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ファジル・サイ《NAZIM Ballad》 [音楽]

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Patricia Kopatchinskaja & Fazıl Say

パトリシア・コパチンスカヤの演奏を辿って行くうちに、ファジル・サイとのデュオに遭遇する。邦盤のアルバムタイトルは《スーパー・デュオ!》という身も蓋もないものだが、収録曲はベートーヴェンのクロイツェル、ラヴェルのソナタ、バルトークのルーマニア民俗舞曲、それにサイの書いたヴァイオリン・ソナタという内容。
このアルバムの録音自体は2007年だが、2011年のサイのソナタの動画をYouTubeで観ることができる。

昨年、ジョージア生まれのリサ・バティアシュヴィリやカティア・ブリアティシヴィリが’ヴァレリー・ゲルギエフとの共演を拒否したことがニュースになったが、モルドヴァ生まれ (当時はソ連邦の一国) のコパチンスカヤは、ソ連がすでに末期の頃、家族でオーストリアに亡命し、現在はスイスに住んでいるとのことである。芸術において旧・ソ連とその連邦形成国や現・ロシアが失ったものは限りなく大きい。
コパチンスカヤを聴いたのはクルレンツィス/ムジカエテルナとのチャイコフスキーのコンチェルトが最初だったような気もするが、でもそれより前に何かを聴いていたはずで、記憶が定かでない。

ファジル・サイはトルコ生まれのピアニストであり作曲家である。彼の作品のなかに《ナーズム》というオラトリオがあるが、このタイトルはトルコの詩人であったナーズム・ヒクメットのことを指す。ナーズムの生涯は波乱に富んでいて、またこの国の複雑な歴史を読み解かなくてはよくわからないのだろうが、ふと私が思ったのは卑俗な連想でしかないがルイ・オーギュスト・ブランキであった。

サイのヴァイオリン・ソナタ op.7は1997年に作曲されたが、5楽章は順にAndante, Moderato, Presto, Andante, Andanteであり、第1楽章と第5楽章はともにAndante Mysteriosoと名付けられていることからもわかるように第5楽章は第1楽章のリフレインであり、真ん中の楽章が急速調で前後が緩徐楽章というシンメトリカルな構造をとっていて、バルトークの弦楽四重奏曲第5番的な印象を受ける。wikiによればサイはバルトーク、エネスク、リゲッティをリスペクトしているとのこと。
Presto楽章でのサイとコパチンスカヤのスピードは驚異的であり、前後の楽章の物憂さ、メランコリーさとの落差がくっきりと浮き立って聞こえる。そして第4楽章でサイは、左手で弦を押さえる内部奏法でチェンバロ的なミュート音を創りだす。

オラトリオ《ナーズム》op.9は2001年の作品だが、2002年に《3 Ballades for Piano》op.12というピアノ曲があり、順にNazim, kumru, Sevenlere dairと名付けられている。つまり第1曲はナーズムというタイトルのバラードで、元はピアノソロの曲なのだが、それをオーケストラ伴奏に編曲したと思われる演奏を聴くことができる。ピアノはイラズ・イルディズというまだ若いピアニストだが《1001 Nights in the Harem》(ハーレムの千一夜/2019) というサイのオーケストラ作品集アルバムの中で〈China Rhapsody〉op.69という曲を弾いている。

イルディズの弾くバラード第1番〈ナーズム〉は重い憂鬱の繰り返しの、まるで映画音楽のようなイメージを受ける曲である。アンゲロプロスの音楽を担当していたエレニ・カラインドルーのようなテイストもあるが、カラインドルーよりも暗く救いがない。投げ捨てられた悲哀のよう。この〈ナーズム〉にも〈ヴァイオリン・ソナタ〉にも感じるサイの憂鬱は何だろうか。日本では彼のテクニックばかりが超絶とかいわれて持てはやされているが、音楽とはそうしたみかけとは別のもののはずだ。


Patricia Kopatchinskaja & Fazil Say/Super Duo!
(エイベックス・クラシックス)
スーパー・デュオ!




Fazıl Say/1001 Nights in the Harem (Sony Music)
1001 Night in the Harem




Patricia Kopatchinskaja & Fazil Say/Say: Violin Sonata
https://www.youtube.com/watch?v=NSiaHkSzBYQ

Iraz Yildiz/Say: NAZIM Ballad No.1
https://www.youtube.com/watch?v=qdF9YikaJy4
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ゆうのすけ

こんにちは!お題と違っちゃってすみません!
同じデザインのものが被せてあるジャケット!私は記憶ないんですが
もしかしたら初回特典であったのかな?!私は発売されて すぐ買ったんですが出回っている見開きのジャケットだったんですよ。(開かないジャケットは無かったと思います。)
もしかしたら プレミアものかもしれないですよ!^^☆彡
by ゆうのすけ (2023-02-23 17:52) 

末尾ルコ(アルベール)

Patricia Kopatchinskaja & Fazil Say/Say: Violin SonataとIraz Yildiz/Say: NAZIM Ballad No.1、視聴させていただきました。
どちらもわたしにとってはとても新鮮。短いけれど、素晴らしくいい時間を過ごさせていただきました。

>芸術において旧・ソ連とその連邦形成国や現・ロシアが失ったものは限りなく大きい。

これですよね。今回のロシアの蛮行を文化芸術の観点から語られること、少なくとも日本ではほとんど見られません。その意味で以前からlequiche様のおっしゃられていること、とても納得できます。

今回の二つの動画ですが、視聴する前は(すぐには理解できないかも)と少し構えてしまったのですけれど、意外にもどちらもストレートに愉しめました。もちろんそれを持って(理解できた)というわけではありませんが。
ファジル・サイのやや太めの指から繰り出される音は凄いですね。コパチンスカヤとの共演は何度も鑑賞してしまうこと間違いなしです。
イラズ・イルディズの演奏も趣があっていいですね。

バレエを観始めた頃はやはり「超絶技巧」的なムーヴに惹かれたのですが、すぐに(スポーツじゃないんだから)と思うようになりました。一流の演者に対して「超絶技巧」ばかり取り沙汰すのは失礼ですよね。



タルコフスキーの映画論、エキサイティングですね。お話しくださるのをお待ちしております。
そう言えば坂本龍一は「歌詞を聴かない」というお話ですが、彼は映画に関しても、「ストーリーとかはさほど興味がなく、もっぱら映像に興味がある」といった意味の発言をしておりました。
教授を気取るわけではもちろんありませんが(笑)、わたしもそういう傾向があり続けておりまして、最近ようやく歌詞やストーリーにも重きを置くようになったような感じです。
ただ正直なところ、ストーリーが辻褄合わなくても意味不明でも、映像や演出に魅力がある映画には甘くなります。「伏線と回収」とかはさほど興味ないと言いますか。

zazもあいみょんも声自体に力がありますね。あいみょんは年齢を考えたら、やはり凄い才能とカリスマだと思います。   RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2023-02-23 21:20) 

lequiche

>> ゆうのすけ様

コメントありがとうございます。
別に限定品ではないと思いますが、
詳しいことは、ゆうのすけさんのコメ欄に
書き込みましたのでご参照ください。
by lequiche (2023-02-24 04:38) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

動画を視聴していただきありがとうございます。
コパチンスカヤとファジル・サイでは
おそらく政治的信条は異なると思います。
ですがコパチンスカヤは国を捨ててしまったわけですし、
サイはトルコに住んでいるようですが、
ナーズム・ヒクメットはトルコ政府に反逆し
何度も投獄された詩人にして革命家だった人です。
そのナーズムへのシンパシィがあったから
そうしたタイトルの曲を書いたのだと思います。

現在のロシアの狂王は21世紀のヒトラーですが、
ヒトラーよりもずっと芸術・文化に対して無知で
経済のこときり知らない猜疑心だけで固まった人です。
かつてのロシア帝国の栄華はすでに無く
すべては壊滅してしまったのです。
壊れた建物は再建することができますが
壊れた文化はおそらく復活できないように思えます。
かわいそうな国ですね。

超絶技巧の典型的な例は中国の雑技団です。
すごいですが、それはサーカスのすごさに過ぎず、
スポーツでもないですし、まして文化ではありません。
スポーツとカルチャーは違います。
ですからスポーツの測定方法でカルチャーは測れないのです。

タルコフスキーの映画論は面白いですが、
いろいろとツッコミどころもあります。
たとえば 「器楽曲は完成され過ぎているので映画に向かない」
などと言っていますが《サクリファイス》で使われているのは
バッハの《マタイ受難曲》です。
器楽曲はダメで歌曲ならいいのか、と思ってしまいます。

「伏線と回収」 というような捉え方は
ミステリなどを対象とした方法論のようです。
たとえば幻想小説の場合、かならずしも伏線は回収されません。
辻褄があわなくても矛盾があってもいいんです。
古典的な音楽も同様です。
音楽は終止形で終わらなければならないというのは
バッハやベートーヴェンの頃のセオリーで、
形式は次第に曖昧なかたちに変容しました。
by lequiche (2023-02-24 04:46)