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舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲』 [本]

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舌津智之の『どうにもとまらない歌謡曲』はタイトルのイメージに少し惑わされるが、70年代の日本の歌謡曲の歌詞論であり、ジェンダー論である。2002年に刊行された本であるが、20年経って今回、文庫で復刊された。
「4 うぶな聴き手がいけないの」 は歌謡曲におけるクロス・ジェンダーの考察であり、「攪乱」 という言葉が認識の基本として使用される。

 一般に、ある言語が、基本的には一つのカテゴリーでくくられる何かに
 ついて、いくつもの違った呼び名を持っているとき、その 「何か」 は文
 化的に重要な意味を持っている場合が多い。わかりやすい例でいうと、
 エスキモーは雪を表わすのに二〇以上の異なる名詞を使い分けるという。
 (p.108)

一般的にはひとつの名詞でしか分類されないものが、ある特定の民族においては幾つもの名詞に細分化されることは、クロード・レヴィ=ストロースが『野生の思考』で指摘していた通りである。
このことから敷衍して舌津は、「日本語が、実に多くの一人称 (と二人称) の代名詞を持っていること」 に言及する (一人称が 「わたくし」 「わたし」 「あたし」 「あたい」 「あっし」 「わし」 など)。これは階級の違いによる使い分けであると同時に、性差の指標ともなっているという。

もうひとつの特徴として 「日本語の歌はしばしば、人称代名詞や文末の助詞によって話者の性別が特定される」 (p.109) という。英語などのヨーロッパ言語と異なり、男言葉、女言葉が存在するのだ。

ところがここで、日本語の歌詞は性別の特定できる歌詞であるために、歌手の性別と歌詞の性別が必ずしも一致しない歌が、特に演歌において存在することがわかる。ぴんからトリオの〈女のみち〉などがその好例で、これを舌津は中河伸俊の考察を引用して、ジェンダー交差歌唱 (cross-gendered performance) であると解く。
そして 「七〇年代、大流行をみたものの、しばしば性差別的とみなされる女歌を、ジェンダーの観点から前向きに評価することはできないのか?」 (p.110) と書く。

ここで舌津の提起するのがデイヴィッド・バーグマンが示した 「キャンプ」 という概念である。

1. キャンプはスタイルであり、誇張、人工、極論を好む。
2. 大衆文化、商業文化、消費文化との緊張関係において存在する。
3. キャンプを認知し、対象を理解し、キャンプする人は文化のメインストリームの外部者。
4. 同性愛の文化に深くかかわる。

ここからの展開が面白い。
例として近田春夫が 「ほめてるつもり」 と念を押しながら 「朝丘雪路はオカマにしか見えない」 というコメントをあげていることについて。オカマとは女以上に女っぽくしようとする意志があるのだから、つまり朝丘雪路は 「女以上に女っぽく見える女」 という結論に達するのである。
ここで重要なのは 「っぽさ」 と 「らしさ」 の区別である、と舌津はいう。

 形式・約束としての 「っぽさ」 は 「実はそうではない」 ことを暗に示し、
 「らしさ」 は 「いかにもそうである」 ことを訴える。つまり、ある種の男
 性を形容する場合、「女っぽい」 とは言えても、「女らしい」 とは言わな
 い。(p.112)

そもそもキャンプとはスーザン・ソンタグによって知られるようになった概念とのことだが、彼女がキャンプの特質としてあげるのは 「美ではなく、人工ないし様式化の度合」 だという (p.113)。そしてまたキャンプとはコミカルな印象が生じてしまうが、大変真面目なものであるともいう。(p.115)

ここで近田春夫が例にあげた朝丘雪路の 「女っぽ過ぎる女」 は、つまり 「『女っぽい男』っぽい女」 なのだという。対して水前寺清子は 「男っぽい女」 なのである。

水前寺清子の男っぽさというのは 「ラ行を巻き舌で発音する」 形式にあるという。

 実際問題として、日常そのようなしゃべり方をするのは、ヤクザか江戸
 っ子か、いずれにせよ大変限られた種類の人々であり、そのスタイルは
 リアリズムというよりも、ひとつのフィクションないしはリプリゼンテ
 ーション (表象) である。つまり、「男性的」 な記号として、作られた男
 っぽさを演じるために使用されるのが巻き舌ラ行なのだ。(p.113)

では椎名林檎はどうなの? というと話が広がり過ぎるので棚上げにして、この水前寺清子によって確立された男っぽさを下地として出現してきたのが、七〇年代演歌における 「巻き舌の女言葉で歌う男性歌手」 だったと舌津はいうのだ。森進一、前川清、ぴんからトリオ、殿さまキングス、そしてその系譜は桑田佳祐につながるのだという。
「っぽさ」 と 「らしさ」 の差異はここでも示されていて、北島三郎や山本譲二は 「男らしい」、三善英史は 「女っぽい」、そして森進一をはじめとする 「巻き舌の女言葉で歌う男性歌手」 たちを 「男っぽい」 と定義する。それはつまり 「人工的にデッチあげた男性性」 であり、まさにキャンプなのである。さらに 「モノマネをすると笑えるのがキャンプである」 (p.115) とか 「北島三郎も、顔面だけは立派なキャンプである」 (p.115) とか、メチャメチャひどいことを言っている (言っているのは舌津先生です。念のため)。
つまり、

 ソンタグの言葉をそのまま引くならば、「キャンプとは、真面目に提示
 されはするが、『ひどすぎる』ために、完全に真面目に受け取れない芸
 術のこと」 なのだ。森進一などは、とりわけデビュー当初、ふざけて歌
 っているのかと思われ、真面目にやれ、と言われたというが、本人にし
 てみれば真剣なスタイルを追求していたことは言うまでもない。(p.116)

一方で、この時期のぴんからトリオ、殿さまキングスといったグループのド演歌は、そのインパクトの強烈さが気色悪過ぎて (これも褒め言葉だとのこと)、むしろパロディ演歌あるいはメタ演歌ではないかという。
〈女のみち〉の歌詞に見られる二重性——つまり女のみちを肯定しているのか否定しているのかよくわからない部分を、

 ソンタグによると、「キャンプ的感覚とは、ある種のものが二重の意味
 に解釈できるとき、その二重の意味に対して敏感な感覚のことである」
 という。(p.121)

「キャンプとは、両性具有的スタイルの極地である」 とソンタグが語ったにもかかわらず、両性具有の概念はその後、むしろ批判的に語られることが多くなったのだという。このへんの経緯がやや不明だが、マージョリー・ガーバーによれば 「良い両性具有」 と 「悪い両性具有」 があり、ダイナミックな可能性として、「身体的でセクシーで攪乱的」 な 「悪い両性具有こそが標榜すべきもの」 だとのことである。それはつまりマイケル・ジャクソンが歌った〈bad〉に籠められた意味であり、badとはもちろん悪いという意味ではない。

この 「悪い両性具有」 として舌津が例にあげているのが桑田佳祐である。
まず桑田佳祐の特徴としてあげられるのが過去のテキストからの引用あるいはパクリであり、〈チャコの海岸物語〉は平尾昌晃の〈星はなんでも知っている〉、〈BLUE HEAVEN〉は中村あゆみの〈翼の折れたエンジェル〉を取り込んでいるという。

こうした作詞法は、ソンタグにしたがえば 「キャンプ趣味は、複製に対する嫌悪感を超越する」 のであり、そしてあらゆる言葉はいつもすでに使用済みの言葉なのだと舌津はいう。
そもそもサザンオールスターズの〈勝手にシンドバッド〉というタイトルは沢田研二の〈勝手にしやがれ〉とピンク・レディーの〈渚のシンドバッド〉を合体させたものであるが、その〈勝手にしやがれ〉だってジャン=リュック・ゴダールの映画《À bout de souffle》(1960) の邦題そのままでしかない。言葉がすべて使用済みの言葉なのだとするならば、「問題はその組み合わせ/組み立ての新しさなのだ」 と舌津は書く。(p.130)

そして男言葉・女言葉の攪乱ということにおいて、前川清→桑田佳祐の両性具有的連続性を見い出している。たとえば〈そして、神戸〉は、その歌詞を語っているのが男性なのか女性なのか、1番の歌詞の最終行まで行かないとわからない。
対して〈勝手にシンドバッド〉は一人称が俺でありながら女性語尾 「不思議なものね」 「波の音がしたわ」 が出てきて、性別が不安定であるとのこと。男女2人の対話と考えるのには少し無理があるようだ。

ただこの人称の問題はそれだけで簡単に性別を特定できない、と私は思う。最果タヒはぼくを普通に使うし、浜崎あゆみの歌詞に頻出するぼくは、決して男性が語っている言葉ではない。
これは次の章にあるあいざき進也、原田真二、(若い頃の) 郷ひろみの問題ともかかわってくるのだが長くなり過ぎるので、興味のあるかたは是非ご一読を。

舌津は山口百恵よりも桜田淳子、キャンディーズでなくピンク・レディーに比重をかけていることを巻末の解説で齋藤美奈子は 「あまのじゃく趣味」 と指摘していたが、それぞれの後者のほうがキャンプ度はずっと高いし、ジェンダーの攪乱という点においても同様である。その作詞法について阿久悠は山本リンダ→ピンク・レディーへと続く中で、ジェンダーについて意識的であった。そしてボーイッシュという視点における桜田淳子→松浦亜弥という連続性への舌津の言及は慧眼である。


舌津智之/どうにもとまらない歌謡曲 (筑摩書房)
どうにもとまらない歌謡曲: 七〇年代のジェンダー (ちくま文庫 せ 14-1)




宮史郎とぴんからトリオ/女のみち
https://www.youtube.com/watch?v=LgXuIQFzU68

前川清/そして、神戸
https://www.youtube.com/watch?v=zoVP2q68dis

サザンオールスターズ/勝手にシンドバッド&チャコの海岸物語
https://www.youtube.com/watch?v=jrG-rl1uCPE
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末尾ルコ(アルベール)

前々から演歌って、(なんで男が女心をうたうんだ)と疑問に感じてましたが、今回のお記事でいろんなことが解釈できてくる気がしてます。しかも演歌の歌詞って、女心と言ってもある種の男たちに都合のいい架空の女心がほとんどですよね。テレサ・テンの楽曲はよくもてはやされて、確かにメロディなどいいものもありますが、たいがい「妻のいる男との情愛、でもそれでもいいの」的な、実に男にとって都合のいい話ばかりで、わたしはそういう思考は嫌いです。
「キャンプ」という概念については、ソンタグをまともに読んだことなかったので疎かったのですが、ちょっと調べてみましたところ、ビアズリー、『白鳥の湖』、ヴィスコンティ、コクトー、あるいは『ピンク・フラミンゴ』など、馴染みの芸術、芸術家が出て来たので、(へえ、なるほど)という感覚を持ちました。
ぴんからトリオ、殿さまキングスはいろんな意味で凄いですよね。特にわたし殿さまキングスが好きなのですが、あれってギャグとして作られたわけじゃないんでしょうかね。どちらのグループも大ヒットしたわけですが、ああいう曲を(ああ、素晴らしい女心だ)と本気で聴いていた日本人が多くいたとしてら怖いですね。

・・・

LOVE、視聴いたしました。と言っても、今回初めて聴いたもので、どこがどこうとか述べるほどの理解はもちろんできておりませんが、非常に魅力的な声、そして歌唱も歌詞も力強くしかも実に端正に聴こえました。この方はもともと優れた。そして状況に対するプロテスト的歌詞を創る人なのでしょうか。

>ずっと日本の芸術やスポーツに関する対応

これはもうまさしく「愚民化政策」という表現がぴったり来る惨状だと思います。特にわたし映画が好きですから、「(実写)映画をこれだけ貶める国」がどれだけあるだろうかと。
スポーツに関しては、スポーツ界自体も多くの愚劣さが存在すると思いますが、輪をかけて酷いのがスポーツを扱うメディアでして、例えば昨年から甚だしいのが大谷翔平の過剰報道。そもそも野球自体世界的に見ればごく僅かの地域でしか知られてないし、米国でも「野球ファン」以外には感心持たれてません。その野球ファンもどんどん減っている状況なのですが、なのに「全米驚愕」とか「世界が注目」とか、詐欺まがいの嘘報道濫発です。
「ベーブ・ルースの偉大な記録を超えた」なんてニュース、米国ではまったく話題になってません。
五輪関係の報道も同様ですが、日本はいまだに欧米コンプレックスむんむんの力道山時代の報道と変わってないと、これ間違いないです。

RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2022-08-21 07:58) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

演歌の女歌に関してはおそらくこの解釈で
間違ってはいないと思いますが、
でもひとつの仮説というふうに考えることもできます。
正解は別にあるのかもしれません。
それに他ジャンルにも、演歌ほど多くはないですが
男性歌手の女歌、女性歌手の男歌は存在しますので。

演歌の歌詞は男性職業作詞家が書くのがほとんどですし、
購買者層に合わせて作られていますから、
どうしても男尊女卑的な旧態依然な内容になってしまうのは
否めないと思います。
テレサ・テンという歌手はよく知りません。
今、YouTubeで聴いてみましたが、
もっさりした感じであまりピンと来ませんでした。

キャンプという概念は私もよくわかりません。
たとえばキッチュという言葉がありますが、
キッチュが露悪的な面を押し出すのが常なのに対して
キャンプはもう少し広い範囲をカヴァーしているようです。
たとえばセクシュアリティに対してジェンダーがありますが、
ジェンダーよりもセクシュアリティのほうが広い感じがします。
ただ、たとえばセクシュアル・マイノリティというと
限定される範囲も意味合いも変わってきますし、
このようなまだ日本語に定着していない言葉はむずかしいです。
キッチュなら通常の文章の中に使うことができますが
キャンプはまだ使えないです。

LOVEさんはDJをよく聴いていますので知っていましたが
トークの感じはもっと軽い感じで、
今回の歌はヘヴィーでちょっとびっくりしました。
でもフジロックでも比較的ローカルなステージで
演奏していたようですし、昔のロック・ミュージシャン的な
テイストがあるように思います。
外国のミュージシャンは右/左にかかわらず
政治的な発言をするのが普通ですが、
LOVEさんはバイリンですのでそれに似た傾向は
あるのではないでしょうか。

野球については私はよくわかりません。
野球に限らずスポーツがほとんど金銭感覚だけで動いているのは
オリンピックで実証済みですので (今もまた騒いでいますが)、
メディアとはそんなものだと思いますし、
何かの報道があってもクイズ番組の正解と同じで
すぐに忘れてしまいますので。(^^)

私が昨年、腐敗したオリンピックへの訣別をこめて書いた
「アデュー、オリンピック」 はダントツで閲覧数が多かったので
それなりのご支持があったのだと勝手に解釈しております。
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2021-06-13
その後も私の考えに変化があったわけではないので
スポーツにはほとんど関心がないのです。
by lequiche (2022-08-22 02:43) 

NO14Ruggerman

これは非常に興味深い考察を記した書物だと感じました。
まさに今が旬なジェンダー論と思いきや今から20円も前の
刊行であることに驚愕です。
近田春夫の朝丘雪路と水前寺清子は失礼ながら激しく共感
してしまいました。
自分で読んでみたいと思います。
by NO14Ruggerman (2022-08-25 13:23) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

おっしゃる通りです。2002年の著作というのがすごいです。
というより現在の日本におけるジェンダー論を考えますと
20年遅れているともいえると思います。
20世紀末から21世紀はじめにかけての
こうした歌謡曲等における状況を振り返ってみますと
非常に性的な差別も多く、またそうした状況に対して無自覚です。
状況は以前よりは改善されつつありますが
まだ時代錯誤な認識は多く、そうした過去の遺物での評価が
まかり通っているのが現状のように思えます。
舌津先生は、さだまさしをばっさりと切り捨てていますが
当然ですね。
是非お読みになってみてください。
by lequiche (2022-08-26 04:44) 

coco030705

わぁ~、面白そうな本ですね。「キャンプ」というのは、同性愛者の美的感覚なんでしょうか。かなりけばけばしい装飾とか?ウィキにでてました。マツコ・デラックスなんかもキャンプ的感覚を持っている人なのですか。ウィキには、ビアズリーのイラストなどもあげられていましたが。私はビアズリーの作品、すきです。

この本、買おうかなと思っています。

by coco030705 (2022-09-03 23:40) 

lequiche

>> coco030705 様

面白い本ですけれど基本的にはジェンダー論です。
セクシュアリティとジェンダーの違いは
セクシュアリティが純粋な医学的性区別であるのに対して
ジェンダーは意識的で、ある意味思想的な性意識をさします。
LGBTという言葉がありますが、Tはトランスジェンダーであり
医学的性別と自己意識の性別が異なる人のことです。
いわゆる性同一性障害です。
それに対してトランスヴェスタイトという言葉があり、
これは衣裳倒錯などと呼ばれますが
自分の性別でない衣服を着たい欲望を持つ人のことをさし、
ドラァグクイーンなどもこの範疇です。
ドラァグクイーンの人は性的欲望としてはノーマルなこともあり、
といって必ずしもそうかというとそうでもないこともあり
(つまりトランスジェンダー的要素を含んでいたり) なので、
性嗜好としては多分に重複したりしているようです。

ただ本来のキャンプはそうした同性愛的なものから発していますが
キャンプの概念を確立させたのがスーザン・ソンタグで、
彼女はキャンプをもう少し拡大解釈しました。
つまりドラァグクイーンや女装者だけでなく、
グロテスクなもの、フリーク的なものまで含めて
男女差を超越させて、それをキャンプと定義したのです。

キャンプと似たような言葉でキッチュという表現もありますが
この使い分けはむずかしいです。
私の感覚ではキャンプのほうがやや広い概念のように思えます。
またキッチュというと性的志向そのものより
もっとマニアックな傾向に対していう言葉のようにもみえます。
キャンプな女性の典型としてカルメン・ミランダという人がいますが
彼女については今福龍太先生の著書に詳しい解説があり、
以前記事にしました。
お時間があるときに参照いただければ幸いです。

虚ろなリアルあるいはカルメン・ミランダという時代
― 今福龍太『ブラジル映画史講義』を読む
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2019-08-17

この記事にリンクしたカルメン・ミランダの動画がありますが
なんの知識もなしにこれを観ると、異様な人物にしか思えません。
つまりそれがキャンプなのです。

The Lady In The Tutti Frutti Hat
https://www.youtube.com/watch?v=TLsTUN1wVrc

マツコ・デラックスもそうかもしれませんが
典型的なドラァグクイーン的キャンプといえば梅垣義明ですね。
もちろん営業的な傾向はありますが。

ソンタグはキャンプの例としてビアズリーなどとともに
白鳥の湖やフラッシュ・ゴードンなどをあげていますが
そのあたりの選択が面白いです。
by lequiche (2022-09-05 01:28) 

coco030705

こんばんは。
いつも丁寧なお返事を有難うございます。
とても興味深くて面白いです。すごいなぁ、っていつも思っております。
ビアズリー、素敵ですよね。モノクロなので、装飾的な絵がすっきりとセンスの良さがすばらしいと思います。
フラッシュ・ゴードンもですか!あの、クイーンが音楽を担当した映画ですね。TVでやっていたのを録画して観たことはありますが、あれがキャンプの例とは!不思議です。
by coco030705 (2022-09-06 21:04) 

lequiche

>> coco030705 様

いえいえ、この本に関していえば
すごいのは舌津先生であって
私は単に内容を紹介をしているだけです。

ビアズリーは25歳で亡くなっているので
画家としての実質的活動は5年に満たない短さです。
ですが、すべての作品は傑作です。
ホイッスラーは当初、ビアズリーを認めませんでしたが
後になって彼の作品を絶賛しました。
私がホイッスラーが好きなので、
さすがに優れた鑑識眼を持っていると思いました。(笑)

少女マンガ家の魔夜峰央の絵は
まさにビアズリーに影響を受けていますね。
本人もそのように語っているそうです。
以前の記事に魔夜峰央の絵がありますので
ご覧になってみてください。↓

ユリイカの魔夜峰央を読む
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

フラッシュ・ゴードン=キャンプ説はおそらく
原作のスペースオペラをさしているのでしょうが、
なぜキャンプかというと曖昧です。
スペースオペラ全般がキャンプかというと
そうでもないように思えます。
そのへんの定義というものはなくて、
あくまで恣意的と考えればその通りかもしれません。
by lequiche (2022-09-08 03:37)