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見えざるものと隠れしもの — 宮田恭子『ルチア・ジョイスを求めて』 [本]

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ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は最もわかりにくい小説のひとつだろう (これを小説として考えた場合だが)。タイトルだけは有名であるが内容はよくわからない。原文で読んだら全く歯が立たないし、そもそも英語なのかどうかも判然としないし、翻訳で読んでもますますわからない。茫然と立ちつくすのみである。

こうしたモンスターに対抗するためには正面から立ち向かっても駄目で、どこか攻めやすそうな綻びのある個所から崩してゆくというのもひとつの方法である。
宮田恭子の『ルチア・ジョイスを求めて』(みすず書房) もそういう方法で書かれている論考のように思う。ルチア・ジョイス (1907〜82) はジェイムズ・ジョイスの娘であるが、ジェイムズ・ジョイス本人でなく、その娘の生涯と生活を通してジョイス文学に迫るという、いわば 「からめ手」 のアプローチだからである。

ルチアという名は、ガエターノ・ドニゼッティのオペラ《ランメルモールのルチア Lucia di Lammermoor》からとられたのではないか、とも言われているが真相はわからない。ジョイスは音楽では歌曲が好きだったとのことなので可能性はあるかもしれない。
次第に有名作家になってゆく父の姿を見て、しかも自分がそこから疎外されていると感じたルチアは、クリエイティヴな意欲に目覚め、各種の舞踏 (ダンス) を習ったり絵を描いたりしたが、いずれも満足できる程度の到達点にまでは至らなかった。こうした彼女の意欲は、父親に自分の存在を認めてもらいたいとする願望であり、さらにいえば、無謀ともいえる父親への対抗意識でもあったが、それはかなわず意欲のみが空回りするだけであった。たぶん、彼女の中ではずっと周囲への不満やコンプレックスが渦巻いていたのではないだろうか。
つまり第三者的視点から見れば、ルチアはごく普通のレヴェルの人間であり、とりたてて才能があるというほどの人ではなかったともいえるだろう。

そうした中、父親の弟子として出現してきたのがサミュエル・ベケットである。ベケットは優秀で、ジョイスの取り巻きの中であっという間に自らのポジションを確立した。そのベケットにルチアは恋をするが、ベケットに拒否されたことで彼女は精神に異常をきたす。その頃ルチアにはすでに精神的な不安定さが見えていたので、ベケットが彼女を拒否したのだとも言われる。そしてルチアの恋も、純粋な恋愛感情ではなく、父親の弟子のトップに自分を認めさせようとする打算が働いたのかもしれない。

ルチアの病気は統合失調症で、1933年にリヨンのサナトリウムに入った後、何度か入退院、転院などを繰り返したことがあったにせよ、1982年に亡くなるまでの約50年間をずっと病院の中で過ごした。ドニゼッティのオペラのヒロイン、ルチアが狂気を宿したのと同じように。

父であるジェイムズ・ジョイスは根無し草で非定住的な性向を持っていた。いわゆる expatriate (自国離脱者) であり自発的亡命者である。亡命者であり言語的な天才でもあるということにおいて、ジョイスはウラジーミル・ナボコフに似ている。ジョイスの作品は故郷ダブリンを舞台にしているにもかかわらず、人生の後半、彼がダブリンに戻ることはなかった。
統合失調症の発症原因というのはよくわからないらしいが、こうした父親の流浪性、帰るべき家の存在が稀薄であることに対する不安感のようなものが、ルチアの性格とその病気に影響したことが皆無であるとは思えない。

以上が宮田恭子の記述により辿ったルチアの発症までの経緯である。ルチアが絵を習った教師のひとりにマリー・ローランサンがおり、宮田の探求には 「ローランサンが描いたかもしれないルチアの肖像画」 があるかもしれない、という目的があって、それは読者にとっても興味津々な部分である。

続いての宮田の記述は、ジョイス文学をその核としながら、当時の芸術全般のムーヴメントの紹介に及んでいるが、それは文学だけに限らず音楽、絵画、舞踏などを含んでいて大変参考になった。57頁からの 「リズムと色彩」 以降は特に興味深い。
メシアンとベルクソンの類似性ということが、ピエレット・マリのメシアンの評伝からの引用で述べられていて、それはメシアンの鳥に関する曲との関連で語られる。

 小鳥たちの歌は等間隔を原理とするリズムから成り立っているわけでは
 ない。メシアンのリズムは、ベルクソンにおける 「エラン・ヴィタール」、
 生の躍動が生む 「生のリズム」 と似ている。(p.71)

つまりメシアンの鳥のリズムは西欧伝統音楽の拍子に縛られたものでなく無拍子であって、それが élan vital なのだということだ。

 「脈打つところに生命があるように、リズムのあるところに音楽がある」
 と言ったのはスクリャービンであるが、リズムは音楽の、色彩は絵画の
 いわば換喩である。(p.77)

絵画や舞踏においても、文学においても、「音楽」 が形式的に一番完成されているとするコンプレックスのようなものが当時の芸術的シーンにあったのであろうか。

 舞踏という芸術に関わる音楽、絵画、身体的表現等を総合的に考えよう
 とする精神は、カンディンスキーやクレーが携わったバウハウスの運動
 の精神でもあった。(p.79)

なのだという。カンディンスキーにとって、絵画を抽象化することは芸術の理想である音楽に近づくことであったというのである。

 「すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」 と言ったのはウォルター・
 ペイターであるが、カンディンスキーもまた音楽の状態に憧れた。(p.82)

ペイターは 「内容と形式の一致」 を備えているのが音楽芸術だと指摘しているのだが、その言い回しはベケットがジョイスに関して語った言葉と通じるのだと宮田は述べる。

 内容と形式の一致、これはサミュエル・ベケットがジョイスの『フィネ
 ガンズ・ウェイク』について述べた評言でもある。(p.83)

ということであって、ベケットがフィネガンズ・ウェイクへの擁護ないしは讃辞とした言葉を引用するのならば、

 この作品 [=フィネガンズ・ウェイク] では形式が内容であり、内容が形
 式である。人はこれは英語で書かれたものではないと文句を言う。これ
 は書かれたものではないし、読まれるべきものでもない。もっと言えば、
 ただ読まれるだけのもの、見られるべきものであり、聴かれるべきもの
 なのだ。彼の作品は何かについて書いたものではない。何かそれ自体な
 のである。(p.83〜84)

表現としては抽象的だが、まさにジョイスの作品の本質を言い当てている。これはつまり私がこのブログの冒頭で 「これ [=フィネガンズ・ウェイク] を小説として考えた場合だが」 とカッコの中で書いたことと呼応する。もしかするとフィネガンズ・ウェイクは小説でなく、文字によるタペストリーあるいは曼荼羅なのかもしれないのだ。

カンディンスキーやクレーの音楽への傾倒は半端ではなくて、たとえば抽象以後のカンディンスキーの作品に付けられたインプロビゼーション、コンポジション、インプレッションといったタイトルは音楽用語であるし、クレーには音楽的タイトルの作品が多く存在するとのことである。クレー自身、ヴァイオリンを演奏することにも堪能だったようである。

ジョイスにも音楽を感じさせる作品というのはあって、『ユリシーズ』の第11挿話・セイレーンはwikiの記述によればフーガなのだという。そもそもセイレーンというのはギリシャ神話に出てくる 「鳥人」 であり、サイレン、シレーヌも同じである。
Roxy MusicのSirenもそうだし、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』(The Sirens of Titan) も同じだ。
フィネガンズ・ウェイクというタイトルもアイルランドの民謡、レンガ職人のフィネガンの通夜が元ネタであって、シェムとショーンという双子は、ハンプティ・ダンプティに呼応する。
ただジョイスの場合、音楽に対する過剰なコンプレックスや隷属性というのはなくて、方法論としての選択肢のひとつにしか過ぎない。あえていえば言語を第一とする信頼であり、それを操れるという自信である。

さて、ルチアも学んだバレエに関しては音楽とも密接に関連するが、その当時、センセーショナルな話題となったのがバレエ・リュス Ballets Russes であり、その総帥のセルゲイ・ディアギレフ Sergei Diaghilev である。
バレエ・リュスの1917年の《Parade》は、ジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽、パブロ・ピカソの美術というスタッフで、スーポーによれば 「シュールレアリスムの出発点」 であるとの評価である。(p.131)
ルチア・ジョイスが直接バレエ・リュスと関係していたわけではないにせよ、バレエ・リュスの舞踏シーンに及ぼした影響は絶大だったのだろう。

キャロル・L・シュロス Carol Loeb Shloss の《Lucia Joyce — To Dance in the Wake》という著作があって、シュロスがゼルダ・フィッツジェラルドについて言及している部分が引用されている。(p.139)
ゼルダ・フィッツジェラルドはスコット・フィッツジェラルドの妻であるが、バレエのレッスンをしたこと、身近に有名な作家がいたこと、そして精神の平衡を崩したことなど、ルチアと共通点があまりにも多い。

バレエをはじめとして、結局何もものにならなかったルチアが最後に辿りついたのが装飾頭字 illuminated letters という、本の中の、飾り文字の製作であった。これは父ジョイスがリハビリを兼ねてルチアにやらせたとも思われる。
そうした飾り文字の元のひとつは『ケルズの書』という羊皮紙に書かれた福音書の写本であって、ジョイスはその複製本を持っていたし、ルチアもそれを見たのではないか、というのが宮田の推理である。そしてルチアは文字の製作に関して非凡な能力を発揮したともある。
装飾頭字は、1つか、または複数のアルファベットを細密画のように装飾する手法であるが、文字が素材の元でなくてはならないという制約の中でのヴァリエーション・テクニックであると言える。

ただ残念なことに、ジョイス財団の規制が厳しいために、ごく少部数しかないルチアの手がけた装飾頭字の書籍等は公開されていないし、写真に撮ることさえできないのだという。
また遺族の意向により、ルチアが統合失調症であったことは隠匿すべき方向にあり、ジョイスの妻・ノーラの伝記でも、ルチアに関する記述が削られたとのことである。

『ルチア・ジョイスを求めて』の読後感だが、結局ローランサンのルチア像は見つからなかったし、たぶんそれは最初から存在しないのではないかと思われる。そしてルチア自身の作品が公に公開されることはおそらくないだろう。

宮田恭子の探求心は強く、驚くべき持続性もあり、ある種の推理小説的なスリルも備えていて、読むことについてこうした学術書としては大変面白い内容であったと思う。
しかし、ルチアが統合失調症であったことについて、ジョイスの遺族はあまり触れたがらないようであり、これは探求したい側とそれをさせたくない側との争いでもあるようだ。
大文学者の娘であったがゆえに、あまり触れられたくない病気のことまで公開されることは仕方がないのか、ジョイス文学を知るためにはそこまで必要とされるのか、という問題がある。

以下は私のごく個人的な意見である。
芸術の評論をする場合、どうしても作品だけではなく、その人の人間性や生活にまで立ち入ってしまうのはやむを得ないことだと思う。しかし、これは言葉が厳しいかもしれないが、あまりに些末なところまで立ち入るのはどうなのだろうか。
文学における作品分析はその作品自体を深く掘り下げていくべきであって、著者やその周辺の人間に過剰に乗り入れていったとしても、作品解釈の本質を失うことにならないか、とも思うのである。
私生活も含めた詮索は本人までに限るべきであり——というのは私の視点で見ると、ルチア・ジョイスの才能は、その才能を広く知らしめるべきか、それとも病気 (プライバシー) を隠すべきか、という二者択一をした場合、プライバシーを守ることのほうに比重がかかるのではないか、と考えるからである。これはつまりジョイス家の遺族の心情にシンパシィを感じてしまう側に私がいるといってもよい。

といっても宮田恭子のルチアへの思いは、彼女の病をバラすということではなくて、一種のフェミニズム的情動というふうにも思えるし、ルチアに対する愛情というのも非常に感じるのであるが、でも、ともすればこうした暴露はパパラッチ的で通俗的興味の餌食になる部分が無いとは言い切れないのである。

私の過去に出会った音楽教師の言った印象的な言葉があって、もちろん彼は無名の教師に過ぎないのであるが、それは 「音楽はウソをつかない」 というのである。
その作曲家が性格が悪くても変態でも、それは直接音楽とは関係ない。音楽はそこに現れてくるものがすべてで、その音楽が素晴らしければそれでよい、それこそが音楽なのだとのことだ。
例えばモーツァルトは実生活においては、映画にも描かれたように、下品な振る舞いをする人物であったということが定説になっているが、そうした行動とモーツァルトの音楽とは関係はあるのだけれど、でも直接には関係ない、と我が音楽教師は言い切るのである。
もっとわかりやすい例をあげるのなら、それは矢沢永吉でも同じである。矢沢の普段の言動と、その音楽を支持するファン層から私たちは矢沢の音楽に対して一種の先入観を持ってしまいがちだが、矢沢の音楽自体は、そうした先入観とは実は微妙に違う。

つまり作品とは自立すべきものであって、そして作品として世に出たものは作者とは関係ないのである。作品は作品自体だけで評価されるべきであって、困難であるかもしれないがそうすることが批評の理想だと私は思う。


画像:ジェイムズ・ジョイスと家族


宮田恭子/ルチア・ジョイスを求めて (みすず書房)
ルチア・ジョイスを求めて――ジョイス文学の背景




ジェイムズ・ジョイス:宮田恭子・編訳/フィネガンズ・ウェイク 抄訳 (集英社)
フィネガンズ・ウェイク 抄訳




Carol Loeb Shloss/Lucia Joyce — To Dance in the Wake (Picador)
Lucia Joyce: To Dance In The Wake

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