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岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』を読む [本]

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前記事のつづきである。

岸本佐知子のエッセイは面白いのだけれど中毒になるから、読むのは一日に3本まで、とどこかに書いてあった。これは本当である。でも面白いので、食べ出したら止まらなくなるスナック菓子のように全部読んでしまう。ああ、もったいない。惜しみ惜しみ少しずつ読まないと、といつも後悔してしまうのだが後の祭り。

岸本のエッセイによく出てくるテーマとして、記憶に対する視点がある。記憶の不確かさ、曖昧さ、そして記憶は必ずしも過去の正当な記憶ではなくて、自己の中で捏造されたあり得ない記憶だったり、他人の話を自分の経験のように組み立て直してしまう記憶だってあるのかもしれないと思わされる。
そしてもうひとつ、あまりに面白くてぐいぐい引き込まれていくうちに、いつの間にか嘘の領域、つまりフィクションに入ってしまう変換点が絶妙で、時としてだまされてしまう。もうだまされないぞ、と思いながら身構えて読んでいたりする。

たとえばこの本の中で 「まゆつば」 してしまったのが 「海芝浦」 である。

 横浜の鶴見線というローカル線の、そのまた支線の終着駅。ホームの片
 側が海、反対側は東芝の工場で、改札口が一つあるにはあるが東芝の敷
 地内に直結しているため、東芝の社員でないかぎり、降りてもそのまま
 引き返すか海に飛びこむか二つに一つしかない。そんな駅が本当に存在
 するという。(p.48)

へぇ、そんな駅があるんだ、と読んでいたのだが、まてよ、また岸本佐知子マジックにやられているかもしれないと突然疑ってしまった。ところが調べてみたら、本当にそういう駅があるんですね。しかもテッチャンの間では有名な駅らしい。本当に存在するということがかえってショックだったのだが、「引き返すか海に飛びこむか」 などと書くから怪しさ100%になってしまうわけで、この屈折した読者の心情を岸本先生はきっと 「しめしめ」 と思っているのに違いない。
それでYouTubeを探してみたら《男女7人秋物語》(1987) というTVドラマに出てくる海芝浦駅のシーンがあったので、前回の記事にリンクしておいたのである。唐突で何だかわからなかったと思うので、もう一度しつこく下記にリンクしておく。
《男女7人秋物語》というのは有名なドラマらしいのだが、私は今まで見たことがなくて、初めて見たのだが、何か背中がぞわぞわした。この時代のドラマって、ファッションとか周囲の小道具まで含めて、無意識の気恥ずかしさとでもいえばいいのか、その時代がくっきりとわかるように思う。海芝浦のホームに入って来る古い電車というのもなかなかよい。

このドラマのシーンを選んだ理由はもうひとつあって、それは本の冒頭の 「赤坂見附」 の中で、バブル期の頃、大学を卒業した岸本は赤坂見附にある会社に勤めていたとのこと。しかし仕事に全く向いていなかったこと、その自尊心を埋めるために服ばかり買っていたことが自虐的に書かれている。まさにそれはこのドラマに描かれている時代なのではないだろうか。過去の記憶をたどるために岸本は赤坂見附に赴き、その変わりようが描写されているのだが、

 さっきから話しかけてくるこの声、会社のビルを出たあたりから気配と
 なってついてくる。これが誰なのか、もちろん私は気づいている。ソバ
 ージュの髪、太い眉、会社支給の黄色いスカートに七百八十円のつっか
 け。共布のベルトの端がめくれあがるのを、ダブルクリップで留めてい
 る。(p.13)

バリ島からごく近所の街まで、大きい旅、小さい旅の過程を岸本は記述する。このエッセイ集は柴田元幸編集の雑誌『MONKEY』に連載されたものをまとめた本だとのことだが、どこか、いつもと違うところに旅したことを書くというのがコンセプトになっていて、それはごく近くの、旅ともいえない場所であっても構わないらしいのだが、「鬼がつくほどの出不精」 と謙遜しながら、その旅日記のようなもののアレンジの魅力に引き寄せられる。自身で仮のつもりで撮ったスマホの画像がそのまま使われているのも彼女の本らしい。富士山が好きで、ロボットのペッパーが怖い、機関車トーマスも恐ろしいなどというストレートな嗜好にも笑ってしまう。
それでいて丹波篠山の話は気持ちがしんみりしてしまうし、猫のギプスの話にはシンパシーを感じてしまう。面白くて、少し感傷的な冬の暮れ。この本に書かれている話ではないのだけれど、電車の忘れ物をとりに行ってどんどん地下に降りていく話とか、ときに幻想小説っぽくなることがあっても山尾悠子崩れになってしまい、お笑いに流れてゆくこの絶妙さ。岸本先生、好きです。なお岸本佐知子の本業は翻訳家である。

 この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れ
 てしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とと
 もに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこか
 の誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見
 た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていて
 ほしい。(p.88)

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『死ぬまでに行きたい海』特設ページ
http://www.switch-pub.co.jp/kishimoto_sachiko/

岸本佐知子/死ぬまでに行きたい海
(スイッチパブリッシング)
死ぬまでに行きたい海




海芝浦駅/男女7人秋物語 第1話『再会』より
https://www.youtube.com/watch?v=vP5BnGgHcCE
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