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《裏窓》— 浅川マキを聴く [音楽]

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開かない窓は絶望のメタファーである。まだカメラを初めて持ったばかりで何を撮るのも面白かった頃、でも見知らぬ人にいきなりレンズを向けるわけにもいかず、誰もいない風景を撮っていたことがあった。風景というよりも何かひとつのかたちあるものが、一種のオブジェのような、言葉を発さない私専有のモデルでありそのひとつが窓であった。
たとえば煌びやかなショーウィンドウや毎日開け閉てする窓なら快活で生きている感じがするし、そしてヒッチコックの窓も活用されているライヴな窓であるが、もう決して開けられることのない、中の様子もわからない曇り硝子の窓は光を喪った瞳であり、幽閉された王女の幻想さえ思い浮かばない単なる虚ろな形象である。

古い大学構内の裏庭に面した窓は、その正面に家具を押しつけられてもう開けられる可能性が無くなり、沈黙したままで存在していて、ときに外壁の煉瓦には蔦が絡んでいたりして、しかしそれは決して美しいものではなく、寂れて廃れゆきつつある銹びた風景でしかない。

森山大道の写真と文章から受ける印象は、増感されたざらざらの肌合いであり、すべての風景は変質して時代を遡る。それを見ていたら突然、浅川マキの《裏窓》(1973) を思い出したのである。数年前、CDが再発されたのだが、そのモノクロームのジャケット写真は田村仁で、ひとつの時代を象徴するように増感されていて、無骨な麤皮のような手触りを連想させる。

アルバム《裏窓》の白眉はタイトル曲の〈裏窓〉である。

 裏窓からは 夕陽が見える
 洗濯干し場の梯子が見える
 裏窓からは
 より添っている ふたりが見える

 裏窓からは 川が見える
 暗いはしけの音が聞こえる
 裏窓からは
 ときどきひとの 別れが見える

 裏窓からは あたしが見える
 三年前はまだ若かった
 裏窓からは
 しあわせそうな ふたりが見える

 だけど夜風がバタン
 扉を閉じるよバタン
 また開くよバタン
 もうまぼろしは 消えていた

 裏窓からは 川が見える
 あかりを消せば未練も消える
 裏窓からは
 別れたあとの 女が見える

この裏窓から見える風景は貧しいけれど決して死に絶えている風景ではない。しかし主人公である女は現実の風景とともに過去の風景を見ていて、それは冷静な視点でありながら最後には悲哀となって消えてゆく。
川の描写は《泥の河》のようでもあり、洗濯干し場を撮った荒木経惟の作品があったような気がする。それは沈黙した記憶のなかにある、過去の庶民が知っていた風景である。

作詩は寺山修司だが、非常に技巧的な構造をしている (浅川マキの場合、作詞ではなく作詩と表記するとのことでその慣例に従う)。
「夕陽が見える」 「梯子が見える」 というように 「見える」 という視覚を繰り返しながら、第2連の2行目のみ 「はしけの音が聞こえる」 と聴覚を入れているが、これは最後の第5連の2行目に呼応していて、「未練も消える」 への伏線である。しかも 「きこえる」 が 「きえる」 と 「こ」 がひとつ無くなっただけなのに、動きは能動的なものから受動的なものへと変化する。消えてしまうことは、サビである第4連の4行目、「もうまぼろしは消えていた」 だけで終わらず、第5連の2行目で 「消せば」 「消える」 と追い打ちをかけている。
第1連4行目の 「より添っているふたり」 も、第3連4行目の 「しあわせそうなふたり」 も明るいイメージなのに、第2連4行目では 「ひとの別れがみえる」 という暗いイメージが対比されるが、それは第2連2行目の 「暗いはしけの音」 ですでに予感されている。そしてその暗い予感は最終行の 「別れたあとの女」 で現実化する。

音楽的にはギターによるシンプルなイントロと、曲を動かしてゆく重いリズムが印象的だ。イントロの一部はグラント・グリーンの〈Idle Moments〉のイントロのフレーズが引用されているとのことで、確かにうまく取り入れられているが、初めて知った。
サビが終わってからの市原宏祐のバス・クラリネットによる間奏があまりにも暗くて心に沁みわたる。悲しく美しい。

4曲目の〈セント・ジェームズ病院〉は神田共立講堂におけるライヴを収録しているが、南里文雄のトランペットがフィーチャーされている。ニューオーリンズ的な輝かしいソロは、しかし南里の最後のレコーディングとなったのだという。

最後の曲、〈ケンタウロスの子守唄〉は筒井康隆・作詩/山下洋輔・作曲による《21世紀のこどもの歌》というオムニバス・アルバムの収録曲のカヴァー。詩の内容は筒井らしさをあらわすSF的な設定であるが、「白いお馬」、「赤いお馬」、そして最後に 「青い星」 の 「青いお馬」 という言葉から、どこか遠くの星にいる人間が、遙か遠くの青い星 (=地球?) への望郷の念を歌っているようにも思える。しかし 「青い馬」 とはヨハネ黙示録の 「蒼ざめた馬」 であり、それは死の象徴に他ならない。B・ロープシンやアガサ・クリスティ、五木寛之にもある 「蒼ざめた馬」 のタイトルの出典はすべてヨハネ黙示録である。
筒井の場合、馬という言葉から連想してしまうのはベルトルト・ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』(1939) のパロディである『馬の首風雲録』(1967) であるが、2連の惑星という設定からはル=グィンの『所有せざる人々』(1974) も連想させる。といってもSFにはよくある設定であり、ル=グィンが筒井を剽窃したわけではない (それはおそらく不可能である)。

森山大道は1984年に 「時代のシステムがかわり、在りし日の風景がほとんど風化してしまった」 と書いている。さらに時の過ぎた今、昭和のシステムは朽ちていこうとしているのだ。変化した風景の元の風景がどうだったのかは誰も記憶していない。すぐに忘れてしまう、それが記憶の真実である。


浅川マキ/裏窓 (EMIミュージックジャパン)
裏窓(紙ジャケット仕様)




浅川マキ/裏窓
https://www.youtube.com/watch?v=KYz-1mZjhRE&t=13s
03:58 | 裏窓 (Rear Window)
11:59 | セント・ジェームス病院 (St. James Hospital)
41:09 | ケンタウロスの子守唄 (Centaur’s Lullaby)
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