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ラズモフスキーから大フーガへ — ブダペスト弦楽四重奏団を聴く [音楽]

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Andrej Kyrillowitsch Rasumowsky

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲のことを考えていたら、ブダペスト弦楽四重奏団 (以下SQと略) の全集があったことを思い出した。
ブダペストSQにベートーヴェンの全集録音は3種類あって、最初がSP録音、2回目がモノで3回目がステレオである。私が持っているのは2回目のunited archivesの赤いボックスで、1951〜52年の録音だ。

ブダペストSQと私の出会いはモーツァルトの弦楽五重奏曲で、最も有名なKV 516のことはすでに以前のブログに書いた。当SQはファースト・ヴァイオリンがヨーゼフ・ロイスマンである時期が長く彼の名声が大きいが、活動は1917〜1967年でありすでにその命は終わっている。
現在は新ブダペストSQというグループが存在するが、この新ブダペストはセーケイ・ゾルタン/ハンガリーSQの流れを汲む後継であって、本家のブダペストSQの後継はジュリアードSQであるといっていい。ジュリアードの1stはすでにロバート・マンではないが今もジュリアードSQの名前は存続している。

私が最初に聴いたベートーヴェンの弦楽四重奏曲はスメタナSQで、それはたまたま買ったのがスメタナだったという理由でわざわざ選択したわけではない。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は特に後期の作品がよいとされるが、後期のピアノソナタなどに較べると弦楽四重奏曲ははっきりいって晦渋で、正直言ってしまうとよくわからなかった。

このブダペストのモノラル盤は、最初その音のナローさにちょっと驚くが、すぐにそれには慣れてしまう。むしろシンプルにまとまって聞こえてくる音が心地よい。
たとえば長大な第13番はGroße Fuge (大フーガ) がもともとの最終楽章で、しかしそれが長くて難解なので評判が悪く、差し替えられて出版されたという経緯がある。大フーガは独立した曲としてop.133という新たな作品番号が付けられたが、現在では大フーガ付きとして、合計7楽章分になって録音されていることが多く、このブダペストSQの録音もそうである。
この13番をブダペストSQで聴くと、全然しんどくなく、しかも全体の構造がすっきりと見通せてよくわかる。大フーガは当時としては新しい音構造だったのかもしれない、ということも理解できる。というか今聴いてもこのフーガはすごい。何か意見が言えてしまえるような曲ではない。
ブダペストSQの音は余韻嫋々としていなくて、時にはそっけなく聞こえるがそのほうがこうした後期のベートーヴェンにはかえっていい。といってもそれは今になってそう思えるので、以前聴いたときはなんとなくつまらない印象を持ったようなことを覚えている。それはたとえば以前はシューリヒトがよくわからなかったのと似ていて、年齢や経験値によるものなのかもしれない。

ベートーヴェンにはハイドンの下で学んだ時期があるが、その成果はほとんど皆無だったという。ベートーヴェンはハイドンに失望していたらしいが、それはハイドンが自分の仕事に忙殺されていたためもあるのかもしれない。

しかしその時期はベートーヴェンにとって人生で最も幸福な時期だったといえる、とシルヴェット・ミリヨはハイドンを含めたその状況を好意的に描いている。
ベートーヴェンがハイドンのもとで研鑽を積むためにボンからウィーンに移ったとき、ベートーヴェンは師匠ハイドンの紹介によりリヒノフスキー侯爵のサロンに入り、そこの常設弦楽四重奏団に接して、弦楽四重奏曲を書く腕を上げたという。
そのときのSQのファースト・ヴァイオリンがイグナーツ・シュパンツィヒ Ignaz Schuppanzigh 1776〜1830 であり、その時シュパンツィヒは18歳だったとある。とするとそれは1794年ということになるが、ハイドンのウィーン滞在は1972年〜1794年のはじめとされているので、そのまま信じるとすれば時期的に最後のほうになって会わせられたようなことになってしまい、このミリヨの書き方は少し納得できない。
en.wikiにはシュパンツィヒはラズモフスキー伯爵のプライヴェート・カルテットのリーダーだったとあるがde.wikiではリヒノフスキーとなっていて、これはミリヨの記述と一致するので、たぶん英語wikiの記述が間違っているように思える。

この頃の音楽家とパトロンとの関係というのがどういうものだったのかよくわからないのだが、ベートーヴェンはリヒノフスキー、ラズモフスキー、ロブコヴィツといった保護者を得て、音楽的意欲も満々だったはずだ。
この時期にベートーヴェンはそのシュパンツィヒのクァルテットを利用して、何曲もの弦楽四重奏曲を書いた。7番〜9番 op.59の、通称ラズモフスキー第1番〜3番と呼ばれる3曲は、もちろんラズモフスキーに献呈されたものである。
だが、やがて1809年にハイドンが亡くなり、続いて1814年にはリヒノフスキーが亡くなり、同年にラズモフスキーの宮殿が火事になって伯爵はウィーンを去ってしまう。そして1816年にはロブコヴィツも亡くなる。その頃、ベートーヴェンの耳は完全に聞こえなくなってしまっていた。

ベートーヴェンはその後14年間、弦楽四重奏曲を書かなくなり、それが再開されたのはごく晩年の時期であった。再び弦楽四重奏曲を書く気になったのは、サンクトペテルブルクにいたシュパンツィヒが帰還したこと、そして新しいパトロンであるニコライ・ガリツィン伯爵がベートーヴェンに弦楽四重奏曲の作曲を依頼したことなど、複数の動機があるだろう。
12番 op.127、15番 op.132、13番 op.130をガリツィン四重奏曲と呼ぶ。ガリツィンは自らチェロも弾いたというが、せっかく献呈されたこれらの曲の真価をそんなには理解できなかったらしい。

ガリツィンの反応でもわかるように、こうした後期のベートーヴェンの弦楽四重奏曲はウケが悪く、それで13番の終曲としての大フーガも楽譜屋の意見で書き直させられたのであった (出版社の意向で過激な小説が書き直させられるのに似ている)。ベートーヴェンの理解者であったルイ・シュポーアもこれらの後期弦楽四重奏曲に対しては否定的で理解できなかったという。
たぶんシュポーアとかサリエリのような人は、その当時の大衆的な人気はかなり高かったのではないだろうか。それは口当たりがよく、比較的わかりやすい、いわゆる通俗な音を持っていたためである。
逆に見ればシュポーアがなぜ現在、そんなに省みられないかということは、なぜサリエリが省みられないかということと共通している。
本当は3曲のラズモフスキー・セットや大フーガのことについて書きたかったのだが、まるで音楽史を追うようなつまらない文章になってしまった。つまらないのだけれど深入りするときりがない。

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弦楽四重奏曲第9番 C-dur op.59-3《ラズモフスキー第3番》終結部

ラズモフスキー・セットの最終曲第3番は冒頭の Introduzione. Andante con moto が、C-durといういかにも明るそうな調号に期待する音をいきなり裏切って始まる。Allegro vivace に入ると物憂さは氷解したように見えるが、それは見せかけなのかもしれない。
2楽章の Andante con moto quasi Allegretto は6/8拍子で、チェロの印象的ピチカートに支えられたセンチメンタルなメロディは、ドヴォルザークのような憂愁を湛えているように聞こえる。
3楽章のMenuetto を経て始まる第4楽章の Allegretto molto はヴィオラのソロから始まる延々と続くフーガであり、一定したクリアなリズムと音から紡ぎ出される連鎖は無限に続くような音の彷徨である。徹底したシンプルさに禁欲的な美を感じる。

だがそのラズモフスキーも、大フーガの前には色をうしなう。大フーガの冒頭から始まる、はねる異様な複合的リズムと、そして繰り返し転調しながら奏でられるアヴァンギャルドな和声の重なり。
しかし最後期のベートーヴェンについてこうして語っても言葉は無力だ。ただその音に耳を傾けるしか術はない。

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大フーガ B-dur op.133


Budapest String Quartet/Beethoven: Complete string quartets
(united archives)
Beethoven: Complete Quartets

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Loby

現在もわけも分からないような曲が流行していますけど、
100年経ったら、はたしてどれだけどれだけ残っているかですね。
音楽も文学も芸術も100年ほどの時間をかけないと
真の価値はわかりませんね。

by Loby (2013-02-13 07:55) 

lequiche

>> Loby様

そうですね。
流行というのは、はかないものなのかもしれません。
私たちはつい目先の流行にとらわれがちですが、
時間が経つとダメなものは淘汰されるのでしょう。
今は歴史の中に埋もれてしまった数々の流行があったのだと思います。
by lequiche (2013-02-13 11:13) 

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