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ポゴレリチのイギリス組曲 [音楽]

Pogorelich_150924.jpg
Ivo Pogorelić

ここのところポゴレリチを少しずつ聴いている。
イーヴォ・ポゴレリチ (Ivo Pogorelić, 1958-) については、彼のショパン・コンクールの有名なエピソードにからめてすでに書いている (→2012年05月15日ブログ) が、今までそんなに真面目にポゴレリチを聴いていたわけではなくて、今回、グラモフォンへの録音を集めたセットが出たのを機会に、まとめて聴いてみようという気持ちになったのである。

そのきっかけとなったのはDVDの映像で、ポゴレリチの映像はあまり現役盤がないのだが、そのうちの1枚である《レアレ・ディ・ラッコニージ城リサイタル》(In Castello Reale di Racconigi) は十分に刺激的なビジュアルで彼のピアニズムを記録している。
レアレ・ディ・ラッコニージ城というのはトリノにあるお城で録音データは1987年4月と表記されている。

収録されている曲はショパンのポロネーズ、ノクターン、プレリュード、ソナタ3番、ハイドンのソナタ、それにモーツァルトのK.331のトルコ行進曲付きソナタというあれもこれもという選曲なのだが、ポゴレリチの指を見るのには格好の内容である。
私はもう曲などどうでもよくて、ひたすらその指の動きを見ていた。ショパン・コンクールの映像などよりこのラッコニージの映像はずっと鮮明であり、その指の動きをしっかりと追うことができる。指というより手全体の動きがすごい。すごいというよりやや異常である。手の角度が鍵盤に対して、指先のほうが高く手首のほうが低くなるような動きが頻出するのはグレン・グールドを連想させるが、また、ポゴレリチの時としてアブノーマルなピアニズム自体がグールドを思い出させるが、でもそれはグールドとは根本的に異なっているようにも思えて、この違いがどこにあるのかがすごく興味の対象となる。
特に、たとえばショパンにおける左手の動きなど、左手のコントロールが優れているところもグールドに似るが、でもやはり違う。ポゴレリチの指の動きをどのように形容したらいいのか戸惑うのだが、まるで指にスパイダーマンが宿っているような感じがするのだ。粘り強くて、柔軟さをひけらかしているような手の動きがあって (もちろん、本当にひけらかしているわけではない)、それだけが独立した生き物のように見えるときがある。鍵盤を這い回る太い脚の2匹の蜘蛛のよう。

また、ショパンのソナタの場合、冒頭の入り方で 「えっ?」 と思わせてしまう手法は、ベートーヴェンの32番のときと同じだ。
トルコ行進曲の場合、ポゴレリチはグールドのような極端なテンポ設定ではなくて、ごく普通の速度を選択しているように見えながら、そのアーティキュレーションが少しずつ本来の王道な弾き方とズレていくような、とでも形容すればよいのか、そのあたりの奇矯さがアンチ・ポロレリチのツッコミ所になるのだと思う。

緩急の差が激しいのもその特徴のひとつで、それはショパンよりもハイドンやモーツァルトにおいて、つまり時代が古い作品であるほど際立つ。かといって、指の回る個所でもポゴレリチはアムランのように軽くはなく、もっとずっと重量級だ。
緩徐楽章では右手の (つまり高音部の) 音を出すとき、本来のピアノでないような音をヒットするときがある。それはミスタッチではなく、あらかじめそうした音を意図して出しているように見られる。
ハイドンの終楽章プレストでは、どれだけ速く弾いていても余裕ありまくりなので、そこにポゴレリチ特有の表情が現れてくる。それはハイドンの楽譜から醸し出されるものではなくてポゴレリチの音楽性が勝っているように思える。そうした表現の仕方はモーツァルトでも同じで、だからその部分がグールドと異なる。

つまり古ければ古い作品であるほどポゴレリチの特異なアプローチが出現するのならば、当然辿り着くのはバッハであり、バッハならどのように弾くのだろうと思って聴いてみたのが《イギリス組曲》である。
ポゴレリチの弾いているのは第2番と第3番であるが、冒頭の2番1曲目の Prélude がもうメチャクチャすごい。速いとか遅いとかいうのよりも、その左右の粒の揃いかたが異常である。理想的な対位法をとっていながら、それがあまりに芯のある対位法であるゆえに、かえって何か他のものに聞こえてくる。
私の形容が稚拙なので矛盾のある表現になっているのかもしれないが、ショパンの第2番ソナタの終楽章における緻密な苔の絨毯のような音と、ある意味同じだ。それでいてひとつひとつの音が皆、芯を持っていて美しい。
3曲目の Courante や Bourrée I/II そして Gigue などの、やや速い楽章では左手の音列がくっきりと際立って聞こえる。指の強さ、それぞれの音の粒立ちという点でグールドを連想してしまうのだが、繰り返し書くのだけれどそこから出現する方向性にはグールドとは違う視点を感じる。
Bourrée I/II の疾走する2つのラインは全く独立していて絡み合い歪んだ真珠を産み落とす。

バロックとは本来、ごく抽象的なものでそこに感傷とか叙情性は存在させるべきではないのか、このポゴレリチの演奏を聴いていると美しい音の連鎖なのに、かえって心が乱れる。一般的なバロックというイメージから感じるBGM的な安息とは無縁の、静謐そうに見えてそうではない何か、それはバッハの音を借りて行われている何かだ。もう少し聴いてみないとポゴレリチの音の秘密は解読できないのかもしれない。


Pogorelich Complete Recordings (Deutsche Grammophon)
Various: Complete Recordings




Ivo Pogorelich/In Castello Reale di Racconigi (ユニバーサルミュージック)
ポゴレリチ ピアノ・リサイタル ~レアレ・ディ・ラッコニージ城のポゴレリチ [DVD]




Ivo Pogorelich/Bach: English Suite No 2 in A minor, BWV 807
https://www.youtube.com/watch?v=4YIVDrPXpL8
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lequiche

>> desidesi 様

私もそう思います。
グールドに似ていて、しかもトゲが無いように聞こえる。
でも、その粒揃いの異常さがだんだんと気になってきます。
つまり、いわゆる 「棒読み」 みたいな感じで、
わざと滑らか過ぎるようにかたちづくっているような……。
特にバロックというのはグールドのように
少しぎくしゃくするほうが本来の演奏様式だったはずです。
もっともグールドは少しぎくしゃくし過ぎてますが。

ポゴレリチは今世紀になってからのレコーディングがありません。
演奏活動自体はしていますが、コンサート評はすごいことになっています。
演奏がもっと極端になっていて、アタマオカシインジャナイノ?
というのが平均的批評なんですが、私は実際の演奏をまだ知りません。
by lequiche (2015-09-24 13:06) 

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