本足りない) から出てくる音はノイズであり、それはチューニングをしていないというウソか本当かよくわからないセッティングのためである。

そうしたアヴァンギャルドさのスケールから見た場合、デレク・ベイリーの最もアヴァンギャルドな演奏は、楽器としてのギターの通常の音が出ていないemanem盤のアンソニー・ブラクストンとのデュオ (1974) であると思う。
そしてベイリーの80年代のアルバムにはジョン・ゾーン、ジョージ・ルイスとの《Yankees》(1983/Celluloid) があるが、つまりこの当時、ジョン・ゾーンというのはトレンドとして存在していたような印象がある (私はジョン・ゾーンがよくわからないので、なんともいえないのだが)。

さて、本に戻ると、アート・リンゼイとカエターノ・ヴェローゾの対談が掲載されている。2人のしゃべりかたは非常に親しい人同士の、途中を省略した会話だから、わかりにくいかもしれないがとても心に響く。たとえばリンゼイは、

 ナナー (ヴァスコンセロス) にいったんだよな。ボレロをつくってよと。
 彼は 「いや、ボレロなんてやらないよ」 って。あのときどうして言い張
 ったのかわからないけれど。ボレロはラテンのクリシェだよね。彼はな
 ぜだか、ラテンに対してアンチだったんだよな。(p.130)

ボレロはラテンのクリシェだと言い切ってしまっているので、え、そうなのか? と思うのだけれど面白い。
ナナ・ヴァスコンセロス (Naná Vasconcelos) はエグベルト・ジスモンチとの共演などで知られるパーカッショニストであるが、古いジャズのアルバムではガトー・バルビエリの《Fenix》《El Pampero》(共に1971) にも参加しているベテランであった。
リンゼイとは《Bush Dance》(1987/Antilles) にピーター・シェラーと参加したが、これはヴェローゾの《Estrangeiro》(1989) への布石だったと説明されている (p.135 注06)。

対談の最初のヴェローゾの話題はクロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』(Les mythologiques, 1964-71) の冒頭のことである。その冒頭のovertureに関してのアウグスト・デ・カンポスがヴェローゾに言ったとされる批評に興味を引かれる。

 するとアウグストは 「レヴィ=ストロースは知的な人物だ。彼はしかし、
 興味深いことに、推論を披露している。(p.129)

さらにヴェローゾは重ねて、

 いかに推論をかさねても、人は音楽そのものにはたどり着かないのだと
 彼 [カンポス] はいいたかったのだと思う。(p.130)

ヴェローゾはデ・カンポスの言うように、推論、つまり頭のなかで考えていることよりも現場主義の優位性を説くのだ。
対するリンゼイは音楽のノイズに関して、こう言う。

 話はアウグストがいったことに戻るけど、彼がいうにはノイズは音楽が
 それを求めるということだよね。(p.130)

ノイズのことは菊地成孔がそのinterviewのなかで呼応するように発言している。

 ピアソラだってタンゴにノイズを持ち込んだひとですよ。ヴァイオリン
 の弦をギュキュキュって鳴らしたり、グリッサンドとか高い位置でのダ
 ブル・ストップとか、弦の凶暴化という意味ではアート・リンゼイに近
 い。(p.092)

リンゼイにはキップ・ハンラハンとの共演アルバムもある。キップ・ハンラハンは後年プロデュース業となってアメリカン・クラーヴェというレーベルを作り、晩年のアストル・ピアソラをリリースした (《Tango: Zero Hour》(1986) など)。

ヴェローゾのボブ・ディランに対する見方にも興味を引かれる。ヴェローゾはアメリカのレイシズムの変遷をアメリカ人のルールという持論にからめて次のように言う。

 彼 [ボブ・ディラン’] はエレクトロニックな音楽に偏見をもっていたけ
 れど、発展していって、有名になったときにはロックだったんだ。その
 経緯は消えるんだ。もう彼はロックだとなったら、過去にどうだったか
 関係ない。それはブラジルでは起きないことだよ。よい意味でも悪い意
 味でも。(p.132)

つまりディランがエレクトリック・ギターを持つまでの葛藤と、最初にディランがアコースティクでない楽器を持ったことに対して批判していた人たちとその現象も、有名になってさえしまえば、すべてすっ飛ばしてしまえる、というようなことである。

リンゼイがジャン=リュック・ゴダールの映画を例にとってその音楽を語っている部分もある。

 それから、映画の世界でいえば、ゴダールがやったようなことを音楽で
 やる難しさとか。他の情報を挿入して、そのものを壊して、だけどその
 作品の魅力を失わないみたいな。モンタージュ的なことだよね。彼の映
 画はとても抽象的でいて、だけど映画のロマンスを保っている。それっ
 て曲づくりではとても難しいと思わない?(p.133)

今福龍太はそのinterviewで、自分のプレゼンテーションの際、いままでのお決まりの方法でなく、ビジュアルや音楽を使う方法を考え出しそれを実践してきたと述べる。そういうとき、リンゼイとともに使ったのがジスモンチであったと言うのだ。

 もっともよく使ったのはエグベルト・ジスモンチですね。彼の音楽には
 ユニバーサリティというか普遍性があります。(略) ジスモンチはギター
 でもピアノでもパーカッションでも、特定の楽器に過度にヴィルトゥオ
 ージティを求めることをしない。にもかかわらず、ピアノにしてもギタ
 ーにしても途方もないテクニックですから誰も真似はできないけれども。
 マニアックにひとつの楽器に沈潜するというよりは、ギターでもピアノ
 でも、音楽、あるいは音そのものがもっている普遍性に到達する。楽器
 の歴史的・文化的な固有性を超え出てゆく自由さといったらいいでしょ
 うか。(p.096)

今福はメキシコやブラジルに住んだことがあり、ブラジルはその土地が広大であるから場所によってまるで異なる国のようにいろいろな表情を見せているとのことだが、そのなかでレペンチスタと呼ばれる民衆的な吟遊詩人の話が心に残る。口伝えに歌で伝えていくそれこそがバラッドであり、そうした歌を聞き取り、小さな冊子にして一番で紐にぶら下げて売られるのがブラジルの民衆文学リテラトゥーラ・ジ・コルデル (紐の文学) であるという。

リンゼイの過激なギターワークと、まったく対照的な柔らかな歌唱との間にはどのような親和性があるのだろうか。しかし不思議にもそれはギャップではなく、融合している。そしてそのおおらかさのようなものがブラジルという土地に依存していることは確かだ。
また、リンゼイがジョン・ケージに対してどのような視点を持っているのか知りたいところだ。ケージとリンゼイの音楽はまるで異なるが、ジスモンチと違った意味で過度なヴィルトゥオージティを求めないということではなんらかの共通点があるのかもしれない。


別冊ele-king第5号〈アート・リンゼイ〉(Pヴァイン)
別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒 (ele-king books)




Arto Lindsay live
https://www.youtube.com/watch?v=GkPQPDIO1qA
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末尾ルコ(アルベール)

>ブラジルという土地に依存していることは確かだ。

確かにそのような感触。歌からギターをかき鳴らすアクションへの移行は『ジキル博士とハイド氏』のようでもありますね。近藤等則はかなり聴いてました。カッコよかったです。テレビCMへも出てましたね。テレビのトーク番組へ出ていた時に、「ポップミュージックの凄さ」について力説していたシーンをよく覚えています。それにしてもメンバーにジョン・ゾーンもとは凄いです。坂本龍一の《Esperanto》も繰り返し聴いていたアルバムです。でもアート・リンゼイについてはほとんど知りませんでした。レヴィ=ストロース、ピアソラ、ディラン、ゴダールらが飛び交う音楽対話も刺激的です。未知のミュージシャンの名前も何人かお見受けし、また楽しみにチェックしてみたいと思います。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-02-25 12:01) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

ジキルとハイド、言えてますね。
もっと過激な動画があるのですが、抑え気味にしてみました。(^^)

「ポップミュージックの凄さ」 ですか。
なるほど、そういうこと言いそうですね。
逆に近藤の音楽は分かりそうでいて分かりにくい、
という面もあるかもしれません。本性が見えにくい感じです。
日本のジャズトランペッターでいえば、
日野皓正から沖至までのグラデーションの中から
少しズレているように思えます。

リンゼイは《Esperanto》でも《未来派野郎》にもいるんですね。
この頃から坂本龍一に重用されているということを
今更ながら知りました。
でも言われなければわからないという感じです。

ヴェローゾはリンゼイとの対話のなかで
『悲しき熱帯』にも言及しています。
レヴィ=ストロースはもちろん重要ですが、
レヴィ=ストロース的視点がより重要だということでしょう。
文化人類学的関連から今福龍太が選ばれているのも
的確です。
Pヴァイン、がんばってるな、と思いました。
by lequiche (2017-02-25 23:04) 

うっかりくま

難しい言葉がいっぱいで・・ゆっくり読ませて頂きます(^^;)
レヴィ=ストロース・・そんな世界から遠ざかって久しいです。
lequicheさんの記事に出てきた中で初心者でも聞きやすそうな
キース・ジャレットのマイ・ソングを購入してみました。
ボサノバ好きの息子が目を点にして聞き入っていました(笑)。
カルテットへのコメント、嬉しいデス。有難うございました。
自分はいい加減な事しか書けないのでお恥ずかしい限りですが
先程、返信コメントをちょっと訂正しております。

by うっかりくま (2017-02-26 11:18) 

lequiche

>> うっかりくま様

むずかしいというよりちょっとマニアックかもしれませんが、
固有名詞は具体的な連想のための補助に過ぎませんから、
わからない名前があったら無視してください。(^^)

レヴィ=ストロースもアート・リンゼイも
ブラジルに住んでいたことのある外国人という括りで、
それをブラジル人のヴェローゾが見た場合どうなのか、
という視点があるのだと思います。

《マイ・ソング》は聴きやすいアルバムですね。
音楽としてのやさしさに満ちていると思います。
通俗なのかもしれませんが、
たとえばモーツァルトの名曲なんて皆、通俗ですから。

カルテットLoveなのは、私が弦楽四重奏曲が好きだから
という面もあると思います。
弦楽四重奏曲は、最も基本的でシンプルな楽曲構造ですし、
4人のせめぎあい、という特徴もまるでドラマのようです。
そして芸術というのは非日常性の領域にいるので、
芸術と日常生活のバランスをどこでとるか、
というのも人それぞれに異なるようです。

最近、「リア充」 などというイヤな言葉がありますが、
リアルが充実しているのならば芸術なんていらない
というのは真実でもあり同時に虚偽でもあります。
そこで揺れていたのが真紀さんで、
でも真紀さんのような人がそういうポジションで
ずっと満足できることはありえないわけで、
けれどそれを無理矢理納得させようとすればできてしまう、
というのが芸術の脆さでもあると思います。

ただ、松たか子が体現する真紀さんという人物像より
松たか子自身のキャラのほうが勝ってしまうため、
こんな人いないよなぁ〜、とか思ってしまう部分はあります。
イチゴ大福を8個にしようか12個にしようかなんて、
松たか子≒真紀さんは言いませんよね。(^^;)
by lequiche (2017-02-26 15:56) 

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