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Quiet Now — 嶋護『JAZZの秘境』 [本]

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嶋護『JAZZの秘境』は久しぶりに読んだスリリングな本である。その第1章 「絞殺された白鳥の歌」 はビル・エヴァンスの最後のレコーディングといわれるキーストン・コーナーでのライヴの話から始まる。
ビル・エヴァンスは1980年8月31日から9月7日 (あるいは8日)、サンフランシスコにあるジャズ・クラブ、キーストン・コーナーに出演した。その演奏を、プライヴェート録音であるが、一応ラインで録っていた記録が《Consecration》《the last waltz》といったタイトルでラスト・ライヴとして発売されたアルバムであるが現在は廃盤である。そのあたりの事情が非常に詳細に語られていて、まるで推理小説のようで面白い。そしてビル・エヴァンスは9月15日に亡くなる。それは緩慢な自殺と言われる死であり、彼自身も自分の死期が近いのを覚悟していて、しかしその直前までライヴを繰り返していたのだという。しかもびっしりと予定を入れていて、それはそうすることによって死神の到来を遅らせることができるのではないかという妄執にとりつかれていたのかもしれないと思われるほどの異常なライヴツアーであった。
彼はその後、東海岸に行き、ニューヨークのジャズクラブ、ファット・チューズデイズに出演したが、11日に体の具合が最悪となり演奏することは不可能になって、15日に医者嫌いのエヴァンスを無理やりに病院に連れて行ったのだがすでに手遅れだったのだという (en.wikiにも15日とあるが、ja.wikiでは14日に入院し翌日亡くなったと書かれている)。つまりキーストン・コーナーの録音は死の約1週間前の録音であり、最後の録音とされている。ファット・チューズデイズでの録音も存在するのでは、とも噂されているが、現在のところそれは確認されていないとのことである。

晩年のビル・エヴァンスの演奏については毀誉褒貶があった。音が緻密でなくて雑であり、全盛期に較べて内容的に落ちるという評をする人も多くいる。ジャズに詳しい私のかつての知人もそのような意見だったので、事情に疎いその頃の私はそれを信じ込んでいたような記憶がある。時を経て私が、自分の耳しか信じないと繰り返し書くようになったのは、そうした他人の意見に惑わされて後悔するのを避けなければならないこと、そして自分の耳と感性を信じるべきという信念でもある。音楽を良いと思うか悪いと思うかは人それぞれで相対的な感覚なのであり、それを他人の耳に委ねる筋合いはない。したがって逆にいえばこうして書いている私の戯言などに惑わされてはならないのである。そもそも他人の批評など、参考にする程度の価値しかないはずなのだ。

ビル・エヴァンスは若い頃の知的で繊細で神経質そうに見える外見とは裏腹に、ジャンキーで競馬狂で女性問題も複雑で、医者嫌いの頑固で破滅的な性格だったのである。最後まで麻薬との関係性を断ち切ることはできなかった。冷静に聴けばビル・エヴァンスの最盛期はスコット・ラファロとの頃と、そしてヴァーヴの諸作、特に《at the Montreux Jazz Festival》を頂点とする比較的初期の頃にあるように思う。だが私の最も好きなバド・パウエルはとっくに全盛期を過ぎた《Portrait of Thelonious》であることは以前に書いた。時にもつれてたどたどしい指が彼の人生の悲哀を滲ませていて心に響くのである。それと同様に、ビル・エヴァンスの遺した演奏は出来不出来を超えてそのすべてが聴く対象としての意味がある。それは例えばパーカーやマイルスと同様という意味である。
またエヴァンスは自分の演奏に対する賛辞としての言葉であるbeautifulとかmelodicといった形容を好まなかったのだという。そして次第に自分の音楽は単音によるフレーズではなく、ハーモニー、つまり和声が重要であると語っていたのだという。

嶋護のビル・エヴァンスのこの最晩年に対しての記述は、未知のことも多くて興味深い。いや、興味深いなどというステロタイプな表現で形容してしまえるようなレヴェルではなくて、当時の音楽フィールドにおける機微がくっきりと浮かび上がる。
そしてこのラスト・トリオは20ヵ月にわたって続いたが、その間、純粋なピアノ・トリオでのレコーディングは1枚も無いのだという。ほとんどはオフィシャルでないライヴ録音であり、キーストン・コーナーでの録音も最終的にはオフィシャルになったが、もともとは店のオーナーが趣味で録っていた音であり、プロフェッショナルな録音ではないのである。

こうした事情は著者が、レコーディングに関連したライターであることに発しているといえる。それゆえにこの 「絞殺された白鳥の歌」 の後半は、嶋護のレコーディングの変遷に対する卓見であり、まさに目からウロコであった。
それによればキーストン・コーナーでのライヴCDは初出の盤が最も音的にすぐれているというのである。その具体的な例として、いわゆるアウトボードであるコンプレッサーの使い方についての説明がある。コンプレッサーはその名の通り、録音された音を圧縮するためのデヴァイスであり、リミッターよりもよりヴァリアブルな融通性を持っているが、同時に音の色付けとして録音された音に対する影響力を持つ。
例としてルディ・ヴァン・ゲルダーとフェアチャイルドのコンプレッサーによる魅力的な音作りをあげている。コンプレッサーを通すことによって、ある種のテイスト——ジャズらしさが生まれる。だがコンプレッションすることは必ずしも良い面ばかりではないということが語られる。つまりCD時代になってからしばらくして音圧競争が始まり、コンプレッションを一杯にかけた、のっぺりとしたサウンドが流行、あるいは主流になったことをあげている。フィル・スペクターを嚆矢とするウォール・オブ・サウンドという形容は昔から言われていたが、音圧競争というのはそのパターンに包含される手法であり、聴いていて気持ちがいいのかもしれないが、そうした意図によってリマスターされた音は全体が圧縮されてしまうので、エヴァンスの本来のクリーンなピアノがそうではなくなってしまっていると指摘するのである (ヴァン・ゲルダーに対する批判というのも存在するがそれはまた別にすべき話題である)。
嶋護はこの差をラウドな音であるか、クワイエットな音であるかの差、というふうに表現している。ラウドな音というのが、まさにコンプレッションされた音という意味である。だがクワイエットであることはヘッドルームを多く必要とするので音圧が低くなるから、見かけ上、音が痩せてしまったように聞こえてしまう。それを防ぐためにはヴォリュームを上げなければならないが、それにはパワーが必要なのでプアなオーディオセットではそれが果たせない、というようなことであるというふうに読み取れる。

私はレコーディング・テクニックにはまるで無知なのでこの解釈が正しいのかどうかさえよくわからないのだが、ビル・エヴァンスの最も有名なライヴ、ヴィレッジ・ヴァンガードでも、最初に出ていたアルバム《Sunday at the Village Vanguard》、そして《Waltz for Debby》と、後年リリースされたコンプリート盤とでは明らかに音が違うように感じられる。そのことも以前、記事に書いたが、アルバムとして編集された音は、ある意味、化粧された音なのかもしれない。コンプリート盤は音が、良く言えばリアリティがあるが、色付けがなく無骨でもある。それは何もポピュラー音楽に限ったことではなく、経緯としては異なるが、古いフルトヴェングラーの録音などにもそうした相違のある現象が存在している。加工した音が必ずしもよいわけではなく、だからといって全くのすっぴんでは見せられない、というような二律背反した意識もあるのだろう。
たとえばマークレヴィンソンがその初期の頃、音に色付けをしないように、とシンプルなプリを出していたのにもかかわらず、チェロになった途端、オーディオパレット (一種のEQ) というまるで正反対の機器を出したことを思い起こさせる。
だが現実には、コンプレッション云々どころか、それを体感するためのキーストン・コーナーのCDそのものが廃盤のままであるということが悲しい。つまりビル・エヴァンスでさえその程度の需要しかない音楽であり、ジャズという音楽がもうメインストリームではないという証しなのだ。


嶋護/ジャズの秘境 (DU BOOKS)
ジャズの秘境 今まで誰も言わなかったジャズCDの聴き方がわかる本




Bill Evans/Quiet Now (at the Montreux Jazz Festival)
https://www.youtube.com/watch?v=b_20aWN3iLo

Bill Evans/Quiet Now
https://www.youtube.com/watch?v=FqmHDJ8sUBo
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末尾ルコ(アルベール)

とてもおもしろそうな本ですね。
わたしの場合特に、作品については知っていてもそれらを創った表現者については知らない場合が多く、このような本を読めば作品に対する理解が飛躍的に増していくに違いありませんね。
そして優秀な作者の手にかかれば、その書物自体が作品として大きな価値と悦楽を与えてくれる。
評伝や伝記文学のおもしろさですね。
予断ですが最近バルトークの音楽論(本人が書いたもの)を読んでみました。
その内容についての鑑賞を書けるほどわたしがその音楽論を理解できたわけではありませんが、それにしても(ああ、このようなことを考え、試みながら創作していたのだなあ)ということだけは少しだけ理解でき、今後彼の音楽を聴いていく上で助けになりそうです。

リンクしてくださっている「Quiet Now」、聴かせていただきました。
まったく異なるもののように聴こえますが、それがどう異なるとか、わたしには表現できるほどのジャズ理解がありません。
言えるのは、「どちらも愉しく聴かせていただきました」ということくらいです。
が、ビル・エヴァンスも今後どんどん聴き込んで行こうと思います。

「beautiful」という言葉を好んでなかったというお話しもおもしろいですね。
英語で「beautiful」は最上の賛辞の一つだとは思いますが、あまりにも流通し過ぎている言葉でもある。
もちろんエヴァンスがこの言葉をなぜ好んでなかったかわたしには分かりませんが、そうした言葉に対する鋭敏な感覚は好ましく感じます。
あまりに卑近な例ですけれど、日本で誰も彼も「イケメン」、何もかも「ヤバい」で済まし始めてからもう長いですが、わたしはこれらの言葉も「この意味」では決して使わないようにしています。
まあ基本的に新語・流行語は「パロディとして」しか使ってません。
その辺りを理解していただけない人の方が多いのですが、それでも挫けず(笑)自分の中の規範は崩さないようにしています。

エヴァンスの人生、そして容貌の崩れようも、一時代以前の芸術家の一つの典型のようで、あるいはヴィスコンティ作品のルートヴィッヒ2世の崩れ方を想起させてくれます。

・・・

> 出版社が仕掛けた可能性もあるかもしれませんが。(笑)

確かに(笑)。
仕掛けといて、すっとぼけているのかもしれませんね。
それはさて置き、過去を美化する趣味はないですが、かつての本屋、外国文学や哲学などの文庫が普通に目立つ場所に並んでいて、ごくごく自然にカミュ、サルトル、カフカ、イプセン、ランボー、ボードレール、ラディゲ、ドストエフスキー、トルストイ、ヘミングウェイなどの名を覚え、小学生であっても書店へ足を運べばそうした人たちの名前がすうっと頭に入って来たものでした。
すぐには読まないにしても、人生の中で(いずれ読む必要がある)という意識が育まれたものです。
どんな分野にしても、「ドメスティックのみの興味」というのはわたしの好みじゃないんですよね。

『白鯨』はもう、(凄いなあ・・・)と。
とにかく、(こんな文章を書ける人類が存在するんだ)と、読了してないわたしが語るのは僭越に過ぎますが(笑)、途中まででもその凄さは十分分かります。
「難解」とはわたしも思いませんが、とにかくその書きっぷりが凄まじい。
ドストエフスキーやフローベールなどとはまた違った凄さだと感じます。

> レミングはレミングでありながらレミングではない。

へえ~、凄く興味を惹かれます。
寺山の戯曲・・・ひょっとしてわたし、読んだことないかもしれません。
短歌と詩、そしてエッセイはかなり読んでおり、あるいはビデオ化された舞台作品鑑賞は観ているのですが、戯曲は読まねばなりませんね。
これまたとてもいい目標の一つができました。

プラモには興味なかったわたしですが、ミニカーは少し持ってました。
でも飾って鑑賞よりも、ミニカー同士をぶつけ合ったりしてしまうんです。
言うまでもなく早期にポンコツになってしまうという、そんな少年時代でした。 RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2020-03-29 09:53) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

この本は『レコード・コレクターズ』という雑誌の書評で知って
読んでみたものです。
著者の嶋護さんは、音楽というよりも音響関係のライターですので、
音楽評論とは少し角度の異なった視点からの指摘があり、
さらに音楽そのものへの造詣も深いようなので
大変読み応えのある本です。

この本の中にも書いてあるのですが、
ある時期、ビル・エヴァンスのピアニズムは
ジャズシーンの中で否定されていたこともあったようです。
流行の力というのは恐ろしいですね。
その力に負けて日和ってしまう人もいますから。

Quiet Nowという曲は、コンプレッサーの説明の箇所で
「ラウドな音」 「クワイエットな音」 という対比があったので、
それに呼応して選んだ曲です。
ビル・エヴァンスは同じ曲でもなるべく異なるアプローチで、
というポリシーで演奏していました。
ですから同じ曲でも全く異なったニュアンスになったりします。
逆に何度演奏しても、ほとんど同じアドリブをする
という人もいて、それだとアドリブじゃないだろう?
と思うのですが、一口にジャズといってもいろいろです。
エヴァンスはライヴの際も、前もってメンバーとの練習は
ほとんどしなかったようです。
練習をやり過ぎると方法論がルーティン化してしまいますし、
アドリブが真のインプロヴァンズではなくて、
単なるストックフレーズに堕してしまう危険性があるからです。
これはレニー・トリスターノなども言っていたのですが、
「ストックフレーズを頻発したらそれはアドリブではない」
のですが、それを遵守する潔癖性の人は意外に少ないのです。

beautifulな音という形容は
リリカルなメロディーラインをさすことが多いですが、
エヴァンス自身は、複雑なコードを重ねて
プログレッションしていくことが
一番すぐれた楽曲構成だと思っていたようです。
エヴァンスの弾く和音は非常に凝ったものが多いですが、
和声はメロディーラインに較べるとわかりにくいです。
エヴァンスがbeautifulというような安易な賛辞を嫌うのは
そうした理解されにくいことに対する苛立ちもあったのでしょう。

バルトークは非常にすぐれた構成力を持っていましたが、
彼の書いたものを読んでも肝心なところが書かれていない
と感じるときがあります。
隠しているのかもしれませんが、
でもむしろ文字にすることがむずかしいからなのかもしれません。
音楽は音楽であり文字によって代替できるものではないからです。

ルートヴィヒ、あぁ確かにそうなのかもしれません。
映画のヘルムート・バーガーを思い出します。
エヴァンスのピアニズムのフォロアーとして、
たとえばドン・フリードマンなどがあげられますが
和音の構成力においてエヴァンスに比肩できるレベルはありません。
瞬時にああしたコードを押さえることができるのは
エヴァンス後にも出現していないのです。

NHKの100分de名著にペストの回があって、
今、そのテキストのバックナンバーを読んでいるのですが、
いろいろと発見があります。
100分de名著は放送そのものよりテキストのほうが
面白くて理解の助けになると思います。

今の読書傾向は、わかりやすく読みやすいのが第一で、
つまり娯楽の域を出るものではありません。
そこに難解さとか複雑さがあってはいけないのです。
そうした本が主流となることによって、
本自体の市場が結果として衰退していくことを
出版社はわかっていないようです。
サルトルなんて、今はブーツメーカーのほうが有名ですし、
カフカといったらシシド・カフカです。
もうすぐ華氏451の世界が来るかもしれません。

寺山修司の著作集としてまとまっていて入手しやすいのは
現段階ではクインテッセンス出版の著作集でしょうが、
私は1冊しか持っていません。
あまり良い編集とは思えなかったものですから。
この著作集の第3巻が戯曲集です。
ただ戯曲は設計図ですからそんなに面白くないです。
寺山の演劇はイヴェントであって
戯曲という静的イメージの範疇に収まるものではないのです。
それに、すでに寺山の著作自体が入手しにくい状況にあります。
これからの時代、全集が出ることはおそらく無いでしょう。
文化果つる国です。

ミニカー同士をぶつけて遊ぶ、
それは健全なおもちゃの使い方です。
稀少な品を大切に持っていたとしても
北原照久先生が高額に鑑定してくれるだけですから。(笑)
by lequiche (2020-03-30 02:40) 

Boss365

こんにちは。
「毀誉褒貶があった」について、アーティストにはピーク時や最高に素晴らしい作品を生み出す時期があるのが常のような気がします。あるだけ凄いジャズマンです。好き嫌いの好みもありますが、晩年のマイルス作品は聴かない小生です(笑)。コンプレッション「コンプレッサーによる音作り」なるほどです。勉強になります。「Sunday at the Village Vanguard」や「Waltz for Debby」持ってますが、「Waltz for Debby」はピアノ音の入りで「吸い込まれるエナジー」パワーを感じます。ジャズは色々な分野にソースとして受け継がれていると思いますが「ジャズという音楽がもうメインストリームではない」状況は残念ですね!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2020-04-01 13:54) 

NO14Ruggerman

ビル・エヴァンスのことはあまり存じ上げないのですが、若い頃のジャケット写真や「枯葉」などからの演奏でイメージするのは銀行マンのような繊細で規律の正しさですが、私生活は真逆なのですね。
極めてアバウトな括りですが同じジャズピアニストとして私が敬愛して止まずも残念なことに先日他界されたマッコイ・タイナーの方が風貌や演奏スタイルから破天荒なイメージを受けるのですが、81歳というご長寿から健康に気遣われてたかと類推します。
ビル・エヴァンスと好対照である事が不思議な感じです。
by NO14Ruggerman (2020-04-01 18:09) 

lequiche

>> Boss365 様

なるほど。良い作品を生み出す時期はあるのかもしれません。
それがたった1作という人だっていますから。
でもたったひとつの作品でもヒットがあるのはすごいです。
マイルスも晩年は身体が不調でしたから、
全盛期に較べると残念な演奏もありますね。
お気持ちはよくわかります。

コンプレッサーはダイナミックレンジをどう取るか
という問題であり、
特に最近はイヤホーンで音楽を聴いたりしますから、
なるべく音のダイナミクスを少なくする方向に行きがちです。
mpegというフォーマットは圧縮を前提としていますが、
音のコンプレッションもそうした方向性に似ています。
もうひとつ重要なのがリヴァーブ、つまりエコーで、
全盛期のジャズは豊富なエコーをかけることが常態化していた
とのことです。

Sunday at the Village VanguardとWaltz for Debbyの2枚と
コンプリート盤は音が違いますし、空気感が違います。
初めてこのコンプリート盤を聴いたときは、
マスターテープをほとんど加工していない音なので、
こちらの方が正しい音だと思ったのですが、
なんども聴いているとそうともいえないと思ってきました。
つまりマスターを作るまでに種々の加工をするわけですが、
ミュージシャン本人が最終結果にOKを出したのですから、
エンジニアの個性だけの問題ではなく、
アルバムというパッケージとして捉えられるべきだと思うのです。

ただ、コンプリート盤はパーカーのコンプリート盤と同様、
失敗したテイクまで収録してありますので、面白いです。
さらにレコードのコンプリート盤もあるのですが、
まだ聴いていません。
でもきっとこれはこれで、また音が違うと思います。

6年前にそのへんのことはすでにこのブログに書いていて、
重複している内容もあるのですが、
お時間のあるときにでもご覧いただければ幸いです。
    ↓
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2014-10-09
by lequiche (2020-04-02 01:38) 

lequiche

>> NO14Ruggerman 様

銀行マン、笑えます。(^^)
ビル・エヴァンス、見かけと違ってとんでもない人です。
死の直前までライヴをたて続けにやっていたのは、
ひとえに薬を買う金欲しさだったという話です。
CBSに移籍して最初のアルバムでは
電気ピアノを弾いていますがそのピアノも
売り飛ばしたそうです。薬を買うお金がないので。
酒、タバコ、女、賭博、薬が大好きという破滅派で、
これに音楽が加わっていました。(笑)

マッコイ・タイナーがどうだったかは知りませんが、
健康でなければ長生きはできませんね。
ただ昔のジャズ・ミュージシャンは破滅的な人が多かった
というのは事実です。そういう時代だったのでしょう。
by lequiche (2020-04-02 01:43) 

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