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ポリーニのベートーヴェン・ソナタ [音楽]

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マウリツィオ・ポリーニ (Maurizio Pollini 1942〜) のベートーヴェンのソナタがDGのボックスセットの全集になって昨年11月に発売されたので、底値のときに買っておいた。最初の録音から39年間で全曲が揃ったのだそうだが、ほとんど全部持っているはずと思っていたら、後のほうは結構ヌケがあって、つまりポリーニのあまり熱心なリスナーで無くなってしまっていたので、やはりこうしたコンプリート盤は便利である。

最近は短い期間で全曲を録音してしまい全集にするピアニストも多いようだが、ポリーニの場合、少しずつ録音が進行してはいたものの、もしかしたら全部は揃わないのかもしれないという危惧はあった。つまり逆にいえば、ポリーニはそうしたコンプリートセットを出すということに対して、そんなに価値を見出していなかったのかもしれない。

これだけの長期にわたった録音のため、全体の印象としては不揃いな感じがある。あらかじめ意図して計算された全集ではないからである。特に年齢を重ねるにつれて変化してきた彼の演奏に対する批判は多かった。
ただ、若い頃の完璧なテクニックのときには心が無いと言われ、次第に齢をとって衰えが見えてくると今度はテクニックが無くなったと言われてしまうのは理不尽のようにも思う。確かにあまり芳しくない演奏が無いとは言えない。だが、例えばこのようにベートーヴェンをまとめて聴いてみると、上手いとか下手とかではなく、そこには一定のポリーニの息づかいがあって (アゴーギクよりもっと微細なタイム感のようなもの)、それは終始一貫している。
たぶん演奏家にはそれぞれ固有の体内リズムがあり、それは一種の指紋のようなもので、年代を経てもずっと変わらずにあるような気がする。簡単にいえばそれがポリーニの音であり、優秀な演奏家は皆、独自の音を持つ。

ポリーニがベートーヴェンのソナタの録音を後期ソナタから始めたのは1975年で、まず第30番と第31番、翌々年に第28番、第29番、第32番を弾き、その5曲セットとしてLPでリリースされた。1986年にCDが発売されたが、LPに使用されたヨーゼフ・スティーラー (Joseph Karl Stieler, 1781−1858) によるベートーヴェンの肖像画を流用した印象的なジャケットである (西独盤CDでは Stieler の名前の後に?が付いている)。
ベートーヴェンの晩年のピアノソナタや弦楽四重奏曲が、非常に高踏的で抽象的であり、かつ重要であることがよく言われるようになったひとつの要因として、このポリーニの後期ソナタ集があると思う。

ネットのCDショップの当該ページを見ていたら、購入者の意見欄に、今回の全集のほうが音が生々しくて良いという感想が書いてあった。そこで今回の全集と、最初に発売された西独盤CDとを比較して一応聴いてみたが、それほどの違いは感じられなかった。むしろ最初のCDのほうが音色としては裸で生々しい感じがあり、全集盤のほうがやや品位のある音になっているが、リマスターという表示もないし、単純にCD製造工程における30年の技術差と考えてよいのではないだろうか。
ただ、今回の全集盤のパッケージにはソナタ第何番という表示が無く、調性と作品番号だけの表示になっているのがやや不便だ。

そんなことはともかくとして、この後期ソナタ、特に30番から32番のポリーニの演奏を改めて聴いてみると、その緊迫感と悲嘆と諦念との間で揺れ動くようなベートーヴェンの心情が伝わってきて、あらためて彼のピアニズムの緻密な完成度の高さを感じる。
この曲が作られた頃、ベートーヴェンの聴覚はすでに完全に失われており、すべては心の中にだけ響く音楽だったことを思うと、その強い精神性を再現することにポリーニは心を砕いたのではないだろうか。

最近のベートーヴェンのソナタ全集として、私は以前エル=バシャの全集について書いている (→2013年10月12日ブログ)。エル=バシャは私の好きな注目すべきピアニストのひとりだが、その2回目のベートーヴェン全集について私は 「エル=バシャは感情に流されるような弾き方は決してしない。つまり髪振り乱したパセティックなベートーヴェン的イメージとは無縁である。テーマの弾き方が期待していたよりもちょっと遅めで、しかもくっきりと1音1音を鳴らしていくので、あぁ、こういうふうに行くのかぁ、と少しだけ違和感を持ったのだけれどすぐに慣れた。通俗的な表現をするなら、音は端正で禁欲的である」 と評価したつもりである。
ポリーニを聴いているとき、ではエル=バシャはどう弾いているのかが気になったので較べてみたのだが、たとえば第30番でも、上記に書いたのと同様で 「ちょっと遅めで、くっきりとした1音1音」 という特徴は同じである。つまりそれが彼の息づかいなのだろうと思う。

私がエル=バシャに対して 「少しだけ持った違和感」 は、演奏を録音したフランスのヴィルファヴァール農場のホールというロケーションにも関係しているのかもしれない。禁欲的で求道的であるのかもしれないが、全集録音の全体を包むイメージは、農場のホールという場所から連想してしまう明るい田園風景であり、つまりベートーヴェンの作品でいえば交響曲第6番のような自然への喜びに支配されているようでもあり、乾いた音はあっても暗い音があまり感じられないようにも思える。
そうした音もまた必要なときはあるし、聴きたいときもあるのだろうが、初期から中期のソナタならそうした音がふさわしいときもあるけれど、この後期のソナタに関しては、その抽象性を表現するためにはポリーニのアプローチがより的確であるように感じる。すべてが田園風景から醸し出される納屋の干草の香りでは晩年のベートーヴェンの孤高さは見えてこない。
ポリーニのせき立てられるような微妙に揺れるリズムはベートーヴェンの苦しみや悲しみに共鳴しているように思え、対するエル=バシャの音はリズム的に乱れるところが少なく、しんとした諦めの気持ちの晴朗さに通じているような気がする。その表現の違いはそれぞれの録音時の年齢差に要因があるのかもしれない。ポリーニの録音は比較的若い頃であり、エル=バシャの録音はごく最近であるから、年齢的にはずっと上だ。
ポリーニの録音は29番、30番、31番がミュンヘンのヘルクレスザール、28番と32番がヴィーンのムジークフェライン・グローサーザールである。

私はプロコフィエフのソナタを弾くエル=バシャに対してリヒテルを対比させ、リヒテルのアプローチに対する不満を書いたことがあるが (→2012年06月17日ブログ)、翻ってこのエル=バシャのベートーヴェンの乾いた淡彩的表現は、21世紀のベートーヴェン像のひとつとしてそうした提示方法もあるのではないか、というふうにも考えられる。
でも、たとえば第30番の短い第2楽章 Prestissimo を何回も聴きくらべてみたが、私の気持ちにフィットするのは断然ポリーニであることがあらためて理解できる。たぶん私が最も繰り返し聴いた30〜32番がポリーニの演奏であったことを除外しても、この切迫感と緊張感は決して途切れることがなく、その切れ味は31番の第2楽章でも同様に鋭利である。30番も31番もその到達点は第3楽章であるが、そこに至る第2楽章はとても重要な気がするのだ。そして31番のフーガにはベートーヴェンの遺していったすべてが存在する。

もっと言えばこの30〜32番を私はいつも1曲のようにして聴いている。あっという間に時は過ぎ、ポリーニは消えてゆき、何度も何度もベートーヴェンが立ち現れる。


Maurizio Pollini/Beethoven: Complete Piano Sonatas
(Deutsche Grammophon)
Beethoven: Complete Piano Sona




Maurizio Pollini/Beethoven: Piano Sonata No.30 E-dur op.109
https://www.youtube.com/watch?v=z2x_aHqyfqE
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般若坊

ヨーゼフ・スティーラー によるベートーヴェンの肖像画は今までのイメージとは異なりますね。
わたしもポリーニのソナタDJ全集が欲しくなりました。 ^^
by 般若坊 (2015-06-07 07:36) 

lequiche

>> 般若坊様

よく見るベートーヴェン像とは違いますね。
ソナタ全集のジャケットは
上記の日記本文にリンクしているポリーニの写真のデザインです。
スティーラーの絵は後期ソナタ集(28〜32番)に使われています。
これです。
http://tower.jp/item/53778/
是非お聴きになってみてください。
by lequiche (2015-06-07 16:29) 

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