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過去と未来と星座を超えて — 松任谷由実《スユアの波》 [音楽]

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松任谷由実の《スユアの波》は1997年にリリースされたアルバムだが、収録されている幾つかのタイアップ曲の中で〈夢の中で〉と〈時のカンツォーネ〉は映画《時をかける少女》のために書かれた作品である。

といっても《時をかける少女》という映画は4種類あり、この1997年版は監督・角川春樹、主演・中本奈奈による2回目の映画である。最初の《時をかける少女》は1983年の大林宣彦&原田知世、3回目が2006年の細田守監督作品のアニメ、そして2010年の谷口正晃&仲里依紗が4回目ということになる。
3回目と4回目の内容は、正確にいうのならば 「時をかける少女・その後」 であり、そして2回目の映画は大林作品に較べるとあまり知られていない。

この映画の原作は筒井康隆のジュヴナイルで、学研の雑誌に連載されたのが1965〜66年、単行本として出されたのが1967年だから、大林作品が作られたのは原作が書かれてから16年後ということになる。
実は私がこの大林作品を観たのはリアルタイムではなくて、かなり後になってからだと憶えている。その時の印象は、う〜ん、何かあんまり……なわけで、逆に言えば、こういうのもありなんだ、というのが正直な感想だった。
ただ、この大林作品がなぜヒットしたのかと考えると、それはきっと原田知世のその年代にしかない存在感というか、そのキャラ設定がいつもの筒井康隆らしくない乾いた原作に倣っていて、いやたぶんそれ以上で、大林の選んだ尾道というロケーションもよかったのか、そしてまた原田知世自身が歌う主題歌が映画にぴったりだったのもその誘因のひとつだろう。

筒井康隆の著作リストを見ると、1967年に刊行されたのは『馬の首風雲録』『ベトナム観光公社』そして『時をかける少女』であり、これらは彼の作家活動における初期の最も優れた作品である。この3冊の中で、他の2冊と較べると『時をかける少女』はジュヴナイルであるという制約を抜きにしても異彩を放っている。

1983年版映画の主題歌〈時をかける少女〉は松任谷由実の作詞作曲であるが、1997年版では同じ曲を使わずに〈時のカンツォーネ〉が新たに作られた。この〈時のカンツォーネ〉には仕掛けがあって、歌詞は〈時をかける少女〉でありながら、曲が異なるという形式で作曲されている。
曲が異なるといっても同じ作曲者だし、わざと〈時をかける少女〉のメロディラインを意識した上で少し異なった音に見せかけているように感じられる。特に歌の冒頭はその元になっているメロディが透けて見えるようだ。

というのは、私はそんなに真面目な松任谷由実のリスナーではないので、この《スユアの波》というアルバムを何の来歴も知らずに買ってきてぼんやりと聞いていたら (しかも中古盤で)、いきなり〈時をかける少女〉が出てきたので驚いてしまったのである。白状してしまうと、私はあまり歌詞というものを聞かないので、歌詞が同じだということには全然気がつかなかった (顰蹙モノですが)。

歌詞が同じで異なる曲があるというのの例として、たとえば〈砂山〉という童謡は北原白秋の作詞だが、中山晋平の曲と山田耕筰の曲とが存在する。さらにこの2人以外の曲も存在するのだそうで、でも〈時をかける少女〉と〈時のカンツォーネ〉は同じ作曲者が2パターン作ったという意味では面白い。
ただ上記のような制約をつけたため、〈時のカンツォーネ〉は少し縮こまった印象を受けてしまうことは否めない。

そうした曲を含んだ《スユアの波》というアルバム自体は、それ以前のユーミン大ブームがだんだんと縮小して、オリコンチャートで1位をとれずに2位になってしまったという、翳りのつき始めた時期の最初のアルバムとなる。
相変わらずのユーミン・パターンだが、それはステロタイプであり、全体的に暗い雰囲気を持っているように思う。でも、バブル期には松任谷由実はあり得ないほど売れたそうだが、その時期のアルバムを今聴いたら果たしてどのように聞こえるのだろうか。それよりもむしろちょっと暗めの、コンプレックスを匂わせる (それが何に対するものかは措くとして) 曲のほうがしっとりと馴染むように思える。

このアルバムのもっとも暗いけれどメインと思われる曲は〈きみなき世界〉だ。レゲエのリズムでファルセットで歌われる歌詞を辿ってみる。

 きみがいなくなってから 初めての冬が来る
 きみなしの きみなしの 途方もない時を
 ぼくはもう ぼくはもう 持て余しすぎてる

 あのときの言い訳をまだ ぼくは後悔してる
 なぜだろう なぜだろう それしかなかったのに
 寂しくて 寂しくて 仕方がなかった

 傷つけて 傷つけられても なおまだ
 壊れてはいなかった ぼくたちは
 ぼくたちを捨てて来た あのときに

 きみがいなくなってから 少し無口になった
 きみなしの きみなしの 広すぎる世界で
 ぼくはただ ぼくはただ 座る場所探してる

この同じ言葉の異常なほどの繰り返しは何だろう。単にメロディに乗せるために繰り返しを使ったのではなくて、わざと同じ言葉を繰り返させるために作ったようなメロディ。そして単なる繰り返しではなくて 「傷つけて 傷つけられても」 「ぼくたちは ぼくたちを捨てて来た」 という全く同じではない変形が混じる。

 あれから全てが変わったのに
 二人の匂いはもうないのに ああ なのに

ここで 「もうないのに」 と 「ああ なのに」 という全く同じではない変形の頂点があらわれる。「ないのに」 の 「い」 が抜けて 「なのに」 となるからだ。
歌詞の後半は繰り返しの畳みかけるリフレインとなる。

 きみには云えなかった 言葉があるんだ
 できるなら できるなら 時が戻るなら
 一度だけ 一度だけ きみに云いたかった

 きみなしで きみなしで 生きてゆくなんて
 どうしても どうしても ぼくにはできない

 きみなしの きみなしの 途方もない時を
 ぼくはもう ぼくはもう 持て余しすぎてる

 きみなしの きみなしの 広すぎる世界で
 ぼくはただ ぼくはただ 座る場所探してる

これだけ繰り返していながら何も伝えていない言葉。伝えることのできない言葉といったほうが正確なのだろうか。内容的には 「きみ」 を失ってしまった 「ぼく」 が嘆いているという、ただそれだけの歌詞だ。「きみに云いたかった」 ことは何なのかは結局わからない。何の救いもない。空虚な世界に座る場所もない。

「できるなら 時が戻るなら」 というのはかなえられない願望で、時は決して戻らない。それが〈時をかける少女〉のテーマと重なる。スユアの波とは時を超えることのできる波のことで、つまりタイムトラヴェル/タイムワープを指す。だがタイムトラヴェルやタイムマシンというSFのガジェットは、それが夢でありながら決して可能でないことにこそ意味があるのだ。それはドラえもんのタイムマシンでも同じで、素敵な選TAXIの記事でも書いたように、時をわたるということは一種の暗喩なのだ (→2014年11月28日ブログ)。

《ブレードランナー》でレプリカント (レイチェル) が自分の過去を捏造しようとするのも、この時を戻そうとする行為の変形に過ぎない。それは不可能でレプリカントは挫折する。でもそうした 「タイムマシンの不可能性」 が 「過去をふりかえるな。未来を見据えて前進するのだ」 という楽観的な意欲を持たせようとする教条的な結論であることはもちろんない。結論がないから座る場所を探しているのであって、もしかすると座る場所は永遠に無いのかもしれない。星座を超えることができないのと同じように。


松任谷由実/スユアの波 (EMI Records Japan)
スユアの波




大林宣彦/時をかける少女・1983 (角川書店)
時をかける少女 デジタル・リマスター版 [DVD]




角川春樹/時をかける少女・1997 (ハピネット)
時をかける少女 [DVD]

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リュカ

時をかける少女、知世ちゃんのバージョンしか知らないです(@@

きみなき世界、聴いてみたくなりました。
家に帰ったら調べてみよう・・・
なんだか歌詞は「ずしん」ときますね。
by リュカ (2015-03-26 10:05) 

lequiche

>> リュカ様

私は原田知世版さえも記憶が曖昧なので、
そのうち見直してみようと思っています。(^^;)

ユーミンはときどきスッゲー暗くて救いのない曲がありますが、
実はそのへんが彼女の本質なんじゃないかと思っています。
あまりに明るいお金持ちな部分で売れてしまったために、
そのあたりがわかりにくくなっているようです。

動画サイトにはまともなデータがないので
リンクしてありません。
すぐに消されてしまうみたいですね。
by lequiche (2015-03-26 15:08) 

さる1号

お見舞い、有難うございます
怪我ですんで良かったです
by さる1号 (2015-03-28 06:27) 

lequiche

>> さる1号様

いえいえ、どうぞお大事にされてください。
ご来訪ありがとうございます。
by lequiche (2015-03-29 12:39) 

青山実花

何度もコメントを書きかけて、
でも上手く書けずに消して、を繰り返してしまいました^^;

ユーミンは、荒井時代の作品と、
松任谷になってからの数枚が特に好きです。
10代の頃、一日に一枚は必ず
どれかのアルバムを聞いていたので、
今でもユーミンの曲というだけで、
切なくて、胸が締めつけられて、酸欠になりそうです。
精神状態が悪い日は、聞かない方が無難だと思うくらいです^^;

そうなんですよね、私もユーミンは暗いと思います。
だからこそ、これだけ多くの方から支持されているのだと思います。
書きたい事がありすぎてキリがないので、
終わりにします(笑)。
ユーミンについて書いて下さったこと、
とても嬉しく思っています。

by 青山実花 (2015-03-30 21:41) 

lequiche

>> 青山実花様

極論をいえばユーミンは荒井姓の時に
そのほとんどが出尽くしてしまっていると思います。
あとは、言葉は悪いけど拡大再生産なわけで。(^^)
松任谷正隆さんは良い人なんですけど、
ユーミンの不思議チャン的な部分を吸い取ってしまったんですね。
それはそれでよかったのかもしれません。
原田知世と同じで青春の輝きは一瞬なのですから。

最もダークなユーミンのアルバムはたぶん《時のないホテル》で
これを聴くと私は、なぜかアラン・レネの
《去年マリエンバートで》を連想します。

たとえば〈ツバメのように〉だと歌詞がナマナマし過ぎますが、
彼女の本質は〈ひこうき雲〉の人なんだと思います。
そういう意味ではプリミティヴなフォークソングなのかもしれないです。
バブルの頃の派手さというのは外見だけのもので、
音楽の本質が見えにくくなっていますね。
by lequiche (2015-03-31 13:22) 

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