ポゴレリチを聴く [音楽]
Ivo Pogorelich
サントリーホールのイーヴォ・ポゴレリッチのピアノ・リサイタルに行く。今回の来日での東京公演はこのソロ1回と読響とのコンチェルトのみである。久しぶりのサントリーホールだったので行き方を忘れてしまった。12月らしい冷たい風が吹いている。
少し早く着き過ぎてしまったのでサブウェイでサンドイッチを食べてから、すでに人の多くなりはじめたホール正面で待っていた。やがて入場時間を報せる凝った仕掛けのオルゴールが鳴る (パイプ・オルゴールというのだそうだ。いつもギリギリに行くのでこんなのがあること知らなかった→下記に動画リンクあり)。
ホールに入ると、カジュアルな服装で帽子をかぶったサッカー選手みたいなヘンなニイチャンがホール中央のピアノをぐにゅぐにゅと弾いて練習していた。それがポゴレリッチ本人であった。そのことはすでに過去の情報で知っていたが、あ、ホントだ、と思ってちょっとびっくり。
演奏曲目は次の通りである。
ショパン:バラード第2番ヘ長調 op.38
ショパン:スケルツォ第3番嬰ハ短調 op.39
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化 op.26
〈休憩〉
モーツァルト:幻想曲ハ短調 K475
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 op.36
〈アンコール〉
シベリウス:悲しきワルツ op.44
前日に一応、予習をしておこうと思ったのだが、ともかくポゴレリッチはCDを出していない。ここ20年間、まともなリリースが無いのだ。DGの《Complete Recordings》を持っているのだが、かろうじて最初のショパン集 (1981年) と最後のスケルツォ集 (1995年) におけるスケルツォくらいきりない。それで予習は断念。行き当たりばったりでいこう。
ポゴレリチといえば、あまりにも遅い演奏速度というのがいつも話題になる。招聘元のカジモトのサイトにおけるインタヴューでもそのことについて触れられていた。長いけれど引用してみよう。
──最後にひとつ、あなたの機嫌を損ねるかもしれない質問をしたいと
思います。聴衆の中には、その作品の一般的な録音とあまりにも違う演
奏速度を受け入れられない人もいます。とくに遅い速度は……。そのよ
うな聴衆に、あなたの速度の道理をどのように説明したらいいのでしょ
うか?
音にはそれぞれ必要とする長さがあり、音楽にはそれぞれの性格があり
ます。音は音楽の性格、コンサートホールの空間、演奏するピアノに
よって変わります。音の問題は空間の問題であり、その空間に対応する
音量の問題だと私は考えています。たとえば私は録音をするとき、空間
に対する自身の態度を変えます。私が最も気を配るのは、マイクにどの
ような音が取り込まれるかということだからです。ですから、録音する
ときの演奏はステージでの演奏ほど自由ではなくなります。とくに速度
……、実は私はこの言葉が嫌いなんです。私にとってのそれは、単なる
「速度」(speed)はではなく、「脈動」(pulse)という意味が含まれてい
ます。生の演奏では、音の長さや空間の中での伝達を、より自由に、よ
り多彩に、より個性的に、より生き生きと表現できます。録音スタジオ、
コンサートホール、屋外のステージ、場所によって演奏は変わり、それ
ぞれに理由があります。
グールドがコンサートホールを嫌ってスタジオに籠もったのと逆に、ポゴレリッチはスタジオに籠もるのが嫌いのようだ。だが相反するようでいて、この2人には何か共通したにおいが感じられる。
ステージに登場したポゴレリチは深々と頭を下げる。楽譜を持っていて譜めくりの女性が左横に座る。ショパンは表紙が灰青色なのでヘンレだと思われる。
バラード第2番。出だしのAndantinoの部分は、やや遅いかもしれないが、まぁこんなもん、という感じでそんなに違和感はない。この部分は単調で平穏な繰り返しのように思えて、ところどころに悪魔のひそむ構成。この不安感の醸しだしかたはショパン特有のものだ。
Andantino後半になって、繰り返しのリズムだけだった左手がいままでと異なる低音の旋律を弾き出す。その部分がぐぐっと強調される。おいおい、と思うのだが、なるほどこれがポゴレリチか、とも思う。
狂乱の嵐のプレストになってもめくるめく速さはなくて、でも確実に右手は速いパッセージ。そして左手から出てくる重量感がすごい。全体の重心が低くなっているのが感じられる。それはスケルツォ第3番でも同じであった。重く沈んで、低いほうに傾いていく音。
予習していったスケルツォは簡単に蹴散らされてしまう。CDに収録されているのは、優れたテクニックだけれど、ごく普通のスケルツォだが、このナマ演奏のスケルツォはまるで異なる。ともかく低音部の音が優勢で、私が聴いていた席は左のほうなので、高音は指向性があるので、こちらに届かないのかもしれない、と思ったほどである。
バラード第2番とスケルツォ第3番は1839年に連続して作られた曲で、だから作品番号も38、39と続いているが、そのバラード第2番はシューマンに献呈されている。ということで、2曲のショパンの後にシューマンというプログラム・ビルディングになっているのだろう。シューマンの《ウィーンの謝肉祭の道化》は1839年から1840年にかけて作曲されているので、歴史的時間におけるシューマンからショパンへの応答でもある。
全5曲から構成されているが、Allegro (変ロ長調)、Romanze (ト短調)、Scherzino (変ロ長調)、Intermezzo (変ホ短調)、Finale (変ロ長調) からなり、変ロ長調という調性が優勢である。
この曲をポゴレリチは重く強く、まるでベートーヴェンのように弾いた。シューマンはまだ過小評価されているとポゴレリチは述べているがそれは全くその通りだと思う。
シューマンの音はベートーヴェンより後発である分、より緻密であり、この曲でも十分に幻想的である。それにこの曲のサブタイトルは 「幻想的絵画」 である。
休憩後のモーツァルトも、暗鬱で不安で、ときとしてベートーヴェンのような激情を伴った曲。このハ短調の幻想曲K475は4曲ある幻想曲の最後、第4番である。ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K457とのセットで演奏されることが多いというが、K475の後にパートナーのK457は来ず、かわりのようにラフマニノフのソナタが続くプログラムにしている。たぶん、わざとそのようにしたのだろう。そしてK457は、あのK310と並ぶ短調のソナタなのである。楽譜はウィーン原典版を用いていた。
モーツァルトの幻想曲は自由に展開してゆくといえば聞こえがいいが、ある意味奔放でエキセントリックであり、もっといえばメチャクチャだ。こういう曲構造はモーツァルトの当時許されたのだろうか。
こうしたモーツァルトのアヴァンギャルド性に影響を受けたのがベートーヴェンであり、そしてそのベートーヴェン的テイストだったのが、シューマンの《ウィーンの謝肉祭の道化》であり、というふうにポゴレリチは関連づけて考えているのだろうと想像する。
幻想曲K475は5つの部分に分かれているが、それは《ウィーンの謝肉祭の道化》の5曲と呼応する。もちろん、共に幻想的という意味でも。
だからといってポゴレリチの演奏は全てが暗く重いわけではない。シューマンやモーツァルトでは、ごくやわらかで明るく、どんな影も作りえないような瞬間が何度かあった。ショパンの2曲では低音のパルスが支配的で高音が聴き取りにくかった傾向があったが、シューマンやモーツァルトではバランスは改善され、しかも鍵盤を強打しても音が割れることはない。だからといってモーツァルトの明るさは天使のような無垢の明るさではなく、瞬間的にあらわれる陽光のように、なにかの錯覚なのかもしれないという漠然とした疑問を残して通り過ぎる。
圧倒的なのはフォルテシモとピアニシモのコントロールで、いきなりピアニシモになると、弱音器でも付けているか、それともヴォリュームを突然絞ったかのようにフッと音量が落ちる。もちろんアコースティク楽器なのだからそれはあり得ない。おそろしくダイナミックレンジが広い、そんな感じだ。
最後に置かれたラフマニノフのソナタ第2番は、第2番という番号も変ロ短調という調性もショパンと同じだ。おそらくショパンへのラフマニノフのリスペクトが反映されているように思える。
そしてプログラム的に見れば、前半のシューマンの変ロ長調に対する変ロ短調という対比でもある。
ラフマニノフに対するポゴレリチのピアニズムは、やや今までとは異なっていて、メカニックな表情があらわれるときがあった。ただそれはラフマニノフが最も近代曲であるための印象に過ぎないのかもしれない。低音部を強奏するのは同じであるが、ラフマニノフの場合はそれがより自然に聞こえる。
かつてのラフマニノフ流行の際のピアノ・コンチェルトは、不倫ドラマのBGMのような趣があったが、そうしたラフマニノフはやっと死に絶えたように思える。
アンコールの《悲しきワルツ》は最近、やや食傷気味のシベリウスであるが、ここでもポゴレリチは長い持続力を途切れさせないままで、その遅過ぎるといわれるスピード感を貫いていた。それにアンコールで《悲しきワルツ》という選択は尋常ではない。
比喩としておかしいかもしれないが、大型バイクでもっとも難しいのは、ごく低速で走行することである。ポゴレリチの遅いといわれる演奏速度にはそれと似通った意味合いがある。高速で弾き飛ばせばいいところを緻密に正確に弾くのには勇気がいる。
演奏会終了後のサイン会は長蛇の列だったが、ポゴレリチはまた変なサッカー選手みたいな恰好に戻っていて、サインを書き飛ばしていた。サイン会は重要ですよね。確実な収入源だし。
〈追加〉
昨夜の読響とのラフマニノフ、残念ながら行けなかったが、ツイッターを見てると意外にもそんなにボロボロではない。まぁ、音楽なんてそんなものかも。ダークサイドのラフマニノフというコメントには笑いました。
Ivo Pogorelich Complete Recordings (Deutsche Grammophon)
Ivo Pogorelich/Chopin: Ballade No.2 (Chopin Competition 1980)
https://www.youtube.com/watch?v=wTpeMgEs0CU
サントリーホールのパイプオルゴール
https://www.youtube.com/watch?v=KXNBRPV_teI
アーティストとして
カッコイイ方なんですね
by (。・_・。)2k (2016-12-14 03:03)
とてもヴィヴィッドなコンサート評にして音楽論ですね!分かりやすく、一気に読ませていただきました。ポゴレリチのインタヴューも実に興味深く、「脈動」という音の捉え方は今後音楽を聴く上で大きな視点になりそうです。グールドとの共通点に対するご指摘、さらにショパン、ベートーベン、シューマン、ラフマニノフら、馴染み深い作曲家に関しても、次々と(へえ、なるほど)と考える機会を与えてくださってます。リンクくださっている動画、これからじっくり愉しませていただきます! RUKO
by 末尾ルコ(アルベール) (2016-12-14 07:54)
>> (。・_・。)2k様
やっぱ、カッコイイですよね〜。(^^)
自分のポリシーを持ってるのは重要です。
by lequiche (2016-12-14 12:55)
>> 末尾ルコ(アルベール)様
ありがとうございます。
評論家の先生がたは、どーせボロボロに貶すんでしょうから、
少し擁護してみました。(^^)
グールドだってピカソだって
現役のときはボロボロに言われてましたし。ソンナモンデス。
リンクしてある動画はかの有名なショパン・コンクールの映像で、
つまり彼のスタート時点での演奏で、現在の弾き方とは随分違います。
でも 「冷静な不機嫌さ」 みたいな雰囲気が色濃くて、
それはポゴレリチの音楽に対する真摯さの現れだと思うんです。
by lequiche (2016-12-14 12:56)
ああ、アンコールだけは見てみたかった。
by gorge (2017-01-03 16:04)
>> gorge 様
私にとっては異常に良い席だったので、
(しかも私の隣席は売れ残って空いていました ^^)
ポゴレリチの手の動きがよくわかりました。
普通の人はああいうふうには弾けない、ということにおいて、
その強靱な指使いなど、グールドに通じるものがあります。
また最近なぜシベリウスかということも
なんとなくわかりました。
by lequiche (2017-01-04 00:52)