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ブラウンシュヴァイクのヴァイオリニスト — ルイ・シュポーア [音楽]

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以前、アンリ・ヴュータンについて書いていたとき [→1] [→2] 気になっていた名前があって、それはヴュータンが父親とドイツ/オーストリアの楽旅をした時に会ったというルイ・シュポーアである。
それは1833年のことで、ヴュータンは高名なドイツのヴァイオリニストのひとりとしてシュポーアに会ったのだと思うが、その時、ヴュータンは13歳、シュポーアは49歳であった。

ルイ・シュポーア Louis Spohr (1784.04.05〜1859.10.22) はベートーヴェン (1770〜1827) と同時期のドイツのヴァイオリニスト/作曲家であり、その作曲数も多くジャンルも万遍なく網羅しているが、ベートーヴェンに較べるとその名はあまり知られていない (正確にいえば、シュポーアの生まれた地はその頃まだドイツではなくブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国である)。
シュポーアのもともとのファーストネームはルートヴィヒでベートーヴェンと同じであるが、フランス風にルイと変えたようである。ベートーヴェンより14歳年下で、親交もあったようだ。

シュポーアはテクニック的にも卓越したヴァイオリニストであったらしいが、その頃、ヴァイオリニストとしての評判はパガニーニがダントツで一番であり、シュポーアは二番手以下のヴァイオリニストとしてしか認識されていなかったようだ。
若い頃から頭角をあらわしていたシュポーアは、ブラウンシュヴァイク公爵の庇護を受けて18歳の時、サンクトペテルブルクにいるヴァイオリニスト、フランツ・アントン・エック (Franz Anton Eck 1774〜1804) に学んだ。さらにこのエックの教師はフリードリヒ・ヨハン・エック (Friedrich Johann Eck 1766〜1809) という人だそうだが、苗字が同じで年齢も近いので兄弟とか親戚なのだろうか。
フランツ・エックはシュポーアを教えた2年後には30歳で亡くなっており、その詳細はよくわからない。

ヴュータンがサン=サーンスの影に隠れていたように、シュポーアもベートーヴェンとか、本業のヴァイオリンではパガニーニの影に隠れていた存在なのだが、私が気になるのはいつもそういうあまり派手でない人なのである。
そして私は、ヴュータンとシュポーアに何となく共通するある種の匂いを感じていた。年齢はやや離れているけれど、そして教師と弟子のような関係でもないのだけれど、ヴァイオリンという楽器を通して伝えられた何かがあるような気がするのだ。

シュポーアには18曲のヴァイオリン協奏曲がある。これは曲数としてかなり多いが、協奏曲に限らず彼はかなり多作の作曲家だ。ただ演奏楽器がヴァイオリンだったため、ピアノ協奏曲はない。
ドイツcpo盤にシュポーアのヴァイオリン協奏曲全集があったので私はこれを聴いているのだが (18曲のうち作品番号のついていない3曲があるが、そのうちの2曲は入っていないので全16曲である)、どうもとっつきにくい感じがした。良い曲なのか凡庸な曲なのかがはっきり判断できないのだ。それはつまり古いアナログのラジオのように、私の気持ちの中でチューニングが合わせられなかったのかもしれなかった。

だが急にチューニングの合うときがやってきた。
それは第13番のE-durの協奏曲 op.92 である。作曲されたのは1835年5月〜6月であり1837年に出版されていて、シュポーア51歳のときの作品である。12〜14番はコンチェルティーノという名前でも呼ばれていて、13番はコンチェルティーノ第2番でもある。
調性は E-dur で長調なのだが、全体的雰囲気は短調に支配されている作品である。彼は前年にハープ奏者でもあった妻のドレッテを亡くしており、その影響があったのかもしれない。

曲は2つの部分に分かれており、前半は Larghetto con moto, オーケストラの8小節の後、ゆったりめのソロが始まる。
なんとなく物憂く、光と影の交錯するような、ゆったりとした流れ。「A」 のトリルの後の h → ais → a → gis とさりげなくクロマチックに降りてくる音の不安な連なりが実は今後の鍵で、物憂さの種子なのだ。音は再び明るく何事もないように見せかけておいて、「B」 の a Tempo から決然とした悲しみが正体を見せる。

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持続したままのメランコリィは 「C」 のアタマでも同様に d → cis → c → h と降りてきて、「E」 のアタマでは 「A」 の h → ais → a → gis が再現される。こうした半音下降だけでなく、ときどきちょっと外れた意外な音がぽつんと使われるときがあって、明るく見える曲想が曖昧であることがわかる。

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曲は 「B」 の悲しみの波が 「C」 で元に戻っていくように見せかけておいて、「D」 の a Tempo から悲しみの第2波が寄せてくる。それは長く続かず、「E」 から、キラッとした物憂さを見せながらふたたび明るさと暗さの中間部のような場所をさまよって、アタッカで後半の Tempo di Polacca に突入してゆく。示されるのはトリルを使った印象的な主題だ。
その後の 「G」 からのソロにつなげるための 「F」 の部分のオーケストラの表情がやさしい。

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この第13番の協奏曲は、ともすると姿をはっきり見せないシュポーアが比較的素直にその感情を顕わにしたような印象を受ける。だがそれはパガニーニのようにダイレクトな表現ではなく、どこまでも紗のかかった奥ゆかしさを保っているかのようだ。
シュポーアの第13番の書かれた翌年、ヴュータンの第2番のヴァイオリン協奏曲 (実質的には第1番目の協奏曲) が書かれている (*1)。

シュポーアの曲の多くは時の狭間に埋もれてしまっている。
彼はヴァイオリンの 「顎あて」 の考案者であり、またリハーサルの時、楽譜のどの場所かを示すための 「A」 「B」 といった表示 (上記の楽譜画像にも見られる) を使い出した人でもある。また、多くのヴァイオリニストの弟子がいたようで、pédagogiqueのリストを見ていたら最後に見覚えのある名前を見つけ出した (*2)。
アウグスト・ヴィルヘルミ。彼の使用していた1725年製のストラディヴァリウスにはヴィルヘルミという名前が付けられている。現在、バイバ・スクリデ (→スクリデのブラームスを聴く) の使用している楽器がそのヴィルヘルミである。




(*1)
尚、アンリ・ヴュータンの生没年は1820.02.17〜1881.06.06であり、日本語wikiの没年の1881年1月6日は間違いである。
(*2)
fr.wikipédiaに Ferdinand David (1810-1873), Molique Wilhlem Bernhard (1802-1869), Ole Bull (1810-1880), Norbert Burgmüller, Moritz Hauptmann (1792-1868), Johann Peter Emilius Hartmann, Fredrik Pacius, et August Wihelmj (1845-1908). とある。Molique Wilhlem Bernhard は Wilhelm Bernhard Molique のことで、August Wihelmj は August Wilhelmj のミスタイプだろう。


Louis Spohr Complete Violin Concertos (cpo)
シュポア:ヴァイオリン協奏曲全 (Spohr: Complete Violin Concertos)




http://tower.jp/item/42291/Spohr
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DON

ご訪問有難うございます(^^ゞ

是非、尻取り大会にもご参加してくださいね♪
by DON (2013-01-09 20:15) 

lequiche

>>DON様

こちらこそありがとうございます。
しりとりのお誘いもありがとうございます。
時間が合うようでしたら参加したいですね。(^^)。

by lequiche (2013-01-10 01:49) 

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