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通俗と高踏 — ナム・ジュン・パイク、そして海野弘の久生十蘭探求を読みながら [雑記]

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ちょっとした雑談のような覚え書きです。

04月20日のブログ 「アイソレイテッド・ポーン — ジョン・ラフリー『別名S・S・ヴァン・ダイン』その2」 に書いたシンクロミズムのコンセプト —— 美術作品は色彩が全てであり、絵の具だけに頼らない手法、たとえば 「光」 による表現もあるのではないか、という模索 —— から私が連想したのはナム・ジュン・パイクのビデオ等による作品であった。
随分以前、NHK教育TV (当時) でナム・ジュン・パイク (Nam June Paik, 白南準 1932〜2006) が出演し自作を語った番組があって、あまり記憶が定かではないのだが、まだその頃は痩せていてすごく軽いノリで自作品について解説していて、あぁそういうやりかたもあるんだ、と思ったのを覚えている (もっとも後年になって、やや太ってしまってからは、若い頃と印象が違ってすごく落ち着いていて、同一人とは思えなかった)。もしスタントン・マクドナルド=ライトがパイクのインスタレーションを見たらどのような感想を持っただろうか。ウィラードもスタントンも、その頃発展途上であった映画から感じられる 「光」 を使った魅惑的表現ということだけではなくて、もっと純粋に光源等を使った方法はないかと模索していたようだからである。
ナム・ジュン・パイクは京城で生まれ香港で育ち、日本やドイツにも住んで、国籍はアメリカというグローバルな人であるが、坂本龍一の《音楽図鑑》にA Tribute to N.J.P.という洒落た小曲があって、これはナム・ジュン・パイクに捧げられたものである。曲としてはきれい過ぎるけれど、パイクの美学の本質はこうなのかもしれないと漠然と思う。

パイクはカールハインツ・シュトックハウゼン、そしてジョン・ケージの影響を受けているといわれるが、ケージというのはまだ私にとって未知な、というか不明な部分の多い作曲家である。水戸芸術館でローリーホーリーオーバーサーカスという展覧会があった時、お弁当を持って水戸まで各駅停車に乗って出かけたが、でもはっきりいってその時はその展示のコンセプト自体がよくわからなかった。あれから時を経て自分の理解力が少しは進んだのかどうか心許ない。銀色の金属の箱に入ったパンフレットがどこかにあるはずだけれど宝の持ち腐れである。

ケージは高踏的であるのかもしれないが同時に通俗であるのかもしれなくて、その兼ね合いというか許容範囲がどこまでなのかを摑みかねて戸惑うのである。
ブログを探索していると、すでに2007年にパイクとPerfumeを並列して論じている記事があったりするが、浜崎あゆみの最初のシングル、poker faceのPVだってパイクを意識したものだったかもしれなくて、つまり通俗とは最も時代に即応しているが劣化しやすいものである。パイクは、より俗化した消費されるべき芸術を目指したのだろうか。

十蘭_パリ1930.JPG

ここのところ、私の興味は1920〜30年代のことに集中してしまっている。それは意識して選び取ったのではなくて、結果としてそのへんに面白いと思えるものが多く存在するからなのである。
今、海野弘の『久生十蘭 —— 「魔都」 「十字街」 解読』という本を読んでいるのだが、何となく推理小説を読んでいるようで面白い。ところどころ、空振りの部分もあるけれど、まるで興味本位な部分を刺激される駅売りのゴシップ雑誌のようだったりする (これはホメ言葉である)。もしかすると真実と見える中に海野のウソや創作が混入しているのかもしれなくて、でもそれで欺されてもいいと思ってしまう。
久生十蘭 (1902〜1957) は多種の異なる傾向の作風を持つ作家で、その十蘭について書くことはすごくむずかしくて、単なるファンとして読んでいるだけでいたほうがお気楽で無難だ。現在、全集が刊行中なので、これが完結したら何か書いてみたいとは思っているのだが難易度が高くて無理かもしれない。

松岡正剛が 「千夜千冊」 で十蘭について書いているのを見つけたのだが (→第1006夜)、それによると十蘭は

 自分が生きている同時代の昭和の帝都を描きながら、それが必ずや 「遠
 い昭和」 になるだろうことを察知していたということ

であり、さらに

 十蘭も [江戸川] 乱歩も、もともと昭和が 「遠い昭和」 になることを承知
 して、そこに身の毛もよだつ犯罪事件と帝都光景をモザイクしておいた

とのことだが至言である。

海野弘は、この時代の建築や演劇は、今のそれらとは重要度が違うと書いている。彼の 「モダン建築」 とか 「モダン都市」 という表現に出会って最初は違和感を受けたのだが、モダニズムから派生したそういう表現があるのだと知ってそれだけでも勉強になった。演劇に関しても当時はその影響力が政治的一面を持っていて、芸術至上主義だけでは解決できない部分があるようだ。

久生十蘭_魔都表紙_r.jpg

「魔都」 が、海野の妄想するように政治的陰謀小説であるかどうかはさておき、十蘭の文体が当時のいかにも通俗的な技巧に満ちていることは確かである。江戸川乱歩などよりずっと当時の世相と大衆的欲求に即応していて、その分、風化しやすい文体であることも含めて、それこそが松岡のいうような 「遠い昭和」 というものなのだろう。むしろこうしたスタイルは、たとえば樋口一葉の擬古文と同じようにその時代へのノスタルジアをかきたてる鍵になっているのかもしれない。
中井英夫の『虚無への供物』も十蘭の描く帝都と同様に、推理小説的構造は見せかけであり地理的偏愛に満ちていて、それは東京という迷路としての街へのフェティシズムなのかもしれないと思う。その登場人物である奈々村久生というネーミングは、中井の久生十蘭へのオマージュである。


画像:(下記サイトからお借りしました)

ナム・ジュン・パイク 「さよならナム・ジュン・パイク展」
http://www.watarium.co.jp/exhibition/0606_paik.html

久生十蘭 (パリ・1930) 「久生十蘭オフィシャルサイト準備委員会」
http://blog.livedoor.jp/hisaojuran/

久生十蘭『魔都』表紙



海野弘/久生十蘭―『魔都』『十字街』解読 (右文書院)
久生十蘭―『魔都』『十字街』解読




『久生十蘭短編選』(岩波文庫)
久生十蘭短篇選 (岩波文庫)




『久生十蘭ジュラネスク』(河出文庫)
久生十蘭ジュラネスク---珠玉傑作集 (河出文庫)




『定本久生十蘭全集 1』(国書刊行会)
定本久生十蘭全集 1

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