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水曜日の子供 — 村上春樹『街とその不確かな壁』その1 [本]

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人は誰でも悲しい物語を持っている。だが多くの人々は、その悲しみを些細なこととして忘れてしまう。大人になるにつれて飛び方を忘れてしまうウェンディのように。
子どもの頃の淡い記憶をゼラチンの中に定着させるような行為、それは古風な夢のかたちの標本であり、あまりにも儚く気恥ずかしいことのはずで、その記述の冷静さと緻密さに作家の確かな構築力が感じられる。

小説は3部に別れている。第一部は高校生の頃のぼくときみの話。ぼくにもきみにも名前はない。きみと呼ばれる彼女は自分の夢の中の街について語る。街は高く堅固な壁に囲まれ外に出ることはできない。死に絶えたような生気のない街——電気もガスもない環境で人々は静謐で質素な生活を営んでいる。その街の図書館に彼女は勤めている。
図書館とはいいながらそこに本は一冊もない。収納されているのは〈古い夢〉で、その〈古い夢〉に触れることができるのは〈夢読み〉に限られている、と彼女は言う。そしてぼくに対して 「あなたは〈夢読み〉になるのよ」 (p.12) と言う。彼女はその夢の街の中のわたしこそが本当のわたしで、ここにいるわたしは影に過ぎない、とも言う。
しかし、夢の中の街の話の繰り返しと長い手紙の行き来の末に、彼女とは音信不通になってしまう。それがぼくの青春期に於ける強い記憶であり、その思い出から逃れないまま、ぼくは大学を卒業し、書籍取次会社に就職し、未婚のまま、四十五歳になる。

第一部では『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(1985) と同じように、もうひとつの物語が交互に語られる。もうひとつの物語とは、壁に囲まれた街で暮らすようになった私 (=年齢を重ねたぼく) と、十六歳のままの彼女 (=本当のわたし) の話で、私は〈夢読み〉としてその街の図書館に通い、古い夢を読むことになる。彼女は私のことを覚えてはいない。

壁の中の街に入るとき、私は目を傷つけられ影をはぎとられる。街の中の人々には影がない。私の〈夢読み〉はなかなか上達しないが、ある日、私は自分の影と出会う。影は、この壁の中の街はニセモノで、外の世界こそが本当の世界だと言う。そして、影と私が一緒にこの街を出て、元通りに合体すべきだと提案する。私と影とは街からの逃亡を企てるが、最後になって私は街にとどまる決断をし、影だけが街を出て行ってしまう。

第二部は現実の世界の話。三部にわかれている中で最も長い。
壁の中の街にとどまっているはずだった私は、なぜかこちらの世界に戻って来てしまっている。自分には影があるし、その影が話しかけてくることもない。私は仕事に戻るが、自分が図書館で働いている夢を見て、図書館で働くしかないと思い、図書館の仕事を探す。そして福島県の小さな町の図書館長に転職する。前館長の子易辰也 (こやす・たつや) は親切に仕事を教えてくれる。しかしあるとき、子易はすでに亡くなってしまった人であることを知る。子易には影が無く、子易の姿は特別な人の目にしか映らないのだ。

子易には妻子を亡くしてしまった不幸な過去があることを私は知る。そして、図書館は子易が私財を投じた彼の唯一の拠り所であることも知ることになる。だが死者である子易の存在は次第に稀薄になり、やがてその姿を見ることができなくなる。

図書館にいつも来て、本を読み続けている少年がいる。少年は16〜17歳くらいで、いつもイエローサブマリンの絵が描かれたヨットパーカを着ている。彼はサヴァン症候群で、どんな本でも読み、そして記憶してしまうようなのだ。
私が子易の墓で、壁の中の街のことを子易に伝えようとして語っていたのを少年は聞きつけ、壁の中の街へ行きたいと熱望するようになる。そしてある日、いなくなってしまう。
少年の家族は少年を探すが見つけることができない。私は少年が、壁の中の街に行ってしまったのだと思い、そのように説明する。

第三部は壁の中の街に残ったほうの私の物語だ。私は街の中で、イエローサブマリンの少年を発見する。しかし壁の中の街の私は少年のことを知らない。少年は積極的に私に近づいてきて、そして少年と私は一体化する。少年のほうが〈夢読み〉の能力はすぐれている。少年は私に、この街から去るようにとすすめる。この街から去って、外の世界で、元通りに影と合体すべきだというのだ。私は図書館の少女に 「さよなら」 を言い、壁の中の街から出て行くことにする。

真四角な部屋と薪ストーブ — 村上春樹『街とその不確かな壁』その2 (→2023年07月16日ブログ) につづきます。


村上春樹/街とその不確かな壁 (新潮社)
街とその不確かな壁




Dave Brubeck Quartet/Just One of Those Things
https://www.youtube.com/watch?v=bNmEM5CHrJ0

Dave Brubeck Quartet/You Go to My Head
https://www.youtube.com/watch?v=_4bzBqLiWoI

Yellow Submarine Original Trailer 1968 (Beatles Official)
https://www.youtube.com/watch?v=vefJAtG-ZKI
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