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ゲイリー・ピーコック/マリリン・クリスペル《Azure》を聴く [音楽]

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マリリン・クリスペル (Marilyn Crispell, 1947-) はフィラデルフィア生まれのジャズ・ピアニストである。ニューイングランド音楽院ではクラシックを学んでいたが、ジャズに目ざめたのはジョン・コルトレーンを聴いたことがきっかけであるといわれる。
私がクリスペルに注目したのはアンソニー・ブラクストンの英Leo盤のクァルテットでの演奏である。アヴァンギャルドなジャズでありながら、このクァルテットには親密な暖かさのようなものが漂っていた (そのことはすでに書いた→2013年08月06日ブログ)。

ゲイリー・ピーコック (Gary Peacock, 1935-) はキース・ジャレット、ジャック・ディジョネットとのグループ〈スタンダーズ〉で有名だが、ジャズ・ベースの重鎮である。

そのクリスペルとピーコックのデュオによる作品、独ECM盤の《Azure》を聴く。2013年のリリースだが、レコーディングは2011年1~2月のニューヨークである。モノクロの黒っぽいジャケットであるが、中のパンフレットの裏面は真っ赤である。

アルバムの全体のトーンは静謐で、アヴァンギャルドなアプローチの曲もあるが、一貫して理知的だ。指を動かすことの練習曲のような〈Patterns〉から始まるが決して難解ではなく、ピアノの音がクリアで、休符とのバランスが絶妙である。頂上までなかなか上がりきらないもどかしさをわざと楽しんでいるかのような、それでいて内省的なテイストを感じることで、いままでのクリスペルとやや異なる印象を受ける。それはベースとのデュオというフォーマットにあるのかもしれない。
私の感じたアルバムのピークはtr5から7までの3曲、〈Waltz After David M〉〈Lullaby〉〈The Lea〉である。〈Waltz After David M〉はペダルを多用したイントロに続いてテーマが始まるが、うっすらとしたひなたとひかげの間を、微妙に使い分けて彷徨うクリスペルの音に、しっとりと寄り添うようなベースが深い奥行きを醸し出す。ベースソロがあり、それに続くクリスペルの音はクリアでありながら調性の谷間を漂っているかのようだ。シェードをあげてもそのまた向こうにシェードが続く、淡く色づけされた風景が続く。
〈Lullaby〉も暗い光の中に何か見えそうな気がして、でもことごとく裏切られてしまうような禁欲的なピアノが続く。後半、ピアノの長い和音の上を堅実そうに歩くベース、そしてピアノとベースのアブストラクトな6音ずつのユニゾンの繰り返しが印象的だ。
〈The Lea〉もベースソロから始まるが、ピアノが入って来ると突然、空気は叙情的に変わってゆく。アルバムの中で最も感傷的なテーマをクリスペルが弾いて簡単に終わる。

アルバムには〈Blue〉という曲もあって、でも最後にアルバムタイトルである〈Azure〉という曲もある。blue も azure も青だがニュアンスが少し違う。藍は藍より出でて藍より青し、みたいな成句を思わず連想してしまう。
azure は言語によって azur だったり azul だったりするが、その語源はトルキスタンで産出されるラピスラズリ (lapis lazuli) の色からである。

     *

ECMのサイトに、アルバムタイトル曲〈Azure〉があったので下記にリンクした。
その他にも、サンプルとしての動画を探していたが、その時、Vision Festival 20というイヴェントでの動画を見つけた。Vision FestivalはArt for Artという団体で主催されているフリー・ジャズのフェスティヴァルで、2018年が第23回となっている。
したがって、クリスペルが出演したVision Festival 20は、2015年ということになる。ブラクストン・クァルテットでもドラムを担当していたジェリー・ヘミングウェイとのデュオであるが、後半のヘミングウェイの木琴類でのインプロヴィゼーションが刺激的である。

Vision Festival 20の動画にはイングリッド・ラブロックの動画などもあって、日本と違ってアメリカではまだアヴァンギャルド・ジャズも健在なように思える。女性奏者はアルトよりテナーを持っているほうがインパクトがあってカッコいい (もっともラブロックは身体が大きいほうなので普通に見えてしまうのだけれど)。Reiも言っていたが、小さい女性が大きい楽器 (Reiの場合だとギター) を弾いているほうが、弾きこなしている感があってカッコいいのだ。いつだったか、御茶ノ水駅で、おそらくチューバのケースをかついでいる女子高生がいて、ステキ過ぎると思ってしまったのである。


Gary Peacock, Marilyn Crispell/Azure (ECM)
Azure




Gary Peacock, Marilyn Crispell/Azure
http://player.ecmrecords.com/peacock-crispell---azure/media

Marilyn Crispell & Gerry Hemingway
Vision Festival 20, Judson Memorial Church; New York, NY: July 8, 2015
https://www.youtube.com/watch?v=cU6fnDPFPwQ

Ingrid Laubrock Sextet
Vision Festival 20, July 11, 2015
https://www.youtube.com/watch?v=UyXNymrlXVw

Arts for Art HP
https://www.artsforart.org
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爽やかさと空虚さ ― 大塚愛《LOVE PiECE》を聴く [音楽]

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大塚愛 (realsound.jpより)

せっかくの土曜日だというのにくだらない用事があって、時間を浪費してしまった。さらにちょっとしたイヴェントに行ってみたのだが期待はずれだった。やっと解き放たれた初夏の宵闇、季節は一番爽やかなときなのかもしれない。
近くにあるコミック主体の古書店。中に中古CD売場もあり、あまり目的もなくそうした棚を見るというのは滅多にない空虚な時間だ。空虚さこそ愛おしい。日々のなかで、意味づけされた時間が多過ぎる。

大塚愛の《LOVE PiECE》があったので買ってみる。2007年の4thアルバム。この、全部にリミッターがかかっているような楽曲は快適なのか眠気を誘うように作られているのか、それとも鈍磨した感覚にこそ優しい音なのかもしれない。〈Mackerel’s canned food〉がポップでいい。同じようなノリの〈PEACH〉が続くのは、その後、突然のように出てくる〈クムリウタ〉の冒頭の音数の少なさとデッドさの落差につなぐための伏線なのだ。

大塚愛はたまに買ってみるという程度の、雑で不真面目なファンでしかない私なのだが、でも私にとっての大塚愛は〈金魚花火〉だ。そのやや意味不明な固有名詞のタイトルだけでなく、そのダウンなイメージは中島みゆきやCoccoのように激烈でダークではなく、もっとずっと淡くてうっすらとした不安感でしかない。なにごともないのかもしれない。なにごともないのかもしれないゆえに、そうしたうっすらとした心にだけフィットする。

〈金魚花火〉にはPVがあって (ショートフィルムと名づけられている)、上長瀞駅のロケーションが鉄道マニアにも人気があったりする。そんなに大きなことは起こらない。だがいつもなにか知らない喪失感が漂う。大塚愛の短調の曲はいつもそうだ。

昨年のReal Soundのコラムに彼女の影響を受けた曲というのがあって、日本の曲ではKANの〈愛は勝つ〉と美空ひばりの〈真っ赤な太陽〉が選ばれていたが、好きな洋楽の選曲が目を惹く。The Cardigansの〈Carnival〉、Kylie Minogueの〈Can’t Get You Out of My Head〉、Boys Town Gangの〈君の瞳に恋してる Can’t Take My Eyes Off You〉(オリジナルのフランキー・ヴァリではなく)、The Monkeesの〈Daydream Believer〉。このセンスがいかにも大塚愛らしくていい。
先にあげた〈Mackerel’s canned food〉にはそうしたポップスからの音の影響があるように思えてしまう。

リストを見ていたら渋谷のタワーレコードでカイリ・ミノーグの白いジャケットのレコードを買ったことがあるのを思い出したのだが、たぶん12inchシングルなのだけれど、それが何だったのか忘れてしまった。

近くに謎の古書店があって、もう10回くらい行っているのだがいつもclosedしていて入れたことがない。でも店をやめてしまっているわけではない。開いているときもあるらしいのだが、そのときには時間がなくて入れないのだ。まるで筒井康隆の不条理小説のようで、このままずっと入れなかったらそれはそれで面白いのかもしれない。


大塚愛/LOVE PiECE (avex entertainment)
LOVE PiECE(DVD付)




大塚愛/金魚花火 (live)
https://www.youtube.com/watch?v=B3f7c-m_YRA

大塚愛/恋愛写真 (live)
https://www.youtube.com/watch?v=Dccv85TarHs
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サルヴァドールの夏、impermanenceについて — ピリスのスーパーピアノレッスン [音楽]

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Pires and Argerich (dwutygodnik.com: Chopin i jego Europa 2012記事より)

スーパーピアノレッスンはNHK教育TVで2005年から2010年頃まで放送されたピアノレッスンの番組である。スーパーという名前の通り、有名ピアニストが講師となり、比較的レヴェルの高い生徒に教える様子を映像化していたのだが、単純にピアノを学ぶ番組というよりは、有名ピアニストのテクニックの実際を知るということに比重が置かれていたのかもしれない。この番組を見て、ふんふんなるほど、と即座に参考にできる視聴者 (ピアニスト志望者) はそんなにいなかったのではないかと思う。

最も評判になったのはジャン=マルク・ルイサダのショパンのレッスンであり、この番組によってルイサダの日本での知名度が著しく上がったのは確かである。
2005年から2006年にかけて、講師のピアニストはアントルモン、ルイサダ、トラーゼ、ベロフ、ダルベルトと変わって続いたが、再放送するようになったので、一度終わったように思えた。だがその後復活して、2008年に放送されたのがマリア・ジョアン・ピリスによるレッスンであった。

ピリスのレッスンはそれまでの方式――スタジオにピアノを2台並べて、生徒に弾かせそれに対して講師が指導するというかたちではなく、ややルーズで、毛色の変わったレッスンであった。
その放送があったときからすでに10年、当時のテキストをあらためて読み直してみると、いろいろと面白いことが書いてある。つまり当時は、そんなにまじめに読んでいなかったということに他ならない。

レッスンが収録されたのはブラジルのサルヴァドールにあるピリス所有の施設である。サルヴァドールは海に面した都市であり、収録をしたのは12月の1週間だということだが、ブラジルの12月は夏であり、海に近いため湿度も高く、また外気とは隔絶した環境のスタジオとも異なるため、かなり悪条件であったという。放送の記憶として、なんとなく気怠いような雰囲気が漂っていたのを覚えているが、それはブラジルの暑熱がこちらにも伝わって来たからにほかならない。
だがそうした環境でレッスン、というよりピリスの言葉にしたがえばワークショップをすることに意味があるのだと彼女自身考えていたのである。そしてそういう環境での収録だったらやりましょう、というピリスの申し出に対して、それをすべて了解して実行してしまった当時のNHKはちょっとすごい。
それはある意味、ピリスのわがままであり、だがそれは真摯な音楽探究のための主張としてのわがままなのだ。

解説文で伊能よし子は、若い演奏家に対するピリスの視点を書き取っている。

 「最近の若い演奏家はコンクールで優勝して名が出ると、周囲がちやほや
 するから自分は特別なんだという気持ちになってしまう。演奏は単なる
 ビジネスになって商業主義に振り回され、早い時期に自信を失って音楽
 から離れてしまう」 (テキストp.8)

そしてピリス自身も若い頃、そのようにちやほやされスター扱いされたのだが、

 そうされればそうされるほど、彼女の心は重くなっていった。自分を特
 別だと考える、そのおごりが演奏に表れてしまうからだ。(p.8)

というのである。
ピリスの考え方は求道的であり禁欲的なのかもしれない。ある時期から彼女は、あまりメイクもせず、ドレッシーな服でなく天然素材のごく地味な服をステージ衣装とし、気張らない精神で音楽に対峙しようと思うようになったのである。

ピリスのこのテキストの楽譜には他の講師のような書き込み (色文字で印刷された注意書き) がない。ピリスは楽譜には書き込みを一切しないというのだ。それは作曲者に対するリスペクトという面もあるのだろうが、なにより 「自分が練習したことにさえ縛られないために」 (p.11) 楽譜には書き込みをするべきではないというのである。
楽譜に何かの書き込みをするということは、その書き込みに縛られることにもなり、それに従っていつも同じように弾くことはルーティンワークとなることに通じる。そのように演奏が固定化してしまうことはよくないとピリスはいうのだ。
たとえば、同じような繰り返しがあるときに、それぞれを少しずつ変化させて弾くのはよいが、でも、「いつも1回目をレガートで2回目をスタッカートで」 というように固定化して決めつけてはいけないというのである。それは本番のときに、演奏しながら決めるべきことであって、前もって決めておくのはつまり自由でなくなるから、というのだ。「演奏はあくまで一回限りのものであり」、状況に応じてそのときそのときで変化するべきものなのだとピリスは考えているのであろう。
そして作曲家が書いた楽譜をそのまま忠実に再現するのだけでなく、「楽譜に書かれた作曲家の意図を汲み取りながら、それを演奏家の中で消化し聞き手に伝える」 ことが音楽を演奏することなのだという。

同様にしてピリスはこのスーパーピアノレッスンで模範演奏を弾かなかった。ピリスは、教師と生徒は上下関係ではないと主張する。教師が模範演奏をするのは、生徒に 「このように弾け」 と強要しているのに他ならないからだ。「生徒は生徒の感じるように弾くべきだ。その道を、教える者があらかじめ限定させてしまってはならない」 とピリスは考える。
だから放送でピリスは、同じ曲でなく、同じ作曲家の同ジャンルの違う曲を参考として演奏したのである。たとえばスカルラッティのKk.455とKk.466を教材として用いたが、ピリスが模範演奏したのはKk.208のソナタであった。

ピリスの音楽観を最も端的にあらわしているのが impermanence (非永続性) に関する生徒との対話である。
ピリスは、音楽家は永続性、安定感を得ようとするが、安定感とは音楽を破壊するものである、という。人の生涯で確かなものは 「死」 ただ一つであって、その他はすべて非永続的で不安定である。だから非永続的であるということを受け入れることによって人間は自由になれるのだという。
安定感という表現は、楽譜に書き込むことによって生じてしまうルーティンワークを戒める考え方と同じだ。

なぜステージで演奏するのか、ということとその恐怖に対するピリスの述懐はこうである。

 ステージで演奏するときも 「恐れ」 を感じます。ベストを尽くせないこ
 とに対する 「恐れ」 です。私たちはみな、「聴き手にまったく受け入れら
 れないのではないか」 という恐怖をステージで味わうことを認めなけれ
 ばなりません。それにもかかわらず、批判されようと受け入れられまい
 と、演奏家にはステージで弾きたいという要求があります。自分の家で、
 自分ひとりのために弾いていたりしたくはないのです。そのためには、
 その恐怖を克服しなければなりません。(p.41)

音楽は人間が生きていくために必ずしも必要なものではない。音楽を聴かなくても人間の命がおびやかされることはない。ではなぜ音楽なのか。なぜ音楽を奏で、あるいは音楽を聴こうとするのか。ピリスはテキストの冒頭のマニフェストで、「芸術的感性が世界を変え得る力を持っていると信じることは、希望的観測なのかもしれません。しかし、この信念こそ、すべての根幹となる考え方なのです」 という。
NIFCでリリースされたピリスの2010年/2014年の録音を聴きながら、今これを書いているが、ピリスはそのワルシャワでのライヴで、ショパンのノクターン集の最後にcis-mollの遺作を弾いている。速度を抑え、暗い表情に満ちていながら、それは感情に押し流されない、むしろ端正なノクターンである。その演奏に、ピリスの到達した場所が明確に示されているように感じる。


Maria João Pires/Chopin: Piano Concerto, Nocturnes (NIFC)
http://tower.jp/item/4015227/
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Maria João Pires/Mozart: Piano Concerto No.23
Blomstedt, Berliner Philharmoniker
https://www.youtube.com/watch?v=HOyJHrVMFtg

Maria João Pires/Schubert: Impromptu D.935 n.1
https://www.youtube.com/watch?v=v7In59W-9bc

Maria João Pires/Chopin: Nocturne No.20
in C sharp minor, Op. posth.
https://www.youtube.com/watch?v=NGtF5OcSy7w
(上記CDとは別の音源です)
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半分、青い。面白い〜! [ドラマ]

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朝ドラ《半分、青い。》面白い〜!
ここのところ、私にとってはずっと不作続きで辟易して、ほとんど観ていなかった朝ドラ。久しぶりに楽しみな毎日なのだ。といっても最近になってこれはイイ、と見始めたのですが。

そもそも、楡野家、萩尾家というネーミングに笑ってしまう。なんといっても萩尾家です。鈴愛 [すずめ] という名前は、つい《カルテット》の世吹すずめを連想してしまうけど、それとはぜんぜん関係ないです。ひばり君の大空すずめを連想してしまった人、あなたは古過ぎる! でも、そもそも秋風羽織というキャラ設定が古過ぎるので、センス的にはつり合っているのかもしれないけど。

その秋風先生の作品とされているのがくらもちふさこ。こういう楽屋オチ風なのが楽しいです。
でも楡野っていう姓は、一見、大島弓子ふうなのだけれど、実際にはそうでもないっぽい。大島弓子のネーミングはもっとずっと破壊的です。御茶屋峠とか。楡野は北川的にオシャレですね。
秋風羽織のモデルはロン毛でサングラスということからみうらじゅんという短絡的発想もありますが、それは冗談として、マンガ家ではなくて、岩井俊二だとする説がかなり有力です。岩井俊二の映画に《四月物語》(1998) という作品があって、このヒロインが楡野卯月 (松たか子) です。松たか子の主演第1作です。
このへんが北川悦吏子の発想のもとになっているのかもしれない。やはり上京物語でもあるし、強引に意味づければ、「四月物語」 ってタイトルは大島弓子の 「四月怪談」 と 「いちご物語」 の合体でもあります (だからどうした?)。マンガ家ということでいえば『さようなら女達』っていうふうにも思えるけど、あれはさらっとしていながらかなり悲劇的だし。

サングラスということだけでいえば魔夜峰央ですが、それだと藤堂誠のキャラのBL的なテイストも合うけれど、でもちょっと違う。これからマライヒみたいな男の子が出てくればまた異なった可能性がでてきますが、ああいういまどきなゲイ風なのはやはりいまどきなのであって、結論としてはそうした複数のイメージの合体のように感じます。

北川悦吏子にとってはこうした時代って描きやすいのかもしれない。一番インパクトがあったのはピンクの電話という小道具で (本来ならもちろん 「ピンク電話」 というのですが、わざわざ 「の」 を入れてみました。まぁそんなことはどうでもいいとして)、ピンク電話と普通の公衆電話の違いとか、もっとさかのぼると、昔は電話の呼び出しとかあったんだよね〜、今から考えたらありえない、と思ったりします。

ここのところ、鈴愛のカケアミの話題がずっと続いていたので、つまりトーンを使わないで、あくまで手書きというこだわりが見られて、それは現代でも尾田栄一郎などがそうですが、その美しさはアナログへの郷愁であるとともに、手作業の衰退というか、器用さの衰退をも意味しています。
アナログレコード全盛の頃、秋葉原の某有名電気店では、購入する際に検盤というのがあって、店員がジャケットからディスクをさっと取り出して盤面を点検させてくれたものですが、今、そのような器用さを店員に求めることは不可能のような気がします。おそらく指紋をベッタリつけてしまうでしょう。日本人の器用さはことごとく失われつつあります (それでいてSACDのパンフレットの収納はあり得ないやり方ですが)。
この前のコメント欄に書いたのですが、楽譜には従来のアナログな書き方とコンピュータによるデジタルな方法とがあって、デジタルはいまだにデジタルくささがありますが、次第にその方向にシフトしています。私はデジタルのにおいが嫌いなので、古い楽譜のほうが好きです。改版するとデジタルになったりするので、それがいやなら今のうちに買っておかないと、と思うのです。それと、このカケアミのエピソードはシンクロしている部分があります。

ただ、鈴愛はサロペットを着ていたりするんだけれど、やはりそれは今の服であって、ディスコのシーンでも鈴愛の光沢素材のボディコンは洗練され過ぎていました。それは桐谷美玲のディスコ風景のCMと同じで、当時に較べると素材自体の品質が良くなってしまっているので、どうしても当時のダサさは出ない。これは仕方のないことなのでしょう。

そうそう、松たか子といえば《ラブジェネレーション》(1997) というドラマがあって、これは前作の《ロングバケーション》(1996) と同様、木村拓哉主演でヒロインだけを変えたいわゆる二番煎じものです。この中で、まだ若い松たか子がグレてギャルっぽい恰好をする場面があって、それを見ていて思いだしたのが萩尾の《この娘うります!》で、ドミが赤いドレスを着てファッションに目ざめる場面で、ドミの父親はオートクチュールのデザイナーなので、その服を 「安物のテトロン」 と非難する。テトロンっていうのがいかにも時代性を帯びていますが、テトロンはシトロンとの語呂合わせなのかもしれません (ドミのフルネームは、ドミニク・シトロンです)。
もっとも《ロングバケーション》はずっとDVDなどのメディアが出ていなくて、最近になってやっと発売されたらしいです。《この娘うります!》も今、本が出て来ないので参照していません。ですから私は昔の記憶だけで書いているので違っているかもしれません。

と、ごく私的で趣味的な嗜好に終始している朝ドラの話題で申し訳ございません (私的で趣味的な嗜好に終始、とシ音で揃えてみました)。
さて、電子レンジの中にあったネーム。秋風先生ダメじゃん!
次週はどうなるのでしょうか。


半分、青い。オフィシャルサイト
https://www.nhk.or.jp/hanbunaoi/
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ユジャ・ワンを聴く [音楽]

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Yuja Wang

ユジャ・ワン (Yuja Wang, 1987-) はピアニストとしての本来の評価よりも、そのテクニックについて、あるいはその衣装についての話題になることのほうが多い。悪口を言う人は、テクニックというよりもアレは曲芸であって、まるで上海雑技団のようだとか、あるいはクラシックなのに露出度過多でセクシー系とか。

彼女はゲイリー・グラフマンに師事したが、グラフマンの他の教え子にはラン・ランもいて、同じ中国系なので余計に上海雑技団な印象になってしまうのかもしれない。
だがそうしたネットスズメたちはほとんどが嫉妬しているか、あるいは物をよく知らないかのどちらかであって、タッチが浅いときがあるとか、音楽性が無いとか、大体言うことがステロタイプである。
セクシー系についてはカティア・ブニアティシヴィリをはじめとしてそれを一種のウリにしている人は多いが、それはどういう分野においても存在するものだし、それを逆手にとるというのも手法である。むしろデコルテを露出するのはドレッシーな女性の装いとしては普通であり、ワンの場合は脚を露出するというのがそうしたクラシック的ドレスの普遍性と異なるので、まるでポップス系のようだなどと叩かれるのである。
そうしたワンの衣装の選択方法から私が連想するのは椎名林檎であり、それは何を着たっていいじゃん! という確信と自分の音楽に対する自信から来ている。「ワンの衣装をもう少しおとなしくさせたいのだけれど、ピアノがうま過ぎるので誰も注意できない」 という揶揄はある程度当たっていないこともない。
もっとも、ネットを見ていると、彼女の衣装がセクシーだといって批判しているのは男性が多く (ドグマティズムかな)、擁護しているのは女性が多い。そのへんがブニアティシヴィリとやや違うところだ。

実はアリーナ・イブラギモヴァの動画を探しているとき、偶然、ユジャ・ワンとジョシュア・ベルのデュエットに行き当たったのである。それはクロイツェル・ソナタで、ベートーヴェンのなかでも特にクロイツェルだからピアノがどんどん出て行っても構わないので、ワンにはぴったりという感じもするけれど、室内楽、つまりピアノ伴奏としてのワンの協調性の深さに音楽の純粋な喜びを見出すのである【→ (1)】。
ベルはもっと若い時の、何となくクールなヴァイオリンの貴公子といったイメージがあってそういう印象に引き摺られていたのだが、今のほうが演奏も柔軟になっていて心地よい。
ワンの伴奏ピアニストとしての優秀さはリン・ハレルとの、ちょっと渋いブラームスのソナタでも同様に発揮されている【→ (2)】。

テクニック的な話題でいつも取り上げられてしまうリムスキー=コルサコフの Bumblebee は確かにこれみよがしな曲なのかもしれないが【→ (3)】、逆にそういう技術だけの曲というのも当然存在するわけで、それは一種の 「音楽の冗談 (Ein Musikalischer Spaß)」 なのであるが、冗談のわからないスズメもいるのである。
それよりもっとエキセントリックでキモチワルい寸前まで行ってしまうのがトルコ行進曲であって【→ (4)】、それはマルカンドレ・アムランの弾くゴドフスキーと同じで、どんどんディフォルメされグロテスクな様相をまとってゆく。というよりシンプルであったはずのモーツァルトが次第に溶解して変質していくのかもしれなくて、特にワンの指の強靱さがよくわかる。

ワンのピアノは速いだけ、という評価も当たっていなくて、それはラフマニノフの《Vocalise》で知ることができる【→ (5)】。それはラン・ランが遅い曲を弾いたときの強い印象に似ていて、人間の先入観とか思い込みが、真実を覆い隠すのに強いパワーを発揮することは確かである。


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Yuja Wang/Sonata & Etudes (Deutsche Grammophon)
Sonatas & Etudes




(1)
Joshua Bell and Yuja Wang/Beethoven: Kreutzer Sonata
(3rd movement)
https://www.youtube.com/watch?v=8ktkmhJ8Fm8

参考:全曲version
https://www.youtube.com/watch?v=8NOF_ueaxJ4

(2)
Lynn Harrell and Yuja Wang/
Brahms: Sonata for Cello & Piano No 2 in F major
https://www.youtube.com/watch?v=kkMoehauE9I

(3)
Yuja Wang/Nikolai Rimsky-Korsakov (György Cziffra):
Flight of the Bumblebee
https://www.youtube.com/watch?v=fdKEUmFUMFg

参考:普通の 「熊ん蜂の飛行」 (Peter Jablonski)
https://www.youtube.com/watch?v=BUkNy9tQnxY

(4)
Yuja Wang plays Turkish March
https://www.youtube.com/watch?v=vWFcbuOav3g

(5)
Yuja Wang/Rachmaninoff: Vocalise
https://www.youtube.com/watch?v=1yTyYpWqsZU

参考:セクシー系がお好きな人のために
Yuja Wang/ Tchaikovsky: Piano Concerto No.1
https://www.youtube.com/watch?v=fjQyoD3kGwA
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ピリスのスカルラッティとモーツァルト [音楽]

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Maria João Pires (bomdia.eu/より)

この連休は珍しく時間が空いてしまって、ぼんやりとYouTubeでスカルラッティを探していたらピリスの弾くスカルラッティに行き当たった。YouTubeを利用するのは原則的に曲を検索するときの目安にする程度とは思っているのだが、やはり動画だとどのように弾いているのかとか、CDよりもずっと情報量は多いから、どうしても見入ってしまう。それにこの時期になってヒマになるより、もう少し前に時間があればピリスに行けたのにとも思うのだが後の祭りであり、青葉になってから花見に行くような間抜けな感じでしかない。

ピリスのスカルラッティはKk.208 (L.238) のA-durのソナタである【→ (1)】。ソナタといってもスカルラッティ特有の名称であり、それはごく短い。208はKk.213 (L.108) に似てゆったりとしたアンダンテだが、d-mollの213に較べるとごく明るい。
中山康子校訂による音楽之友社版ソナタ集の解説によれば、多様性のある中期の特徴が見られるとある。「伴奏つきの独奏楽器のような右手の動きは絶えず自由な装飾的な旋律を奏し叙情的で豊かな感情を表出する」 とのこと。単純な旋律のように見せかけて次々に少しだけ意外な方向に曲がって行くスカルラッティの特徴がよく出ている曲である。
第5小節4拍目から第6小節にかけてのe-cis-ais-h-dis/e-cis-gis-a-disという繰り返しの奇妙な感じがこころよい。1回目で上がった ais-h が2回目では gis-a に戻るのだが dis は戻らず、その後を支配する。第17小節から第18小節1拍目までの g-cis-e-g という繰り返し (1回目のみ最初の音が ais) はバスが cis/h/a と下がって行くスカルラッティらしい音使いで、こんな単純に見える音なのにスカルラッティは魔術師だ、といつも思ってしまうのだ。なぜそんなにスカルラッティにシンパシィを感じてしまうのかといえば、私が最初に聴き込んでいたバッハがカークパトリックだったからにほかならない。最初の刷り込みというのはおそろしいものなのである (ピリスの演奏は第24小節3拍目がIMSLPおよび音友の楽譜と違うがスカルラッティではよくあること)。

YouTubeはそのままにしておくと、勝手に次の曲がかかってしまう。次に出て来たのはモーツァルトのコンチェルト23番のアダージョだった【→ (2)】。いきなりアダージョが出て来てしまうのがさすがのYouTubeである (褒めていない)。ピリスのモーツァルトのピアノソナタはDENON盤とDG盤があって、DENONは明るくDGは暗い。それは彼女の生活や健康とも関連してきているのだろうが、そして私はDENON盤の明るさがずっと好きだったのだが、このコンチェルトはDG盤の時期に近く、そしてこの時期のこうしたアダージョを聴くと、この暗さがよけいに胸に迫ってくる。
たとえばバッハだと、そんな暗さはない【→ (3)】。このバッハはかなり近年のものであり、その音から感じられる諦念のようなものがピリスの人生に重なるのである。諦念という言葉には語弊があるかもしれない。つまり過ぎて来た時を慈しむ気持ちだ。

その後に出て来たYouTubeの自動演奏はK271だった【→ (4)】。私の最も偏愛するモーツァルトであるジュノム。これは初めて見つけた動画だったので、もちろん全部聴いてしまった。
オーケストラはエラート盤のグシュルバウアー/グルベキアンのコンビではなく、もう少し後年のガーディナー/ウィーン・フィルであるが、ジュノムはまさにピリスのためにあるような曲である。この曲はモーツァルトの中でも非常に完成度が高くて、これでもかというほどに明快で高貴なメロディの積み重ねであり、しかも難易度も高い曲だと思えるが、聴く毎に発見があり、モーツァルトの深さをあらためて知るのだ。第3楽章でオケが無くなってひとりにされてから (24’09”あたり) 縦線の無いカデンツァを経てTempo Iに戻っていく爽快感といったらない。モーツァルト自身もこの曲をよく弾いていたらしいが、やたらにソロの部分があるし、見栄えのするコンチェルトである。
(ピリスのエラート盤のジュノムのことは、このブログの初期にすでに書いた→2012年02月04日ブログ)

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Scarlatti: Sonata K.208

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Mozart: Concerto nº9 (第3楽章カデンツァ)


Maria João Pires/Mozart: Deux concertos pour piano, nº9 et nº17
(ワーナーミュージック・ジャパン)
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》&第17番




(1)
Maria João Pires/Scarlatti: Sonata K.208
https://www.youtube.com/watch?v=8JwVCBFAVwA

(2)
Maria João Pires/Mozart: Concerto nº23 - Adagio
https://www.youtube.com/watch?v=srfbdxAYIZ4

(3)
Maria João Pires/Bach: Concerto f-moll BWV 1056 - Largo
https://www.youtube.com/watch?v=yGHxlLFn2Fs

(4)
Maria João Pires/Mozart: Concerto nº9 «Jeunehomme»
https://www.youtube.com/watch?v=oic6uIFWwwM&t=356s
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宮下奈都『羊と鋼の森』を読む [本]

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今さらなのだが、2016年の本屋大賞を受賞して話題となった宮下奈都『羊と鋼の森』が文庫になったので読んでみた。

ストーリーはごくシンプルである。主人公である外村 [とむら] は北海道の高校2年生。学校の体育館のピアノの調律に来た板鳥と出会う。それまで調律という仕事があることさえ知らなかった外村は、板鳥の作業に心を動かされ、弟子にしてくださいという。そして紹介された調律学校で2年間学び、板鳥の勤務する楽器店 (江藤楽器) に就職する。
店の先輩調律師は板鳥、柳、秋野の3人。板鳥は別格のカリスマ調律師、柳は外村の面倒を見てくれるやさしい先輩、秋野は斜に構えたやや棘のある先輩。そんな環境の中で外村は調律師としての経験を積んでゆく。

見習いとして柳に同行した初めての調律は、一卵性双生児の高校生姉妹の家のピアノで、姉 (和音/かずね) と妹 (由仁/ゆに) は見分けがつかないほど似ているが、弾くピアノから感じられる表情の違いに驚く。和音は暗く、由仁は明るい。柳は当然のように由仁を推すが、外村は和音の暗さに惹かれる。
しばらくしてから偶然、由仁に道で会った外村は、音の出ないキーがあるので見て欲しいと依頼される。それは簡単に直ったのだが、ついでに音の具合も見て欲しいといわれて直そうとしたのに、かえってバランスを崩してしまう。まだ自分には力がないのだ、と外村はふさぎ込む。

僕にはまだ何かが足りない。どうしたら調律が上手くなれるのか、と外村は悩む。店のピアノで調律の練習をしたり、音楽の素養がないとコンプレックスを感じ、僕はまだ音楽を何も知らないから、と毎晩ピアノ曲を聴き続ける。柳は、「外村は木の名前や花の名前や鳥の名前を知っている」 という。それは何かの役にたつ、という。だが外村は 「木は木でしかない」 と答える。
一方、秋野は 「調律なんてお客の技倆に合わせてほどほどにやればいいんだ。あまり精度を上げるとかえってお客は弾きこなせない」 という。
外村はいろいろなお客に出会う。良い客もいれば、外村の調律を信用してくれない客もいる。

1年が過ぎ、外村は板鳥からコンサートホールのピアノの調律を見せられる。ホールのピアノの調律は家庭のピアノとは別物なのだ、ということを外村は悟る。だが板鳥は外村に 「あきらめないことです」 といって励ます。

外村は柳のバンドのライヴに行く。柳はパンクバンドのドラマーをやっているのだ。調律師のときとは全然違う様子の柳。だが柳の彼女である濱野は、以前、柳は精神的に病んでいてここまで来るのは大変だったのだと述懐する。
秋野は以前、プロのピアニストを志望していた。だが何度も悪夢を見て、そこから脱出するのに4年かかったのだという。そしてピアニストの夢を捨て調律師になることにした。あきらめるとはそういうことだ、と秋野はいう。

ふたごの妹、由仁が突然ピアノが弾けなくなる。つられて姉の和音もピアノを弾くことを拒否してしまう (巻末の解説では、由仁がそうなったのは、スポーツでいうyipsのようなものなのではないか、とのこと)。
しかししばらく時が経って、和音は由仁が弾けなくなった分も引き受けて、自分はプロのピアニストになると宣言する。そう決心してからの和音のピアノは音が変わる。いままでと違うピアノだと誰もが認める。
由仁は 「私は調律師になって和音のピアノを調律する」 という。しかし外村は心の中で、和音のピアノを調律するのは僕だ、と思う。

外村の調律の仕事もだんだんとお客がつくようになってくる。家庭のピアノをきちんと調律できるようになりたい、と外村は秋野にいう。そうした、いわば 「小さなしあわせ」 のようなものが音楽には大切なのではないか、と外村は思うのだ。だが秋野から 「あの子 (和音のこと) はそのうちにコンサートで弾くようになる。それでいいの?」 と言われる。秋野はすべてを見抜いているのだ。

ラストシーンは柳と濱野の結婚披露パーティー。そこでピアノを演奏することになる。ピアニストは和音、そして外村はその調律を依頼される。最初はとても良い音が出ていた。だが会場の準備が始まり、人や什器などが持ち込まれるとピアノの音がだんだん伸びなくなる。会場に合わせて調律しなければいけないのだ、と外村は気づき、あわてて調整をし直す。
パーティー本番のピアノを聴いて、外村は秋野に褒められる。「初めてほめてもらいました」 と外村はいう。そして 「コンサートチューナーを目指さない。そう思っていたのは、誤りだった」 と思う。
会食の中で秋野は 「外村くんみたいな人が、たどり着くのかもしれないなあ」 と呟く (p.264/文庫版・以下同)。皆がそれに同意する。

     *

この小説は職能小説である。ピアノを調律する職人の話だ。だが職人といってもガテン系ではない。なぜならピアノは機械ではない。ピアノは楽器なのだ。
話の中には商取引もIT関連も無い。恋愛も、強い憎悪や不快も無い。今っぽい風景が何も無い。最近の小説に必ず存在するそうしたファクターはことごとく周到に排除されている。
また最近流行りの言葉である 「自分探し」 でもない。自己は最初から確立している。仕事に興味を持ち、どうしたら良い仕事ができるかということ、いやいややっている仕事ではないこと、そして仕事をすることとは、人間としてどう生きるかということなのである。それはいわば 「真 (まこと) の仕事」 である。清潔さ、潔癖さ、そして静謐さが全てを支配している。

羊はピアノの弦を叩くハンマーの先の羊毛を圧縮したフェルトをあらわし、鋼はピアノの弦、そしてそれを支える強固な枠をあらわす。森は、そうした素材で作り上げられるピアノの音をあらわすが、同時にそれは外村の育った北海道の森であり、真の音と音楽を求めて彷徨う森であり、そして社会であり世界である。
登場人物は、板鳥宗一郎と双子の佐倉和音、佐倉由仁の3人を除いて、すべて苗字だけで語られる。主人公の外村でさえ、下の名前が明示されない。外村の弟は、単に弟と書かれる。

これらの登場人物の苗字は、外村、板鳥、柳、秋野、そして営業の諸橋、バーのピアニストである上条など、すべて文字の中に 「木」 が入っている。双子の苗字である 「佐倉」 は、実は 「桜」 の言い換えである。木はそれぞれが人であり、木が集まれば森になる。だから森が社会であり世界なのだ。
それ以外の人たち、濱野、江藤社長、事務員の北川、担任の窪田は、全て水や草、つまり自然をあらわす苗字が使用されている。引きこもりの青年の苗字である南という文字の上部分の 「十」 は草の象形である。

そうした禁欲さは音楽に関しても同様に履行される。小説のなかに出てくる曲名は3曲しかない、ショパンのエチュード、子犬のワルツ、結婚行進曲である。エチュードも何番のエチュードかは明かされない。つまり具体的な音楽 (曲目) の情報はほとんど無いのである。無いというより、わざと排除されているのだ。

柳は外村に教えるのに、よく比喩を使う。外村は柳の比喩はわかりにくいと思う。ところが後半で、外村の印象的な比喩が語られる。

 「天の川で、かささぎが橋になってくれるっていう話がありますよね。
 ピアノとピアニストをつなぐカササギを、一羽ずつ方々から集めてくる
 のが僕たちの仕事なのかなと思います」 (p.211)

そして、

 カササギは最後の一羽まで揃わなきゃいけない。一羽でも足りないと、
 一羽分よりもっと大きな隔たりが空く。カササギが足りなかったら、最
 後は大きな溝を跨ぐのか、跳び越えるのか。(p.211)

事務員の北川は 「外村くんってほんとロマンチストよね」 と言って揶揄する。
それは 「木は木でしかない」 と言っていたはずの森の住人であった外村の、自覚しないままの逆襲でもあるのだ。外村の比喩でいう鳥とはメシアン的な鳥とは違う意味の鳥である。あるいは田村隆一が提示した哲学性の中での鳥かもしれない。メシアンの鳥は、その声の模倣であると同時に比喩でもあるが、この小説の中の鳥は、森とその森の従属物としての鳥である。それは自然に対する根源的畏怖であり、あるいは信頼である。

     *

昔の楽器店は、つまり私の子どもの頃は、小さな町にある小さな楽器店はこのような雰囲気だった気がする。マスプロ化した今の楽器店にはない品性のようなもの、音楽的な気品、それは気取っているのとは違う、何か音楽をすること (演奏すること、聴くこと) の喜びのようなもの、そして音楽を大切にしたい矜恃のようなものであったことを思い出す。
それはもはや手垢のついてしまった 「昭和の香り」 などといったノスタルジックな表現とは別種のものだ。きっと今でも、世俗にまみれていないこうした町が日本のどこかに存在していることを私は夢見る。


余聞:先日、ウチにピアノの調律が来たのでこの小説のことを話題にしてみたら、大変興味深い話を聞いた。だが絶対口外してはいけないということなので、それにごくローカルな話でもあるので、残念ながら書くことができない。


宮下奈都/羊と鋼の森 (文藝春秋)
羊と鋼の森 (文春文庫)

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