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音楽で読む『みみずくは黄昏に飛びたつ』 [本]

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村上春樹&川上未映子 (新潮社→日本経済新聞より)

『みみずくは黄昏に飛びたつ』は、川上未映子が村上春樹にインタビューした記録をまとめた本ということになっているが、川上未映子の発言の比重が大きく、実質的には対談に近い内容となっている。インタビューは2015年から2017年にかけて4回行われたとのこと。発売されたとき、気にはなっていたのだが結局買わず、今回文庫が出たので遅まきながら読んでみたのである。文庫化に際し、2019年に行われた対談がオマケとして収録されている。

例によって私はそんなに真面目な村上春樹の読者ではない。だから毎年のノーベル賞騒ぎとも無縁である。今回もたまたま読んだだけで、熱心なファンのように出版された本を必ず買って読むということはない。その程度の読者なので、この本の中の重要なポイントは幾つかあるのだが、とりあえず音楽の話題に言及している個所をひろってみたいと思う。

一番面白いと感じたのはマイルス・デイヴィスに関する次のような発言である。村上はマイルズと言っている。

 マイルズ・デイヴィスをマーティン・ウィリアムズという評論家がイン
 タビューしてる記事を読んだことあります。ブラインド・フォールドで
 レコードをかけて、その感想を聞くんだけど、そのときにマイルズ・デ
 イヴィス自身の古いレコードをかけるわけ。曲は十年ぐらい前に演奏し
 た彼のオリジナル曲 「Swing Spring」 だったかな。そしたらマイルズ、
 「これ、なかなか悪くないじゃないか、誰の演奏? 誰の曲?」 って尋ね
 るんです。「これ、あなたが十年前にやったあなたの曲なんですけど」 と
 インタビュアーが答えたら、「いや、おれはこういうの覚えてねえな」 と。
 僕はそれを読んで、またこいつ嘘ついてるよなと思った (笑)。いい加減
 なこと言って格好つけやがって、忘れるわけないだろ、とか。「Swing
 Spring」 って名演ですからね。そんなに簡単には忘れられないだろう、
 と。でも最近になって、ああ、マイルズはあのとき本当に忘れてたのか
 もなと考えるようになりました。読んだときはさ、嘘つけ、ほんとにも
 う、とかあきれていたけど (笑)。(文庫版p.358. 以下同様)

この話は、過去に書いた作品を読み返すことはあるか、という川上の問いかけに対して、五年前のファッションが古いと感じるのと同じように、過去の作品も古いと感じてしまうので読み返せない、と答えた後に、やや唐突に語られるのだが、その後も話題が移っていってしまい目立った展開がないのだけれど、ここでこの話題が出てきたのは、川上未映子が村上の昔の作品に言及すると、覚えてないと答えることが何度もあって、それに対するエクスキューズを意識的にか無意識的にか、出してしまっているように感じられる。つまり、マイルスだって忘れることがあるんだから、僕が忘れることがあっても当然だよね、という意味である。

そしてそれは『騎士団長殺し』のサブタイトルにあるイデアとメタファーに関する話題に敷衍することが可能である。川上が騎士団長のイデアについて、プラトンを引きながら訊ねたのに対し、村上はこの作品におけるイデアはプラトンのイデアとは関係ないと答えるのである。川上が懇切丁寧に 「今この世界に存在しているものは仮の姿であって、すべてのものに本当の姿、イデアがある」 と説明すると、知らなかったと答えるので、川上は 「本当なのかなあ」 と疑う。村上は 「プラトンなんてまず読まないもの」 と補足する。
川上が解説するプラトンのイデア論の説明を引用してみよう。

 わたしたちの現実世界には、たとえばそこにコーヒーカップ、あるいは
 村上さんの本がある。また色々な概念がある。でもそれらは似姿で、善
 なる天上の世界にはそれらのイデアというものがあって、それこそが真
 実であると。天上には光源があって、イデアが洞窟の壁に投影している
 影をわたしたちは見ているに過ぎない。これが洞窟の比喩ですね。
 (p.196)

さらに、

 わたしたちが今見ているのは、洞窟に映った影にすぎないけれど、じつ
 は我々は、昔は善なる世界にいて、物や概念の真なる姿、イデアを知っ
 ていた。(p.196)

そして、

 でも、わたしたちは汚れ [けがれ] のために、この影の世界に落とされ
 てしまった。ところが、ある物をある物として認識することができたり、
 美しいものを見たときにそれが美しいとわかるのは――まあ、それって
 言葉があるということでもあるんですが――それは、天上で触れていた
 イデアを思い出しているんだと。愛や美しさを直観できるのも、かつて
 それを知っていたからだと。想起説。(p.197)

それに対して村上は、

 なるほど。すべては本物の幻影に過ぎないんだ。そういえばマーヴィ
 ン・ゲイの古い歌に 「Ain’t Nothing Like the Real Thing (本物に勝る
 ものなし)」 というのがあったけど。(p.198)

と言う。これは単純にまぜっかえしと考えていいのだろうか。川上が言うような 「『騎士団長殺し』は、イデアとメタファーの、集合的無意識の奪い合いとも読めるわけだし」 (p.196) という読み方は軽くいなされてしまったからである。この部分がこの本の中で最も面白い。
話が前後しているのだが、このメディア/メタファー論があってから約3週間後のインタビューの中で前述の、マイルスが自分の演奏を収録した録音を覚えていなかったという逸話が出てくるので、この2つの話は関連性があると私は思うのである。
確かにプラトンなんて、古典ではあるけれど名前を知っているだけで普通は読まないものなのかもしれない。もっともSF好きな私は、クリティアスやティマイオスくらいは読んでいるし、アリストテレスの科学系のものも 「とんでも」 な部分があったりして面白いのだが。
似ているかもしれないがイデアはプラトンのイデアでなくて、「ただイデアという言葉を借りただけ」 (p.193) と村上に断定されてしまうと、川上はうろたえるしかないのである。
そもそも村上が引き合いに出してきたマイルスの話――マイルスが自分の演奏曲〈Swing Spring〉をそれと見破れなかったということはおそらくあり得ない、と考えるほうが自然である。マイルスのような鋭敏な感覚の人が、誰にでもわかるような音色と音構造をかつての自分の演奏だと認識できないなどということはファンタジィの世界にしか存在しない。〈Swing Spring〉を改めて聴いてみたが、名曲というより特徴的なテーマ、そして個性的なサイドメンによる際立った曲であり、よりによってマイルスがこれを忘れることはないはずである。

ストーリー構築についての問い――最初から結末までを見通して書いているのかどうかということについて村上はそれを否定する。ゲームのアナロジーとして説明するのならば、プログラミングする側とプレーする側が自分の中で完全にスプリットされているようなものなのだと語る。つまりストーリーがどこにたどり着くのかは作家本人にもわからないというのである。そのスプリット感の例として、グレン・グールドの奏法に話が移ってゆく。グールドの演奏が他のピアニストと異なるのは、左右の手の動きが分断されているからというのである。それはグールドの演奏の中で最も有名なゴルトベルクに対する村上の批評でもある。

 普通のピアニストって右手と左手のコンビネーションを考えながら弾い
 ているじゃないですか。ピアノ弾く人はみんなそうしてますよね。当然
 のことです。でもグレン・グールドはそうじゃない。右手と左手が全然
 違うことをしている。それぞれの手が自分のやりたいことをやっている。
 でもその二つが一緒になると、結果的に見事な音楽世界がきちっと確立
 されている。でもどうみても左手は左手のことしか、右手は右手のこと
 しか考えてない。ほかのピアニストって必ず、ごく自然に、右手と左手
 を調和させて考えています。彼にはそういう意識はないみたいに見える。
 (p.128)

グレン・グールドのそうしたピアニズムはグールドがプログラミングしているのではなくて、自然にプログラミングされているのだ、と村上は言うのである。そしてそうした乖離の感覚は人の心を引きつける魅力もあるが、同時に危ない感じもあると言う。ただそれはグールドだからこそのスプリット感であり乖離された感覚なのであって、凡庸なピアニストはそういうことはできないし、音楽として統合され得ないことになってしまうだろうことが想像できる。
そうした独特の感覚、通常と異なる違和感のようなものがグールドのピアニズムの特質であって、それを左右の手がそれぞれ独立した人格を備えているように聞こえると村上は言っているのだ。対位法が2声なら2人の奏者、3声なら3人の奏者がグールドの中に存在するのだというようにパラフレーズしてみてもよい。
たとえばピアノの片手の守備範囲内に2声以上の音が存在する場合、それらの音は重なりまとまった和音としてではなく、それぞれの声部が異なるアーティキュレーションで演奏されるべきである。なぜならそれがバロックだからである。グールドにはその感覚があらかじめ備わっていた――つまりスプリット感をそういうものとして最初から自然に (あるいは天然に) 所有していたと見るべきなのである、と村上は指摘しているのだと思う。

ブルース・スプリングスティーンやパティ・スミスの話も興味をひく。スプリングスティーンは村上と同い年なのだという。

 でもああいう人たちは、たぶん精神年齢がまだ三十代なんだね。「俺、
 もう六十八だから」 とか、「私もう七十だから」 というようなことは絶対
 口にしないし、また感じさせない。別に若ぶっているつもりはないんだ
 ろうけど、彼らの言ってることとか、感じてることとか、やりたいこと
 とかは、まだ三十代の感覚ですね。(p.387)

そういうのもありなのだし、そうした活力がある限りは、その先のこと――たとえば死についてもそこまで深く考える必要はないのだ、と村上はいうのである。
年齢に関して、ドストエフスキーは60歳で死んでしまったけれど、自分がドストエフスキーより長く生きて小説を書いているとは思わなかった、と村上はいう。そしてドストエフスキーは写真で見ると 「すごいジジイ」 ともいうのだが、それを川上は 「時代も違いますから」 とフォローしている。(p.292)

それ以外の音楽に関する話題はそんなに見当たらない。
文章の魅力というものについて村上は、「それはある程度生れもってのもの」 と言い、身体能力に近いものでもあり、歌に似ているとも言う。そして 「生まれつき音痴の人っているじゃない」 と言い、自分もそうなのだと言う。これもイデアの話と同様に、本当なのかな? という疑問符で一杯になるのだ。(p.273)
「TVピープル」 という作品は、MTVでルー・リードのミュージック・ビデオを観て、それにインスパイアされて書いたというエピソードも、ただルー・リードという固有名詞が出てきたのに過ぎないのだが、印象に残る。(p.313)

だが一番印象に残ったのは、またジャズクラブをやりたいと述懐する部分である。

 小説を書かなくなったら、青山あたりでジャズクラブを経営したいです
 ね。ハンフリー・ボガードみたいに蝶ネクタイ締めて、ハウス・ピアニ
 ストに 「その曲は弾くなと言っただろ、サム」 みたいなことを言って
 (笑) (p.87)

小説よりもピーター・キャットの再来を期待してしまう、よこしまな読者の私である。


村上春樹・川上未映子/みみずくは黄昏に飛びたつ (新潮社)
みみずくは黄昏に飛びたつ: 川上未映子 訊く/村上春樹 語る (新潮文庫)




村上春樹/騎士団長殺し 第1部 (新潮社)
騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編




村上春樹/騎士団長殺し 第2部 (新潮社)
騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編




Miles Davis/Swing Spring
https://www.youtube.com/watch?v=8Yk8LVA6HPE
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