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川上未映子『黄色い家』その2 [本]

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川上未映子『黄色い家』2023年04月19日 のつづきです。

『ダ・ヴィンチ』2023年4月号はこの『黄色い家』をメインとした川上未映子特集だったので、ざっと読んでみた。
作者へのインタヴューのなかで女4人で暮らすというシチュエーションは『細雪』の四姉妹の影響というか、谷崎へのオマージュであることがわかった (前記事で想像していた通りである)。そして『細雪』は 「戦中の時代に対するカウンター」 だとも言う。
そしてもうひとつ、完全に見落としていたことがあって『黄色い家』とはゴッホがゴーギャンと暮らした黄色い家をも意味していると言う。「やがて破綻する共同生活」 という点においてもそれはまさに黄色い家だったのだ。ゴッホ/ゴーギャンという男/男の生活ということに対しての花/黄美子の女/女の暮らしとの対比だと考えてもよい。

そして川上は 「花のことも、私はかわいそうだとは思わない」 ともいう。「与えられたもののなかから、自分で選びとった人生を走り抜けている人をジャッジするなんて、誰にもできないんじゃないのかな」 と規定している。ある意味、突き放している。
面白く感じたのは、この次々に起こる事件とその結果を 「ドストエフスキーの小説みたいなドタバラ劇」 のようだと言っていることで、つまりドストエフスキー作品への評価として 「悲哀に満ちてはいるけれど、全編とおして登場人物がドタバタ走り回っている姿が、どこか滑稽でおもしろい」 と指摘しているのだ。

この『黄色い家』に対して何人かの識者の感想が載っているのだが、その中ではchelmicoのRachelの言葉が鋭い。「黄美子さんも面白い人だったな。実はずっと何もしていない。物語の中心にいるようでいて空洞。人を映す鏡なんですよね。黄美子さんをどう思うか、読者も問われてる気がしました」。
そうなのだ。疑似四姉妹の長女にあたる黄美子はまだ未成年の3人の感性とは全く異なっている。年齢が離れているというだけではない。それは経験値によるものなのか、それとももって生まれた性格なのかはわからないのだが、その黄美子のスタンスをRachelは 「空洞」 と表現していて、まさにその通りだと思うのだ。虚無とも違うし悲哀でもない。そうした感情的な形容とは無縁の、いわばブラックホール的な、なにかわからないうつろな部分を黄美子は持っているのだ。それをどのようにとらえるのかがこの作品理解のための鍵だと思う。ひとつの可能性として、黄美子と花の母親・愛との関係性が、単なる水商売の同業者ということだけで理解してよいのかという疑問が残る。
鴻巣友季子は 「「何々障害」 といった名前は出てこないけれど、黄美子さんは生きづらさを抱え、そこにつけこまれてきたようだ」 と書いている。それは勘違いかもしれないけれどあえて言ってしまえば、ドストエフスキーの『白痴』的聖性なのかもしれない。

それともうひとつ、この小説の特徴として、主人公である花に、恋愛感情のような意識が全く欠けていることをあげなければならない。「私はあまり性愛を書くことに意識が向かない」 と川上未映子は述べている。
普通の小説だったら (果たして何が普通かという問題があるけれど)、たとえば悪事の手引きをする韓国人・映水 [ヨンス] など、登場してくる男性と主人公との恋愛に至るような設定がなされたりするはずだが、そうしたことが全く欠けている。そして映水も、カード詐欺の元締めであるヴィヴィアンも、魅力的なキャラクターなのだがわざとのように何かひとつ、色彩が失われている。
それは主人公である花にも黄美子にも同様に言えるのだが、彼女たちの容貌や服装など、具体的な印象を結ぶための手がかりがなんとなく欠けていて、これはおそらく意図してそうした抽象性に偏らせた描きかたをしているのだと思う。

作者は花のことを、悪事をするにしても何に対してもまじめだと規定する。そのまじめさとは、たとえば村上春樹へのインタヴュー本である『みみずくは黄昏に飛びたつ』のときの、村上作品の驚異的な読み込みをして準備をした末にインタヴューの臨んだまじめさに通じている。
責任編集をした『早稲田文学増刊 女性号』に対しても、この本を買ってくれるのは 「ある程度、意識が高く、文章を読む素養のある人。それがいけない、というわけではないけれど、いわゆるフェミニズム文学からは貧乏な女性が除かれがちだということは、知っておきたいです」 と言う。

それは何も文学に限らない。世間一般的に、それは政治家やマスコミがとらえようとしている平均値としての人々——たとえば収入にしても生活状態にしても、それが最大公約数でありマジョリティであると仮想しているクラスの人々とは、実はごく限られた上層の階級に所属している人々に過ぎない。この国の本来の平均値は、彼らエリートが仮想している平均値よりずっと低いのである。
この作品に描かれているカード犯罪は、確かに犯罪ではあるのだけれど 「富裕層からお金を奪うのは、略奪ではなく再分配だ、という考え方が、ないとも限らない」 と言われてしまうと思わず賛同してしまいそうになるのである。


ダ・ヴィンチ 2023年4月号 (KADOKAWA)
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川上未映子/黄色い家 (中央公論新社)
黄色い家 (単行本)




川上未映子/すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)
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末尾ルコ(アルベール)

>「富裕層からお金を奪うのは、略奪ではなく再分配だ、という考え方が、ないとも限らない」

本当に実在したのかは知りませんが、昔の義賊の考えがこれに近いでしょうか。富裕層に対して多くの庶民は(やつらずるしてるんじゃないか)という疑念が常にあり、加えて自分らがいくら努力しても浮遊にはなれないという社会的地位の固定化に対しても常に憤懣を持っているところから怨念のような感情が鬱積していくのでしょうね。
あるいは生活レベルだけでなく、社会を上から下ろしているという幻想を持っている政治家やマスコミの人たちの「平均値」の観念は、「知的レベルの平均値」についても見誤っていることが多いのだと思います。
『早稲田文学増刊 女性号』の川上未映子の言葉も、そうしたものを読む人は日本社会の中のごくごくマイノリティであることを、例えば早稲田文学周辺の人たちの日常の意識の中にはないのではないかという問題提起なのかなという気もします。いわゆるインテリ層って、往々にして仲間内だけで自足してしまいますから。

>「与えられたもののなかから、自分で選びとった人生を走り抜けている人をジャッジするなんて、誰にもできないんじゃないのかな」

これもいい言葉ですね。ただ今時間が圧してきましたので(笑)、続きはまた後日書かせていただきます。      RUKO

by 末尾ルコ(アルベール) (2023-04-30 10:36) 

バク・ハリー

勝手な想像ですが、是枝裕和監督『万引き家族』とか、ポン・ジュノ監督『パラサイト 半地下の家族』に通じるものを感じました。是枝監督が好きそう、映画化しないかな。川上作品はまだ読んだことないのですが、『黄色い家』読んでみたくなりました。
風水の 「黄色は金運」 にこだわる人なんて、実際にたくさんいそうで、ウケそうな設定ですね。元・占い芸人(今は作家らしいですが)ゲッターズ飯田の占い本や、YouTubeチャンネルも人気あるらしいですから。
ちなみに、講談社文芸文庫『鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集』において、編者であるスラブ文学者・沼野充義氏は「ここに収められた初期から中期のドストエフスキー作品の基調ともいうべきものは、延々と続く形而上的議論の底知れぬ深みに下りていく手前で踏みとどまり(いったん呑み込まれたら這い出すことができないような深みがあることはすでに予感されるとはいえ)、あえて表層で戯れ続けているような感じさえ与える過剰な言葉と自意識のドタバタ劇場であって、ドストエフスキーは明らかにユーモア作家でもあった。」と書かれています。
by バク・ハリー (2023-05-01 12:42) 

lequiche

>> 末尾ルコ(アルベール)様

元・ジャパンのデヴィッド・シルヴィアンは
イギリスの比較的低階層の出身だとのことです。
イギリスには厳然としたヒエラルキーが存在していて、
逆にそうした社会的な背別への対抗意識が
彼の創作意欲のひとつとなった可能性があります。
川上未映子も同様で、といっても赤貧というほどではないですが、
集合住宅で育ち、自分は大学へは行かず、
弟の学費を稼ぐために水商売で働いていたという境遇があります。
シルヴィアンや川上未映子はそうした境遇にもかかわらず
特有の美学を形成して今があるというところに
大変シンパシィを感じます。

「上から目線」 という言葉・表現は常に存在していて、
政治家や大企業で働く人や公務員などは
自分の生活レヴェルが標準的だと思っているのかもしれませんが
それは間違いだということです。
でも彼らは上から見下ろすだけで理解をしようとはしません。
なぜなら他人の痛みはわからないからです。
by lequiche (2023-05-02 15:06) 

lequiche

>> バク・ハリー様

是枝裕和やポン・ジュノ、まさにその通りです。
映画化はちょっと難しいかもしれませんが、
いま、川上未映子は勢いがありますからね〜。
あくまでも私個人のイメージなんですが、
黄美子さん役はヒコロヒーにやって欲しいんです。
読んでいるときすぐに、あ、この人、
ヒコロヒーだよなって思ってしまったので。

私が川上未映子を読むようになったきっかけは
小説ではなくて『おめかしの引力』という
ファッションに関するエッセイなんですが、
つまり話題が下世話だったりするところに
案外本音があったりします。
そのときの感想記事です。
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2016-05-31

ドストエフスキーのユーモア小説集、
全く知りませんでした。あぁ、沼野先生ですか。
なるほど、そうですね。

# 延々と続く形而上的議論の底知れぬ深みに
# 下りていく手前で踏みとどまり

すごいすごい。納得です。(^^)
by lequiche (2023-05-02 15:07)