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鹿島茂『子供より古書が大事と思いたい』 [本]

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気持ちはわかるのだが、このタイトルって何の工夫もなくそのままズバリなので、つまり 「身も蓋もない」 ということなのであって、思わずこれって大丈夫? と思ってしまう (わざとそうして効果を狙っているのでしょうが)。
さてそのタイトル通り、鹿島茂の現在の趣味というのが古書蒐集ということなのだが (収集じゃなくて蒐集という文字を使っているのがすでにマニアック)、その古書というのが普通の古書の概念とはちょっと違う。

フランス書には、フランス綴じとかフランス装という装丁に関する表現があって、「綴じ」 と 「装」 はもちろん異なるのだけれど、裁断もされないままの本をペーパーナイフで切り開きながら読むというのがその昔の本の読み方であって、これはなぜかというと、本というものは仮の装丁に過ぎず、その本を製本屋に出して自分好みの装丁にするというのが当時のブルジョアの習慣だったからである。基本的な装丁の素材は皮革で、モロッコ革が最もすぐれた素材だとのことである。
だから本の中身は同じでも、外見に関して、同じ見た目の本というのは存在しなくて、1冊1冊違うのである。厳密にいうと中身さえ同じではなくて、口絵があったりなかったり、こういうのも近年の一種の限定版というのがその手法の踏襲なのだけれど、CDの初回限定盤みたいなチャチなものとは全く次元が異なるのがわかるのだが、その洋書の古書蒐集という何ともマニアックなことについて書かれているのがこの本である。

冒頭のあたりで、SKという自分と同じイニシャルの、昔グループサウンズのメンバーだった某タレントへのシンパシィが語られていて、それはそのSKさんが日本の古書の収集家であるからなのだが、その人はマニアックさが嵩じて自己破産してしまったとのことで、でも洋書の古書というのは価格的にいって和書の古書の比ではない。つまりマニアックさということにおいて、簡単にそのタレントさんを凌駕している。

そして本というものは個人所有であるべきだということが語られているのが興味深い。稀覯本だからといって図書館とか博物館に入れられてしまうと本は死んでしまうというのである。

 図書館に入れられた本は同じ本でも生きた本ではない。本は個人に所有
 されることによってのみ生命を保ち続ける。稀覯本を図書館に入れてし
 まうことは、せっかく生きながらえてきた古代生物を剥製にして博物館
 に入れるに等しいことなのだ。(p.15)

この感覚は何となくわかる。公共のものとなった途端、それは何らかのかたちを失う。品位なのかもしれない。だが同時にその感覚がスノッブであることも確かだ。そしてそうした古書をカタログで眺めていても、実際に入手してみると何かが違っていたりして、究極はフランスの古書店に行ってしまうことだというのだが、そのフランスの古書店なるものが、もうとんでもない状況と環境なので、読んでいるうちにこれってホントなのかな、とまで思ってしまう。でもたぶん本当のことなのだろう。

本に使われる用紙にしても、よい用紙と悪い用紙があって、麻や亜麻から作られる上質紙は、一般にオランダ紙と呼ばれるのだそうで、長い年月で劣化するかしないかということに関しても用紙の果たす役割は大きいのである。

とはいえ、この本は全く参考にならない内容で、なぜならそんな高価な本を買う趣味も財力も私には存在しないからなのだが、そしてこの本の内容が参考になる人などほとんどいないだろうということにもかかわらず、そのマニアックさがとても面白い。これは持っている本の自慢話ではなくて一種の文化論でもあるのだが、フランスと日本の本というものに対する認識の違いというのもよくわかる。
鹿島茂はそういう稀覯本を買いたいがために自分の本を書いてその印税をその費用に充てるのだとのことだが、そんなに印税って入るものなのかという疑問はさておいて、最近の鹿島茂の本には『「失われた時を求めて」 の完読を求めて』というのがあり、なんとPHPから出版されているのだが、これも印税狙いの本なのだろうけれど、今読んでいる最中です。ともかく最近の鹿島先生は面白過ぎます。


鹿島茂/子供より古書が大事と思いたい (青土社)
子供より古書が大事と思いたい

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コメント 6

sig

こんばんは。
音楽は全く分かりませんが、この記事は理解できました。笑
鹿島茂の文字を見て、うちにもあるはずだ、と探しました。「パリ・世紀末パノラマ館」。映画の技術史をまとめる過程で、それを生み出した土壌のようなものを掴みたくて購入しものです。コラム形式でとても読みやすく、19世紀末のパリが目の中に蘇りました。
by sig (2019-09-16 21:38) 

sana

おお、なるほど、なんと贅沢なお話。
自分には縁がないけれど、面白そうですね。
自己破産は古書の収集だったのですか! ちょっと見直した‥気分?^^;
鹿島茂さん、何冊か読んでます。
自分で買ったのもあるはず‥わずかながら資金協力?^m^

前前記事ですが、深緑野分さん、2作読みました。
「オーブランの少女」も読んでみますね。好みに合いそうな気がします^^

「ポーの一族」展についても印象深く読みました。
私が子供の頃は漫画は小学生が読むもの、といったイメージでしたが、中学生になる頃には中学生向きのが、高校生になる頃には‥とずーっとおとなになっても続いています。読む作家はごく限られてきましたが。

別冊少女コミックでポーの初期作品を立ち読みしたときに「何だこれは?」と思ったのを覚えています。ですよねー!? その前にも少しは読んでいたのですが、買ったのはそこから。
青春そのものってぐらい熱中して読んでいたので、「トーマの心臓」の終わり頃から画風が変わったのには、闇夜に船から放り出されたような衝撃を受けました。
最初は友達と大騒ぎし、そのうちシーンとなった感じで‥^^;
長い年月、多くの意欲的な作品を発表し続けてくださって、それぞれに美しく、いろいろな意味で好きな作品があり、今となっては全てに感謝です^^
by sana (2019-09-16 23:25) 

lequiche

>> sig 様

そういう本もあるんですね。
ジャンルを問わずかなり広い視点でフランス関係の本があるようです。
あ、こんなところにも、みたいに意外性もあるのでびっくりします。
パリという街の魅力は限りなくあるみたいです。
by lequiche (2019-09-17 15:15) 

lequiche

>> sana 様

SKさんのことは私は知らなかったのですが、
ちょっと検索してみると、なるほどそうなのかと納得しました。
古書といってもいろいろあるみたいですが、
SKさんは日本の古書マニアらしいです。
鹿島先生の洋書の古書というのはものすごい価格で、
そんな高価なもの、よく買えるなぁと思うんですが。

深緑野分、お読みになりましたか。
オーブランの少女は彼女の原点という感じがします。
小説の元ネタのエッセンスというか、
ここから発展させていったんだなあというのがわかります。

ポーの一族をリアルタイムでお読みになったんですか。
それだとすごい衝撃だったのではと思います。
私は最初にフラワーコミックスで読んだのですが、
すごいというより 「え? こういうの、あり?」 というような
その革新性に驚いたといったほうがいいです。

確かにトーマの後半あたりから画風が変わっていきますね。
それは重いストーリーに伴って画風も重くなったというか、
こういう絵で行くんだという決意みたいなのを感じます。
トーマの中で、カールスルーエという地名が出てくる個所があって、
そういうのって印象に残ります。
鹿島先生もプルーストの解説書の中で 「地名には注意しろ」
と書かれています。もっとも意味あいは全然違うんですけれど。

でもダークなトーマの後、「この娘うります!」 がありますが、
私はあの軽さが結構好きです。
レモン (シトロン) とブドウ (レザン) って
名前の付け方としてオコチャマ向きですよね~。(^^;)
萩尾先生は、「マンガってミュージカルなのよ」
って初期の頃に言っていましたがそのテイストがあります。

「11人いる!」 のタダはユリスモールの生まれ変わりなのであって、
トーマの中であまりにもかわいそうだったので、
そのエクスキューズとしてタダ (=ユーリ) に深刻でない役をふった、
というふうに考えられます。

でも基本的にトーマ以降、その作風はその画風に呼応していて、
そのダークさを読者に納得させてしまうんだという意欲が
すごいのだと思います。
音楽的作品でいえば 「アメリカン・パイ」、あれには泣きました。
by lequiche (2019-09-17 15:15) 

末尾ルコ(アルベール)

鹿島茂の著書はけっこう読んでおります。
それぞれのタイトルはすぐに思い出せませんが(笑)、だいたい何を読んでもおもしろい。
雑誌などで名前があると必ず目を通す書き手さんの一人です。

フランス書に関しては詳しくないですが、かつて通っていたギャラリーなどでそうしたものを見たことがあるような。
それでですね、古書そのものを買うことはできないのですが、ラテン語だと思うのですけれど、本の1ページを額へ入れたものを買ったことがあります。
それは今でもわたしの部屋に飾っているのですが、1ページとはいえなかなか豪華。
美術品としても十分に優れたものです。
凄いですよね、洋古書は。
今では慢性的現金不足でそうしたものも買えませんが(笑)。
でも「モロッコ革」とか、手に取って見てみたい気持ちはあります。

> 稀覯本だからといって図書館とか博物館に入れられてしまうと本は死んでしまう

この辺りは分かるようなピンと来ないような。
わたしの場合、図書館で借りまくり、古本屋利用しまくりなのもですから。
もちろん大好きな本は買います。
しかし大好きでも経済的困窮者のわたし(笑)には買えない本もあります。
それとわたしにとっては、「特に大好きではないけれど読んでみたい」本が無数にあるのです。
そういうのは図書館でじゃんじゃん借りちゃいますね。

本の所有についてですが、「読書法」的なものを読むとよく主張されているのが、「本は線を引いたり、メモしたり、折ったりと、「本を汚しまくるのがいい読書だ」ということです。
それは実用書だけでなく、小説や哲学書などでも同様だと言うのですが、この読書法についてはどう思われますか?

> この本は全く参考にならない内容で

いいですね~。それこそ人類が創り上げて来た文化の真髄(笑)!
現在の世界を覆う実用最優先に対するアンチテーゼの感もあります。

> そんなに印税って入るものなのかという疑問

確かに!(笑)
すごく売れるというタイプではないですよね。
古書収集で首が回らなくなっているとすれば、鹿島先生への親しみはいやまします(笑)。


・・・

プリンスが「天才である」というお話、わたしのように今まで薄くしかプリンスを聴いて来なかった人間にもよく分かります。
従来のどのような枠の中にも納まりようのない、多方向へひたすら伸びていくような才能の光という感じを受けます。
彼の音楽ビジネスに対する不満というものにもとても興味があります。
特に日本の場合はメジャーな俳優やミュージシャンたちからなかなか本音を聴けないですから、彼らのインタヴューを読んでもフラストレーションが溜まることが多いのです。
あらゆる分野にビジネスが大きく介入してくる社会としては米国が総本山なのでしょうが日本もなかなかのもので、さらに米国より芸術やエンターテイメントの足腰が弱いために米国以上にビジネス依存のように感じてしまいます。
(ビジネス様には逆らえない)という雰囲気ですね。
もちろん少数派には逆らっている人たちもおりますが。

> 一般人のそれとは違うのだと私は推理するのです。

プリンスとかマイルスとか、見ていた世界は違うでしょうね~。
見たいような、見たくないような(笑)。
かつて渋谷陽一が、「天才になりたいかどうかと言えば、なりたくない」と。
その理由はやはり、「天才ともなれば、その内心はとてつもない言語に絶する苦しみがあるもので・・・」とか、だいたいそのような意味(正確には覚えてないのですが 笑)を述べてました。

> でも日本では異常に過小評価されています。

ですよね~。
そしてプリンスだけではなく、昨今は評価以前に海外文化への無関心層がマジョリティになっています。
一般のファンだけでなく、記者などメディア関係者にもそんな人たちが増えている感があります。
本当の意味での「国力」って何なのだろうといつも憂いてます。

> Auditorium StravinskiとかMiles Davis Hallというホール名

素敵ですね!
サイトを見せていただいて、「行ったつもり」になりたいと思います(笑)。

そう言えば、もうご覧になっているかと思いますが、柴田淳やGLIM SPANKYが「ひこうき雲」を歌っている動画がYouTubeに上がっていますね。
特にGLIM SPANKYのはおもしろく感じました。
(いかにも感情をこめて歌っている)という歌い方ではない方が、感情が伝わる場合もありますね。
もちろんヴォーカルに余程の力が必要ですが。 RUKO


by 末尾ルコ(アルベール) (2019-09-17 20:33) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

そうですか。ルコさんがお読みになっているのなら心強いです。
最近、私の中での注目度がダントツに上がってきました。(^^)

1ページを額に入れたもの、なんとなく想像できます。
そういうふうにまとまっていたものを切り離してしまうのって、
日本の絵巻物を分割してしまうのと似ていますね。
ホントは切らないほうがいいんでしょうけど、
でもそうしてそれぞれの美術品として鑑賞するという方法も
ありだと思います。

ただ、鹿島先生が言っている洋古書の金額はとんでもないので
あくまで話として聞いているだけです。
とても手が出せませんから、かえって気楽ですね。
というか、そうして首が回らなくなるような人に
金を貸してしまう銀行っておそろしいと思ってしまいます。(^^;)

図書館に入れられたら死んでしまうというのは、
以前、鹿島先生がどうしても欲しい本があり、
でも金額的に買えないので大学の図書館で買ってもらって
それを読めばいい、と考えて実行したのだそうです。
ところが実際に大学の蔵書となってみると、
べったりと図書館の蔵書印が押されていて、
それを見たときに何か違うと思ったらしいのです。
つまり生きているものが剥製になってしまったという感覚です。
蔵書印は押さなければなりませんが、
その蔵書印というものの大雑把さというか
センシティヴでないものが見えてしまうと
その本の価値というものも自分の中で下がってしまう
という意味合いなのではないかと思います。

この感覚に共感するのは、
私が図書館というものをほとんど利用しない
ということと関係があるかもしれません。
なぜ図書館を利用しないかというと
そこには私が読みたいと思う本がほとんど無いからなのです。
必要な本は自分で買ってしまいますし、
「大好きではないけれど読んでみたい本」 というのは
私の場合、ほとんど無いのです。
読みたい本か読みたくない本、この二者択一なのです。

読書法についての 「本を汚しまくるのがいい読書だ」
ということについてですが、
これは逆に私の場合には全くあてはまらないのです。
というのは、まだ幼い頃には私も図書館を利用したり、
また担任の教師から本をお借りしたりしたことがありました。
その場合、本に線を引いたり汚したりすることはできません。
つまり私にとって本は神聖なもの、
という考え方があって、そのようにして刷り込まれたものが
いまだにあるのではないかと思うのです。

私が読んだ本は、他人に言わせれば
「全く読んだ形跡がない」 とのことです。(笑)
つまりそのまま書店の棚に戻しても遜色が無い状態です。

何か本に書き込んだり線を引いたりすると、
その段階で思考していた状態をその個所に固定することになる
と私は思うのです。
何度も読んだ本に、私も書き込んだりしたことがあったのですが、
そうするとその書き込みに影響されてしまい、
自分の考えがそれ以上に発展していきません。
新しい認識が生まれて来ないような気がするのです。
かつて、サルトルの『嘔吐』という小説に
線を引きながら読んでいた人がいました (私の知人です)。
それを 「バカじゃん!」 と言うより以前に、
その線を引いた本を他人に見せてしまうという恥ずかしさのほうが
私を憂鬱にします。

これは話が少しズレますが、
確かジョアン・ピリスは楽譜の中に何か書き込むことをしない
と言っていたような覚えがあります。
つまりそこに何かを書いてしまうと、奏法がそれに固定され、
別のアプローチをしたいときの妨げになるということなのです。
これは楽譜でも本でも同じことだと私は思うのですが、
たとえばその著者の解釈に賛同したとして、
それについて本のその個所に書いておいたとしても、
10年経ってから同じ本を再読したとき、
自分が10年前と同じ考え方をしているかどうかはわかりません。
もしかすると正反対の意見を持つかもしれません。
そうしたとき、前の書き込みがあると、
それは自分の自由な思考の妨げになると思うのです。
これは実際に私が経験したことにおける対処法であって、
そんなの違う、という意見も当然あると思います。
でも私はそういうことがあってから、
本には極力何も書き込まないようにしています。

>> さらに米国より芸術やエンターテイメントの足腰が弱いた
>> めに

これはその通りですね。
ビジネスモデルとして採用しているけれど、
実際にはそれだけのポリシーがないので、
結果としてまさにビジネス様のお通りになってしまいます。
本は売れなくては意味が無いとうそぶく編集者と変わりません。
極論ですが、売れるような本しか出していないようでは
それは健全な出版社ではありません。

天才にはなりたくないという渋谷陽一の考えというのは
正しいですね。大変納得できます。
でも私の場合、天才になりたくてもとてもなれないので
別にどうということもないのですが。

海外文化への無関心層が多くなっているのではなくて、
この国の鎖国政策によって無関心になっているのだと思います。
鎖国政策という言葉は愚民政治と同様の意味です。
国民が愚民であるほうが政治的には楽でしょう。

モントルーは歴史を重ねるにつれて、
立派な専用ホールを持つようになったのだそうですが、
私はビル・エヴァンスの頃の、まだそうしたホールのなかった頃の
そのざわざわした雰囲気のほうが好きです。
ビル・エヴァンスはヴィレッジ・ヴァンガードもそうですが、
必ず特有の空気感があります。
それは偶然そうなったのではなく、彼から発散するものが
その場をそのような雰囲気に、あまり整然としたものでなく
ときとして猥雑さを混ぜた雰囲気に作り上げるのではないか
というふうに邪推しています。(^^;)

GLIM SPANKYのひこうき雲は良いですね。
ただ、柴田淳でもそうですが、そのヴォーカルの良さもありますが、
曲そのものが圧倒的にすごいのだと私は思います。
なんでこんなダウナーな曲を、
新人歌手のアルバムの冒頭曲に持ってきたのか
(そもそもはシングル盤のB面曲だったのです)、
でもそれは当然だったのですね。
何十年か経ってそれが正しい選択であったのがわかるのですから。
by lequiche (2019-09-19 02:14) 

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