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ヴァーツラフ・ノイマン ― ドヴォルザーク《交響曲第8番》 [音楽]

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Václav Neumann

『のだめカンタービレ』でドヴォルザークの第5番を千秋が振る話が出てきて 「何をマニアックな」 というような言い方がされていたことを覚えているのだが、それまでの少女マンガにおけるいかにも有名曲という選択肢から外れた選曲で、マンガのなかで扱われる音楽のステップがひとつ上がったような感じがした。

ドヴォルザーク (Antonín Leopold Dvořák, 1841-1904) は《新世界より》があまりにも有名過ぎるし、下校時刻の定番の音楽みたいなイメージがあるのだが、弦楽四重奏曲《アメリカ》などとともに、その胸に沁みいるセンチメンタルなメロディが色褪せないのはなぜなのだろうか。
ドヴォルザークの交響曲は、特に《新世界より》には山ほどの種類のCDがあるが、前半の番号の曲を聴きたいとなると、全集盤に頼らざるを得ないことが多い。私はずっとヴァーツラフ・ノイマンの1981~87年の録音によるコンプリート盤 (日本コロムビア盤) を愛聴していたが、それを聴いて識ったのが第1番で、これもまた私の好きな若書きの習作であり、未熟だけれど清新な初期作品として偏愛するに足る曲である。楽譜は紛失したことになっていて、ドヴォルザークの死後、ずっと経ってから発見され演奏されるようになった。標題の 「ズロニツェの鐘」 は彼が子どもの頃に暮らした町の鐘のことを指す。

しかし交響曲はやはり後期のほうが作品としての完成度は高い。高いけれども十分にセンチメンタルであり、通俗であり、でもストレートでありながら深い曲想を持っている。
そのなかで第8番は、疲れたときに最も心を癒やしてくれる曲のように思えて、ひとり感傷の褥に沈むのである。

第8番はG-durであるが、第1楽章はいきなり短調で始まるし、そして第3楽章 Allegretto grazioso も同様に短調である。それはg-mollの3/8拍子の悲しみのワルツである。

ヴァーツラフ・ノイマン (Václav Neumann, 1920-1995) には、1968~73年にかけてスプラフォンに入れた録音もあり、この古いほうの録音のほうが良いとする意見も多いようだ。1968~73年録音はノイマン48歳から53歳、1981~87年録音だと61歳から67歳ということになる。人間は多分に、最初に聴いてしまった演奏を最高とする傾向があり、それは初めて刷り込まれてしまった音源がどうしても一番強く記憶に刻まれるからではないか、と思われる。それは過去の自分の経験からも類推できるのである。

それでともかく、古いほうの録音も手に入れてみた。捷スプラフォンのコンプリート盤《Dvořák/Symphonic Works》である。どちらのほうがよいかという意見はネットなどをざっと見ても百家争鳴、かまびすしきかな、という状態だが、はっきりいってそんなに違いは無い。同じ指揮者でオケも同じ、ただ録音された時期が違うだけなのだから、そんなものだろう。雑な感想なのかもしれないが、そんなに違ったら逆に困るのではないか。その十数年の間に音楽に対する姿勢に大転換がない限り、そんなに変わるはずはない。
当時の政治情勢によってその緊張感に違いがあるというような意見も、もっともなようにみえてそうでもない。それよりも具体的な録音時の状況とか機材とか、もちろん指揮者やオケの精神的・肉体的状態のほうがファクターとしては大きいのだと思う。
むしろ本来、聴き較べするのなら違う指揮者、たとえばケルテスとかと較べてみるのが妥当なのだろうけれど。

ただ、聴いて最初に思うのは、1回目の録音は大変良い音に録れているのだが、かすかに紗がかかっているような感じがする。録音時期が古いこともあるが、それよりこれがチェコ盤であることが影響している可能性はある。日本盤だったら少し違うのかもしれない、と思うのである。デジタルはアナログと違い国内盤でも海外盤でも音質は関係ない、とする説もあるが、それは違うと思う。

2回目の録音は音質的に優れているだけでなく、聴きやすい。ディナミークも豊かで各楽器の表情付けもうまい。それは2回目であること、指揮者として経験値が高まり、こなれていることなどが考えられるが、それだけでなく、よりリスナーにわかりやすいように、というふうに音を作っているように思える。逆にいうと通俗的な色合いは高い。

第8番の第3楽章を聴いてみると、まず1回目のほうがテンポはやや遅く、そして2回目はやや速めであるだけでなく、音に表情がある。1stヴァイオリンも、11小節目からの主題にはプラルトリラーがあるが、それがくっきりときれいに弾かれている。同様に39小節目からのヴァイオリン、ヴィオラのスタカートも肌理が細かく、きれいに粒が揃っている。対して1回目の録音ではややざらっとした感触がある。そして2回目の43小節目からの抑揚のつけかたは、やり過ぎとも思えるくらいに波のようにうねる。
でも、では2回目のほうが良いかというと微妙だ。私は2回目のほうを先に聴いているので、その刷り込みがあるのだという前提でいえば、最初はやはり2回目のほうが良いように思えたのだが、繰り返し1回目の録音を聴くうちに、このかすかな紗のようなものは録音のせいではなく、うっすらとした寂寥なのだと感じられるようになってきた。
つまり全体的な音作りは、2回目のほうがややコマーシャルである。1回目のほうが朴訥であり、きらめきがないのだが、その鈍色のゆったりとした流れに陶然となる。

174小節あたりからリタルダンドしてAndanteになり180小節目でダルセーニョしてin tempoに戻る個所で聴かれるほんの少しのパウゼ、ここに1回目の寂寥の表情が見える。2回目のは単なるダルセーニョでしかない。

でも、これらは細かいことであって、最初に述べたように、そんなに違いはない。どちらも素晴らしいドヴォルザークである。
そんなことより、たとえば80小節目からの1stヴァイオリン→オーボエ→フルート→オーボエ→クラリネット→チェロ&コントラバスと渡ってゆく音の流れに、効果的にちりばめられるピチカートに、ドヴォルザークの心を聴くのである。彼はどんな曲に対しても妙な小細工をしないし、音楽はいつも真っ直ぐで誠実で、それでいて悲しい。でもそれは乾いた悲しみである。

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ドヴォルザーク:交響曲第8番第3楽章冒頭


ヴァーツラフ・ノイマン/ドヴォルザーク交響曲全集 (日本コロムビア)
ドヴォルザーク:交響曲全集




Václav Neumann/Dvořák: Symphonic Works (Supraphon)
Symphonic Works




Václav Neumann/Dvořák: Symphony No.9 (1993.12.11 live)
https://www.youtube.com/watch?v=HMMM4ClQyv0

Václav Neumann/Dvořák: Symphony No.8 (1972)
https://www.youtube.com/watch?v=BUKqpH7N2EQ
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コメント 4

末尾ルコ(アルベール)

>下校時刻の定番の音楽みたいなイメージ

確かに、です。こんな感じの、勝手に定番化する音楽の使い方って、しかも子どもの頃にずっと聞かされて、どうしても無用の色がついてしまってどうかと思います。

>高いけれども十分にセンチメンタルであり、通俗であり

う~ん、芸術としての一つの(すべてではないにしても)理想の境地ですね。しかも「通俗になりきらない」厳格なラインをきっちり守っている。しかし考えてみたら、絵画や文学の世界でも、歴史的傑作とされるものの多くは、かなり濃厚に通俗性を湛えています。そして最近わたしが思うのは、イエス・キリストこそ高貴なる通俗の第一人者ではないかと。難しいことは何一つ言ってないけれど、時を超えて人間の心、そして芸術に影響を与え続けている。もちろん聖書の中のイエスの言葉にどれだけ本物の「イエスの言葉」があるのか分からないにしても。

「交響曲第8番」はあまり知らなかったのですが、美しく感情を揉み解してくれますね。今回のお記事を拝読しながら、度々鑑賞することになりそうです。

>ひとり感傷の褥に沈むのである。

孤独にして、贅沢な時間ですね。

前のお記事のコメントもじっくり拝読しています。わたしにとって、比較的無味乾燥だった「ブルックナー」という名前に色彩や味わいが付いてきました。


>2流の指揮者と2流のローカル・オケによるライヴという内容で、ユルいといえばその通りなのですが、何か音楽の喜びというものがとても伝わってくるのです。

この部分、わたしはクラシックについては耳が肥えてないですが、とても理解できるし、嬉しいお言葉です。心の奥底までに入り込んでくるものが、必ずしも世間で認められている「一流」ばかりではないのですよね。

>音楽はテクニックのその向こうにあり、もっとデリケートで、細部に宿る神なのです。

まったく同感です!どんな芸術もテクニックは重要。しかしテクニックを超える「神」に達さないと、感動はもたらされません。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2017-07-05 02:27) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

新世界は、手垢のついた音楽ということになりますけれど、
でもそれは名誉でもあるわけです。
クラシックというジャンルを越えて一般化されているわけで、
たとえばモーツァルトのトルコ行進曲なんかも同様です。
ピアノソナタとしてではなく
単独の独立した曲という状態で認識されていますので。

私は通俗という単語を多用しますが、
通俗という日本語にはマイナスなイメージというか、
レヴェルの低いニュアンスがあります。
でも、通俗とはつまりpopularの日本語訳です。
イエス・キリストも通俗であるというのは鋭いですね。
最近の破滅SFなどに、いかさまな宗教家というのが
出てくることがありますが、基本的にはイエスのパロディですね。

8番の動画は、音だけのものしか見つかりませんでしたので、
9番のライヴ映像をリンクしておきました。
1993年のライヴですが、第9番が作られてから100年なので、
その記念のコンサートです。
まず最初にファンファーレがありますが、
臨席しているのはたぶん、当時のチェコの大統領
ヴァーツラフ・ハヴェルだと思います。
ノイマンはこの2年後に亡くなりますので、
最晩年の録音ですね。
新世界はコーラングレの使用例の曲として有名です。
例の 「家路」 のメロディはコーラングレで吹かれています。

日本でもローカル・オケががんばっていることはよくあります。
それは長く続くローカルな伝統芸能などと似ています。
日本ではクラシック音楽というと敷居が高いですが、
ヨーロッパではオーケストラというのは特別なものでなく、
音楽がもっと日常生活に溶け込んでいるという面がありますね。

ともすると音楽などの芸術はテクニック偏重になってしまう
という危険性が内在しています。
指が速く回ればよいという価値観は
タイピングの速度競争みたいなもので音楽の本質とは別物です。
それはたとえば、ピアノなどと同様の
お稽古事としての英会話などについてもいえて、
英語は流暢にしゃべれるけれど、しゃべるべき内容が無い
というのでは本末転倒ですが、そういうのも
テクニックだけを重要視した結果です。
スポーツ選手でも、一流選手はテクニックだけではない
なにかを持っていますがそのプラスアルファが重要なのです。
by lequiche (2017-07-05 04:06) 

うっかりくま

<最初に聴いてしまった演奏を最高とする傾向があり、それは初めて刷り込まれてしまった音源がどうしても一番強く記憶に刻まれるからではないか>←私もよくそう思います。下世話な例えで恐縮ですが、初恋の人が忘れられず次の出会いがあってもその違いが受け入れ難く感じられたり。それを乗り越えないと先に進めないけど敢えてそこに留まっていたい、みたいな(^^;)。
うちの場合は息子が小学生の時帰宅すると毎日飽きずに聞いていたのがドヴォ8だったので、普通と違ってこちらが下校の音楽でした(笑)。カラヤンとノイマンの古い盤があるので、御記事を読みつつ改めて聞き比べてみようかなと思いました。ズロニツェの鐘も時々聞かせて頂いております。 おっしゃるようにテクニックを超えた所にある、心を捉えるものや細部に宿るもの、それを探求するのが音楽や芸術の醍醐味なのでしょうね!

by うっかりくま (2017-07-06 21:29) 

lequiche

>> うっかりくま様

あ、確かに。
first impressionもfirst kissもfirst loveも
最初ってことは重要なんだと思います。
それが一番良いものかどうかっていうことは別にして、
とりあえず一番最初ということだけは確かですから。

8番がお好きとはなかなかやりますね。
でもドヴォルザークにはどの曲にも共通する
「ドヴォルザーク節」 があるみたいです。
ほら来たよ〜、みたいなメロディの作り方が。
そのデータをとって音の流れのクセみたいなのを分類すれば
立派な研究論文ができるかもしれません。
私は、しませんけど。(^^;)

カラヤンは、「こういう系」 (って、どういう系?) なのは
上手いと思います。
チャイコフスキーとか、たぶん上手いですよね。

1番は後から発見された習作だから、という先入観が
どうしてもあるんだと思うんですが、
でも私はそんなに悪くはないと思います。
たとえばラフマニノフの1番、2番だって、
以前はボロクソに言われていたものですが、
Pコンなどと較べると確かにすごい名曲ではないですけれど、
以前よりはよく耳にするようになりました。
時代とともに曲の評価って推移していくものだと思います。
by lequiche (2017-07-07 15:42) 

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