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クラシック音楽館・N響定期のピリス [音楽]

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Pires and Blomstedt (facebookより)

6月10日、日曜の夜、《クラシック音楽館》のピリスを観た。
曲目はベートーヴェンのコンチェルト4番。これだけ観るつもりだったのに結局番組の最後まで観てしまった。

今回の最後のピリスといわれる一連のコンサートの中で、N響定期に組まれたコンチェルト。指揮はブロムシュテットである。曲目はPコン第4番と交響曲第4番。4番つながりであるが、この2曲はop.58とop.60であり、同時期に作曲された作品である。その間にはさまっているop.59は3曲のラズモフスキーであり、さらにいえばop.57はAppassionata、op.61はヴァイオリン・コンチェルト、これらはすべて1805年から1806年にかけて書かれた。まさにベートーヴェンのとんでもなく充実していた時期の作品群である。

4月20日に録画されたものだが、NHKホールに緊張感が満ちているのがわかる。曲間のざわめきや咳も極小であり、「やればできるじゃん」 と思ってしまった。NHKホールは良い。このようにコンパクトにまとまったサイズのオーケストラも好きだ。大き過ぎるオケは散漫なだけ、というのは保守反動な個人的好みでしかないのだけれど。それと私はサントリーホールが嫌いなので、なぜならステージの奥に客席があるからで、人の動きが鬱陶しくて仕方がない。もっとも美しく響く箱のなかから音が出てくるようなNHKホールのステージの形状にうっとりする。

録画で私が注視していたのはピリスの左手である。少し前のブログに書いたスーパーピアノレッスンのピリスのテキストで、調律師の大里和人はピリスの音の出し方について書いている。
「一音一音のすべてを鍵盤の深さの底 (または底から1mmくらい上) で音を出し、音色を作り、そこの個所を音の出るタイミングとしている」 と指摘し、また 「鍵盤に指が触れてから底に行くまでのスピードのコントロールが的確で飛躍した音程や速いパッセージの場合、腕、体がすごい速さで移動し、指が鍵盤の底の音の出るタイミングに到達するべく準備を終わっている」 と観察する (p.143)。
重要なのは 「鍵盤の底の音の出るタイミング」 という形容である。ピリスは重要な音を弾くとき、決め打ちのように確実にその鍵盤をヒットする。指の角度も自在であるが、この角度からのほうが美しい音が出るという意識的な角度をとっていることが多い。特に左手をリズムの中で確実に動かそうとする強い意志を感じた。そういうふうに今まで見ていなかったので、あらためて注意していると、なぜピリスはここでこういうふうに指を持って行くのか、というアクションの理由が納得できるのである。
尚、大里和人のピリスとの最初の出会いは最悪で、この人とは二度とやるものかと思ったのだという。ところがあるきっかけで、それは強い信頼関係に変わったとのことで、世の中なにがどうなるかはわからない。

第4番はピアノのソロから始まる。5小節だがその最初のリズムはいわゆる運命動機である。延々とオケが鳴ってからおもむろにピアノが入って来るというコンチェルトの常套からすると、えっ? と思わせるのがこの曲の新機軸だったのだろう。4番は5番に較べると地味で特徴がないように思えていたが、ピリスが弾くと全然今まで聞こえていなかったものが聞こえてくる。メカニックにも思える無窮動のような細かな音の流れの中に鈍く光る美学が浮かび上がる。決してモーツァルトのように明るくクリアになることはない。
第2楽章は第1楽章のスクエアさからすると一転して緩いが、第1楽章の複雑にブレながら連続する音とは対照的に気まぐれでいて端正である。アタッカで第3楽章に入ると鈍かった光が次第に色彩感を帯びるように変化してゆく。精緻な金属で組み上げられたような音にはひとつも無駄な音が存在しない。

アンコールはベートーヴェン最後のピアノ曲であるバガテルop.126の第5曲 Quasi allegretto であった。ベートーヴェンにおける最盛期と最晩年の対比は、そのままピリスとブロムシュテットの昔と今の対比でもある。話が前後してしまうが、番組の最後に同じ2人による1992年のモーツァルトの録画を持ってきたNHKのプログラム・ビルディングの周到さに痺れる。お涙頂戴過ぎると非難しておくことにする。

ブロムシュテットの交響曲第4番も素晴らしかったが長くなってしまうので書かない。ブロムシュテットは至宝である。

インタールードのように挟まれたピリスのレッスンの様子は、ひとつの和音を何度も生徒に弾かせるシーンに、いかに鍵盤を使うかというピリスのこだわりを感じた。ピリスの作り出す音は 「打鍵する」 という言葉から感じられるようなパーカッシヴな音ではないのだ。
後進に教えなければいけないということは義務なのだ、というピリスの言葉が強く胸にささる。sourceとcreativityという言葉にも納得してしまう。最近はホールにあるピアノがよく鳴るようになったという言い方は皮肉であって、つまり鳴り過ぎてしまうという否定的なニュアンスを秘めている。
音はbodyで出すもので、そして人によって身体は違うので、自分の音を出す方法を模索しなければならないのだという。だからピリスは決して方法を強要しない。それはスーパーピアノレッスンのときから一貫している。
コンクールや音楽ビジネスに対する弊害について説き、誰が上手いとかヘタだとかいうのとは無縁に音楽をすることの重要性について語る。自分のほうが他人より優れていると思ったら、そのとき成長は止まってしまうともいう。

そして最後に放送された1992年のモーツァルトのコンチェルト。ピリスもブロムシュテットも若いが、作り出される音は現在の2人につながる不変の音楽性を持っている。第17番K453はバルバラ・ブロイヤーというモーツァルトの弟子のために書かれた曲である。第9番K271のジュノームに似て、ピリスに最もふさわしいモーツァルトである。
私はピリスのもっと若い頃のエラートのコンチェルトを偏愛していて、それはグシュルバウアー/グルベンキアンの明るい音であり、レコードもCDもあるのだが、このライヴが録られた時期もこれはこれで良いなと思ってしまった。つまりK453でいえばアバドとのDGの1993年の録音である。いままでどちらかというと毛嫌いしていたDG期の、暗いと感じていた音が、そうではないと思えるようになってきたのだろうか。


放送ではK453は第2楽章からだったので、当日の第1楽章からの動画と、ピリスではないがコヴァセヴィチのバガテルをリンクしておく (コヴァセヴィチって誰? と思ってしまったのはナイショである)。


Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.17&21
(Deutsche Grammophon)
Piano Concertos 17 & 21




Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.9&17
(ワーナーミュージック・ジャパン)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》&第17番




Stephen Kovacevich/Beethoven: Bagatelle No 5 in G major, Op 126
https://www.youtube.com/watch?v=7ye7evxEeHs

Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.17, NHK Symphony
https://www.youtube.com/watch?v=K5OAcc9AIto
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