藤圭子〈京都から博多まで〉 [音楽]
藤圭子の〈京都から博多まで〉は阿久悠 (1937−2007) の作詞の中での最高傑作である。
作詞:阿久悠、作曲:猪俣公章、編曲:池田孝による1972年の作品であり、藤圭子の11枚目のシングルとしてリリースされた。阿久悠はこの曲で初めて藤圭子に作詞を提供した。
歌詞の内容としては、男を追って京都から旅立った女が、瀬戸内を通って博多まで行ってはみたけれど、結局逢えなくて泣いているという救いの無い歌なのだが、阿久悠によれば、演歌には北へ向かう歌詞が多いので、逆に南に向かってみましたとのことなのである。
それをややかすれた、時にドスの効いた声を絶妙に混ぜて歌う藤圭子の歌唱によって、その時代を髣髴とさせる暗いドラマが形成されている作品であるとも言える。
だが、それよりも注目すべきなのは、この歌詞が、特に1番の歌詞が非常に技巧的に書かれていることで、ここに阿久悠の天才性を見ることができる。
以前に書いたセルジュ・ゲンズブールの歌詞へのアプローチに準じて、この歌詞を解析してみよう。
1番の歌詞は次の通りである。
肩につめたい 小雨が重い
思いきれない 未練が重い
鐘が鳴る鳴る 哀れむように
馬鹿な女と云うように
京都から博多まで あなたを追って
西へ流れて行く女
この最初の2行であるが、まず 「い」 の連鎖があげられる。
かたにつめた【い】 こさめがおも【い】
おも【い】きれな【い】 みれんがおも【い】
かた【に】つめたい の 「に」 もイ列であるから 「い」 音が連鎖していて、脚韻になっている。
2行目を見ると、
おもい【きれ】ない 【みれ】んがおもい
となっていて、「きれ」 はカ行のイ音+れ、「みれ」 はマ行のイ音+れで、前後で呼応させているのだが、つまり 「き」 も 「み」 もイ列であり、イ列の音に支配されているのである。
さらに、
かたにつ【め】たい こさ【め】がお【も】い
お【も】いきれない 【み】れんがお【も】い
は、すべてマ行の音である。マ行の音が偏在していることもわかる。
もっともこの2行で一番重要なのが 「小雨が重い」 であることは明白である。
かたにつめたい こさめが【おもい】
【おもい】きれない みれんが【おもい】
と 「おもい」 という言葉が3回繰り返されるのであるが、「未練が重い」 に脚韻を合わせて 「小雨が重い」 としたのが秀逸である。「小雨」 とは 「重い」 ものなのか、と疑問を呈するよりも、「小雨」 なのに 「重い」 のだと言い切って来る強さに納得させられるのだ。
そして 「小雨が重い」 → 「思いきれない」 と意味の異なる 「おもい」 が連なる個所がこの歌詞の揺るがぬ完成形である。
一転して3〜4行目は次のようになる。
かねが【な】る【な】る あわれむように
ばか【な】おん【な】というように
と、「な」 が頻出する。この 「な」 は5〜6行目にも出現する。
きょうとからはかたまで あ【な】たをおって
にしへ【な】がれてゆくおん【な】
そして3〜4行目の 「あわれむように」 と 「いうように」 の行末音 「に」 はイ列であり、これは1〜2行目の行末音 「い」 と呼応している。
また、5〜6行目に頻出するのはタ行の音である。
きょう【と】からはか【た】まで あな【た】をおっ【て】
にしへながれ【て】ゆくおんな
そして 「て」 の脚韻もあるのだ。
きょうとからはかたま【で】 あなたをおっ【て】
にしへながれ【て】ゆくおんな
もっとも、4行目の、
【ばか】なおんなというように
に対する5行目の、
きょうとから【はか】たまで あなたをおって
の 「はか」 の呼応も見られるが、さすがにこれは意図して揃えたわけではなく、偶然の結果だろう。
ゲンズブールの場合、〈L’aquoiboniste〉はともかくとして、その歌詞には技巧なのか偶然なのかわからない微妙さも存在するが、この〈京都から博多まで〉は明らかに阿久悠の推敲が感じられる。ただ、そのきっかけが 「小雨が重い」 という言葉を見つけ出したときであることは確かだろうと思う。
[参考]
ゲンズブールとの対話 — L’aquoiboniste
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2012-05-10
あなたのアイドルたちに — ジェーン・バーキン Ex-fan des sixties
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2012-09-29
フランス・ギャルの伝説
https://lequiche.blog.ss-blog.jp/2012-12-04
藤圭子/京都から博多まで
(NHK 第23回紅白歌合戦・東京宝塚劇場)
https://www.youtube.com/watch?v=gvuleTI1uyI