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透明なものと不可視なもの ― 嵯峨景子 「“トーマ”の末裔たち」 について [ファッション]

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深津絵里 (1990)

「なぜジルベールではなく、トーマなのか」 と書かれても、何を今さら、と思ってしまうのだが、その何を今さらという認識は直感に基づいたものであり、直感は 「もの」 の本質を最も効率的に射抜くものではあるのだけれど、しかし理詰めにして、これまでの行跡を整理してみることも必要なのだ、とあらためて思ったのが、嵯峨景子の 「“トーマ”の末裔たち」 というコラムを読んだ感想である。

と、結論のようなものから先に書いてしまったが、 「何を今さら」 が必ずしも一般的な共通認識としてはまだなりえなくて、しかも時代が移ってしまい、それが形骸化していくのだとすれば、少年愛とか、やおいとか、ボーイズラブという言葉でくくるのではなく、マニアックではない地平で分析してみる方法をとらなくてはならないということなのだと読める。

嵯峨は次のように書く。

 私は少年好きではあるが現実の美少年に対する執着は薄く、マンガや小
 説を中心に虚構の少年像を追い求めている。

それゆえに、リアルな写真集などよりいわゆる2次元や、小説のような文章表現のなかにこそ関心を持つというのである。そうした感覚が、ジルベールでなくトーマ、という選択につながる。

 求められるのはジルベールの生身の体に刻まれた性の匂いよりも、性が
 背景に退いた、虚構としての透明な身体であることが多い。一方、トー
 マが遺した詩には 「性もなく正体もわからないなにか透明なもの」 とい
 う印象的な一節が記されている。『トーマの心臓』では、性の入り口に
 佇む肉体を有しつつも、傷ついた魂を救済する精神性へと向かう少年た
 ちの姿が描き出されている。

そうしたギムナジウム的世界観をファッションを通して見た場合、重要なのはリボンタイのような制服的なアイテムであり、また映画《1999年の夏休み》をその様式美のひとつであると指摘する。そこで嵯峨によってあげられているのが靴下留め (ソックス・ガーター) である。
男性における靴下留めは本来、長ズボンの中で靴下を吊るという用途で使用されるもので、見えないものである (なぜ靴下を吊るのかというと、昔の靴下は履き口にゴムが入って折らず、そのままだと落ちてしまうからである)。
ところが、それを少年の穿く半ズボンで使用すれば見えるものとなる。こうした移行はマニアックでフェティッシュなアイテムだが、それを採用する2次元キャラは多く、そして実際のファッションにも援用されているという。
嵯峨は、少年という表象に結びつけた早い事例として四谷シモンの人形 「ドイツの少年」 を挙げている。

 裸体であるため必然的に言える形で装着された靴下留めは、実用的な機
 能を離れ、オブジェめいた装飾性と拘束感が際立っている。

この場合、少年という表象といいながらも、それをファッションとして使用するのは少年や成人男性ではなく、少年的なファッションを好む少女である。《1999年の夏休み》はトーマを原案とした作品であり、しかしながら少年を少女が演じ、そして声はまた別の声優が担当するという、何重ものフェティシズムによって形成されているのだ (と、この重層さをあえてフェティシズムと断定してしまおう)。
女性用の靴下留め (ガーター) は、ふとももまでのストッキングを吊るものであり、これも本来は見えてはいけないものであったが、それをわざと露出させるセクシャルな方法論、あるいはショービジネス的なアイデアがあり、単純に考えれば、その男性版に過ぎないともいえる。
こうしたフェティッシュ系のファッションは多分にコスプレとの関連性もあり、それがごく狭い世界にとどまるか一般的になっていくかは、その時代の流れによる。オーバーニーソックスなどは以前は多分にコスプレ的であったが、いつのまにか一般的なアイテムとしてのポジションを獲得した。
また、見えてはいけないものが見えてもよいものに変わっていくアイテムには、たとえばキャミソールがあげられる。

近代の女性のファッションは男性のファッションを盗用することによってそのテリトリーを拡大してきた。トレンチコートも、タンクトップも、ライダースジャケットも、そして半ズボンもそうである。というより、ズボンそのものが本来は男性のファッションであった。

ファッション・ブランド名で少年を連想されるものをあげるのならば、まず思いつくのは COMME des GARÇONS (コム・デ・ギャルソン:少年たちのように) である。ファッションの傾向は少年性とは何の関係もないが、その名前は少年を冠している。ギャルソンにはオム (メンズ) もあるが、紳士服であり、ファム (レディース) と同様に少年性が顕れているわけではない。
またファムにはアヴァンギャルド性があるが、オムにはそうした方向性は基本的にはない (と以前、川久保玲は言っていた)。
ギャルソン以外でも EASTBOY とか PAGEBOY というようなブランドがあるが、いずれもレディース・ブランドであり、少年用のラインは存在しない。boyをブランド名に用いたのは単なる精神性であって、具体的な少年ではないのである。

古くからのアパレルであるジュンにはJUN (メンズ) とROPÉ (レディース) という2大ブランドがあるが、以前にはROPÉのプロデュースするDOMONというメンズブランドがあった。単なるメンズブランドとレディースブランドがプロディースするメンズブランドは違うのである。さらにROPÉのプロデュースする george sand というレディースブランドが存在したが、これは名前が表すように、男装の麗人的なデザインをコンセプトとしていた。テールコートのような側章のあるパンツとか、メス・ジャケットなどである。

嵯峨が (おそらく古書で) まとめて大量に買い込んだというボーイズラブ系の雑誌『JUNE』とか『小説JUNE』は、当初『JUN』というタイトルで創刊されたが、たぶん前述アパレルのジュンからクレームがありJUNEに改名したのではないかと思われる (これは想像だが)。出版元はゲイ雑誌を出していた会社であり、それを知ったとき、幻想と現実の振り分けかたに感心したものである。

イタリアのブランド DIESEL にはメンズ、レディース、キッズの展開があるが、レディースの打ち合わせはほとんどが右前 (男性用と同じ) である。そのテイストを狙う国内のアパレルであるバロックジャパンリミテッド (moussy、SLYなどのブランド) も右前であることが多い。わざとメンズライクななかで女性的な雰囲気を出そうとするコンセプトであり、これも一種のフェティシズムなのかもしれない。
Hysteric Glamour もレディースは多くが右前だが、ややフェミニンに傾く場合、左前が存在する。その他のブランドでも、右前、左前が混然としていることは多い。それはカジュアルの基本が男性ファッションからの転用であるからであり、メンズライクをきわめれば当然、打ち合わせもそうなるのである。ボーイズデニムという言い方も、わざとちょっとゆったりとした、不良っぽい少年をイメージしたレディース・アイテムである。

しかしその逆は存在しない。男性ファッションにスカートを持ち込もうとしても、それはごく一部のアヴァンギャルドにとどまり、普遍化されることはない。
同様にして、girlという言葉を冠した男性ブランドも存在しない (たぶん)。

《1999年の夏休み》については以前、PASCOのCMに関連して深津絵里を検索していたとき、偶然知ったのだが (→2017年04月29日ブログ)、それが今回もでてきたのでちょっと驚きである。
脚本の岸田理生は寺山修司との関係性において、そして音楽の中村由利子はジブリの《星をかった日》の音楽も担当していたことを知った (→2013年09月18日ブログ)。ときとして意外なつながりが発見できるものである。

ただ、竹宮惠子は、彼女の描いた少年について、少年は少年でなく少女であると過去に語っていた。それが真実なのか、それともそれは 「はぐらかし」 なのか不明である。このへんはまだずっと未消化のままである。

引用元:嵯峨景子/ 「“トーマ”の末裔たち」 (ちくま2017年5月号~7月号・筑摩書房)


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コメント 6

うっかりくま

ファッションについての考察、面白いですね。
「トーマの心臓」の、少女漫画でありながら
男女間の恋愛とは次元の異なる哲学的な問い
かけや精神性が感じられる所、武士道精神にも
通じるある種のストイックさが好きだったので、
自分も多分、嵯峨さんと同じくトーマ派です。
が、「少年の名はジルベール」を読んでから竹宮
さんの漫画も違う見方が出来て興味深かったです。
1999年の・・は見ていませんが、カルト的人気の
ある作品のようだし、深津絵里は巧い役者さんだし
凝った構造になっている・・これは必見ですね。
lequicheさんのナビゲートでいろいろ読んだり
聞いたりさせて頂いて世界が広がるのは楽しいです。
毎度の事ですが、教えて頂いて有難うございます。
by うっかりくま (2017-07-08 21:18) 

lequiche

>> うっかりくま様

1999年における未来的なアイテムを
嵯峨先生はガジェットと表現していますが、
懐旧的なものと近未来的なものを取り混ぜて
それら全部をガジェットと規定することも可能なのでは、
と私は思います。
つまり靴下留めもひとつのガジェットです。

靴下留めというのは細か過ぎないか、
という疑問もありますが、
コスプレ系とか、たとえばゴスロリみたいな
マニアックなファッションの流れのなかでは、なぜこれが?
というアイテムへの偏重が往々にしてあるように感じます。
この前も書きましたけれど、
たとえばヴィヴィアン・ウエストウッドの
アーマーリングなんかもそうです。

トーマというのは作中に出てくる言葉が非常に重要な気がして、
たとえばカールスルーエという地名が
いつまでも記憶に残っていたり、
エーリクをどなる先生が、リルケのことを
ライオネル・マリア・リルケと撥音していたりすること、
これらは細かいことなのですが印象が強いです。
つまりそれは靴下留めと同じで、そのもの自体は些細なのだけれど、
全体から見た場合、何か別の重要性があるのではないか、
というふうに思ってしまいます。

ただ、萩尾とか竹宮の作品は、
たとえば池田理代子とか大和和紀と違って、
演劇や映画にトランスレートするのはむずかしいように感じます。
なぜならそうしたストレートなマンガとは
文法が異なるからです。
過去に私はマイナーな劇団のそういう痛々しい演劇を観て、
こっちのほうが恥ずかしくなるようなこともあって、
近づいてはいけないみたいな私の内面の禁忌があります。(^^;)

ですから今度、宝塚で『ポーの一族』をやるそうなんですが、
ずっと拒否していた萩尾先生が今回OKを出されたとのことで、
大丈夫かな、という思いと、もしかするとうまくいくかも、
という期待とがないまぜになっていますね。
深津絵里の少女の頃の少年っぽさと現在の女優の顔の落差も、
宝塚現役vs宝塚OGの対比に似てます。
by lequiche (2017-07-08 22:14) 

末尾ルコ(アルベール)

こうして見ると、深津絵里もずいぶん変わりました。今の深津絵里は日本を代表する女優の一人と言ってよく、本当に美しいのですが、若き日のあらゆる要素が未熟だった深津絵里だからこそ表現できたものがあったのでしょうね。演技的にも未熟だからこそ出てくる魅力というのもあって、そこが映像のおもしろさでもありますね。そう言えば、『時をかける少女』も原田知世も演技ができたとは言い難く、そしてかえってそこが魅力になっているからこそ、あの映画が普及のカルト作品になっているのでしょうね。
フェティッシュな感覚はわたしも濃厚に持っておりまして、男性の靴下留めについてはあまり明るくありませんが、「女性用の靴下留め (ガーター)」には少年時代にたいそう憧れました。それはもちろん洋画の女優たち、しかも誰でもいいというわけではなく、ごく一部の選べばれた女優たちが着用する靴下留めのみにエロスを感じるという類いのものでした。日本人女優に靴下留めが似合う人がいるとは感じられず、欧米の女優でもごく一部という、思えばわたしなりにですが、妙に嗜好のはっきりした(笑)少年だった気がします。それだけに、「流行っているものさえ着てればいいんだろ」という人たちのファッションには時に怒りさえ(笑)感じるのですが、特に気に入らないのが(笑)昨今の男性ファッションなのですが、まあもともと女性美を崇拝したくなる方なので、道歩く男性たちはなるべく見ないようにしております(笑)。

前のお記事の「通俗」に関して言えば、「トルコ行進曲」とか、わたしけっこう好きです。「トロイメライ」なんかも。NHKの「名曲アルバム」にリストアップされるような曲は、聴くタイミングによってとても心に染みてくる力がありますね。

>ヴァーツラフ・ハヴェルだと思います。

なるほど。チェコやルーマニアの民主化運動の際には食い入るようにBSを見ていたので、何やら感慨があります。

>英語は流暢にしゃべれるけれど、しゃべるべき内容が無い

これ、わたしも凄く言いたいことの一つで、以前はよく英会話教室的な場所に通っていましたが、生徒さんたちの多くの「話題のなさ」には心底辟易しました。でもこれが、日本人の英会話の現実なのですよね。

映画館に関するコメントもありがとうございました。予告編は昔からありますが、地元の食べ物屋とか、そういうのも含めてご愛敬だったし、多くの予告編は楽しみで観ていました。けれど昨今、特にシネコン系は、「商売」以外に頭がないような予告編の入れ方で、かなり暴力的だと感じています。YouTubeの動画もCMの多いものが増えてきましたね。わたしはあらかじめCMが多いと分かるものはスルーすることが多いです。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-07-08 23:26) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

未熟とか若いからこその魅力というのはありますね。
それはもう二度とそこに戻れない不可逆性ゆえの
魅力となって残るのだと思います。
時をかける少女のキーワードとなる言葉は尾道で、
あれは一種の幻想としての尾道です。
トトロの七国山と同じで、言葉自体では何でもなく、
でも一種の触媒として作用しているんだと思います。

ガーターの似合う女優への憧れ!
ずいぶんオマセさんだったんですね。(^o^)
でも、確かにフェティシズムというのはごく限られた
小さなものへの偏執ですから、正当です。

ファッションは今年の流行という誘導が毎年あって、
それがなければビジネスとしての流行は動かないけれど、
でも流行だけに流されたらファッションではない、
という二律背反な関係があります。
誰かが言っていたのですが、
自分にとって気に入らないファッションが
流行っているときはなるべく待避してスルー、
というのが正しい対処法だと思います。
男性ファッションについては私は専門外なので (^^;)
よくわかりませんが、
現在のメンズのトレンドは
トレンドとなるべきポテンシャルに達していません。
それはファッションの必然性が乏しいからです。

通俗曲の優れているところは、
たとえばトルコ行進曲はどんなに崩しても
シンセ用に編曲してもトルコ行進曲なのです。
本当はK331ソナタの第3楽章に過ぎないのに、
それだけで独立してしまっているところに
モンスター的な存在感があります。

東欧の複雑さと変遷は興味がありますが
深く知れば知るほど、しんどいですね。
以前、デヴィッド・ギルモアの
グダニスク・ライヴのことを書いたのですが、
あれはグダニスクの造船所でやったところに
意味があるんです。

英会話には、発音さえよければ内容はなくてもよい、
という価値観で成り立っている人たちがいるみたいです。
卓球の練習で球を打ち合っているようなもので、
単なる反復運動です。

ああ、なるほど、シネコンですか。
つまり方法論が変わってきているんですね?
実は映画館がシネコンというようなシステムを
導入した頃から私は映画館に行っていないと思います。
同様に演劇も、です。
なぜか隣席とか前後の席の観客が気になって
ダメなんです。
by lequiche (2017-07-09 01:06) 

トロル

周回遅れですみません。
昨年、「ポーの一族」続編が描かれると聞いて、
雑誌争奪戦から、長崎在住の友人を経て手に入れた時、
続けて「トーマの心臓」番外編 「訪問者」を読み、
滂沱として涙が止まらなかったのを思い出しました。
作品の中でわたしは、
いつもオスカーのようなタイプに癒されます。
この度の話、宝塚でどんな風に作品にされるか、想像の上を行くか、
萩尾望都先生も見ておいてもよい心境になられたのかもしれませんね。気持ちの余裕というか…^ ^
by トロル (2017-07-11 13:24) 

lequiche

>> トロル様

いえいえ、全然OKです。
フラワーズを手に入れられたというのはすごいです。
私は増刷した分も瞬間的に完売で、買えませんでした。
でも『訪問者』は最初に出たハードカヴァーを持っています。

オスカー・・・なるほど、そうですか。
ユーリ、エーリク、オスカーという組み合わせですが、
3人というのは物語構成上の基本的なカギなんだと思います。
たとえばカラマーゾフの兄弟も3人ですし、
キャラ的にはもちろん異なりますけれど3者3様の性格があり、
アリョーシャが結局エーリクなんです。

やはりNHKの《漫勉》に出演されてから、
萩尾先生に対する評価もあらためて随分出て来ましたし、
先生自身が何か吹っ切れたような感じを受けます。
宝塚がどのように脚色したとしても原作は揺るぎないですし、
逆にどう料理するのか楽しみですね。

萩尾先生は遊眠社に《半神》を提供する以前から
演劇には興味があったようですし、
私は半神以前の遊眠社の公演のロビーで
萩尾先生を2回ほど見かけたことがあります。
でも誰も気づいていないようでした。
by lequiche (2017-07-12 05:33) 

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