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アデュー、オリンピック [雑記]

今日 (6月12日) の朝日新聞の読書欄に作家の星野智幸がオリンピックについて書き、それに関する本を紹介している。

 小学生のときにモントリオール五輪に熱中して以来、無類のスポーツ観
 戦好きとなり、スポーツを通じて社会は良い方向に変えられるという信
 念も持っている私が、こんなにまでオリンピックに嫌悪を感じるとは。

という星野は、IOCの強権的な主張に対して 「IOCによる 「不平等条約」 のために住人たちが拒否できないという状況は、支配者が自分たちの利益のために植民地を踏みにじってきた歴史を繰り返している」 のだと認識しているが、それは今に始まったことではなく、そもそものオリンピックの始まりが強権と特権の体質だったのだと述べている。
ヘレン・レンスキーは 「スポーツ例外主義」 という言葉を使って、IOCはオリンピックを「『世界のスポーツの最高権威』という地位を築くことで、人体と心にダメージを与えるようなスポーツ実践」 を形づくってきたと指摘しているという。

 スポーツ例外主義とは、民主的な手続きだとか、女性の地位だとか、セ
 クシュアルマイノリティー差別だとか、不正義に対する抗議の意思表示
 だとかを、「スポーツは政治に巻き込まれない」 というレトリックで無視
 する進め方のことである。

また、ジュールズ・ボイコフは第二次世界大戦前のベルリンで開催されたオリンピックにおいて 「IOCはファシズムと親和し」 ていたし、「戦後も、歴代の有力な会長は元ファシスト支持者たちで強権政治への志向を隠さなかった」 というのである。1936年のベルリン・オリンピックがヒトラーのプロパガンダのための開催だったことは自明である。
そして 「スポーツの清廉なイメージで不都合を覆い隠す 「スポーツウォッシング」 こそ、各国の政治が利用したがる五輪の効果だ」 と星野は書く。さらに 「スポーツ政治が持つこれら負の側面の源を探れば、白人男性至上主義に行き着く」 とする。そもそも第1回のオリンピックは男性のみの、より正確にいえば白人男性限定のスポーツ大会であったのだから。

オピニオンのページでは社会学者の佐藤俊樹のインタビューが掲載されているが、表明されている意見は星野と同様の 「気持ち悪さ」 である。そして、

 「日本の政治が科学の知識や知見をいかせていない。それも『うまくで
 きない』というより、『理解できていない』ように見えます。科学が進
 歩し、感染者数の予測や状況ごとの感染リスクなどのデータがたくさん
 とれるようになりました。そうした成果をベースにした議論もできてい
 ません」
 「材料を分析した上で方針を決めていれば、五輪も単純な『開催か中止
 か』ではなく、『この形ならばリスクはこれくらい』と提示できたはず
 です。今回は、そういう対応能力がないことを見せつけられた。それが
 強い感情的な反対論も生み出しました」

と佐藤は言う。
さらに佐藤は、コロナ対策とオリンピックとは二兎を追うことであり、そのようなことをする力は日本にはない。なぜなら日本はもはや大国ではない、とも言う。

 「コロナ禍のこの1年間で、現実を見ないわけにはいかなくなったのだと
 思います。ワクチン自体は早期に確保できたのに、接種の態勢の準備な
 し。IOCからは、日本をバカにするかのような発言が続きます。薄ぼん
 やりとは、認識せざるを得ないでしょう」

だからオリンピックが行われても行われなくても、そして行われたとして、開催して盛り上がったというようなことになったとしても、それは中途半端であり、すべてに中途半端な日本が浮き彫りになるのだというのである。

スポーツ欄には、日本ウェルネススポーツ大学教授の佐伯年詩雄が、「開催の是非 人任せにせず、スポーツ界から発信を」 という記事がある。

 この状況でなお開催を求めるのなら、なぜ、何のために開くのかという
 論理を示すべきです。誰も示すことができないできた大会の意義を自ら
 問い、自分の言葉にして訴えないといけません。
 懸念しているのは、このままでは五輪やスポーツそのものが信頼や価値
 を失い、傷つくことです。
 スポーツ界は黙って成り行きを見守っているだけ。社会と共にコロナに
 対抗することをしてきていない。

と佐伯は語っている。これはつまりアスリートやスポーツ関係者が、レンスキーのいう 「スポーツ例外主義」 に乗って安穏としているのに等しいとも言える。
そしてオリンピック後について佐伯は、

 開催の是非について、なにも語らなかったスポーツ界が信頼を取り
 戻すのは並大抵のことではないです。

ともいう。

以上は新聞記事を要約したものだが、私の意見もこれらに近い。
ただ、簡単に述べると、今回のIOCの日本への対応は、直裁にいうのならば有色人種への蔑視がその根本にある。本来、白人種のものだったオリンピックを有色人種の国で開催させてやるのだから文句を言うな、ということである。もちろんそんなことを表だっては言わないが、そうした認識があることはすぐにわかるはずだ。
これは何もオリンピックに限ったことではない。かつてF1という自動車レースがあったが (今もまだあるのかもしれないが、よく知らない)、日本人ドライバーは確実に差別されていた。同じ条件の車が与えられることはなく、スタッフも車も、すべてが2番手、3番手であり、それが結果として 「日本人ドライバーはたいしたことない」 という評価につながっていたのは確かである。なぜならF1というのは白人のためのレースであり、それ以外の人種が入ることをよしとしていなかったからである。
こうした差別的認識の極端な例がナチスであり、そのナチスの牛耳っていたベルリン・オリンピックから聖火リレーが始まったのであることは意味深である。つまりいまだに国威昂揚であり、そもそもオリンピックの目的は富国強兵なのである。
かつてレコード大賞というイヴェントがあった (今もまだあるのかもしれないが、よく知らない)。レコード大賞はあるときから、裏取引の事務所間での疑似・賞レースとなってしまった。だから最近、レコード大賞をとった歌手がどんな人なのか、ほとんど知らないし関心がない。レコード大賞とオリンピックを同列にはできないのかもしれないが、私にとっては同じようなものである。腐敗したものは必ず滅びて行く。オリンピックの美名とでもいうべきものは、もうすっかりメッキが剥げ落ちている。もともとそれはメッキであって、無垢の金属ではなかったのだ。

コロナのワクチン接種に関しては、私はより皮肉な見方をしている。佐藤俊樹は、ワクチンが確保されたのにもかかわらず準備をしなかった、つまり対応が遅かったと見ているが、私はわざと遅らせていたのだというふうに考える。オリンピックを開催するか中止にするか、一番瀬戸際のときに、ワクチン接種が進まない、電話がかからなくて予約がとれないというような混乱状況になるような時期にあらかじめ設定しておいて、オリンピックに対する関心・注目度が少なくなるように仕向けて、そのうちにどんどん進めて、なしくずしで開催してしまおうとする計画である。そして今がまさにその状態である。これは悪辣な手法であるが、政治家とは常に強引に自己の目的を押し通そうとし、そのためには虚偽も厭わないものであることを認識しておかなければならない。

このコロナ禍の間、音楽業界は停滞し、ライヴもできず、ライヴハウスももちろんダメ。音楽関係者は大変な努力をしてきたことを知っている。これは私が音楽が好きだから言うのではないが、そのような逼迫した状況に対して国家は何の保証もしてくれてはいない。音楽などどうでもいいのだと思っているのである。大人数の集まるライヴはダメ、運動会もダメ、博物館や美術館もダメ。でもオリンピックはOK、パブリックビューもOK、何なんでしょうね?

佐伯年詩雄が危惧しているスポーツ全般に対する信頼がなくなることについては、私にとっては、もう遅いのである。私は東京オリンピックが開催されたとしても一切見ないし、今後、すべてのスポーツに関して無視することにする。それがこの国の現状と卑劣さに対する小さな抗議である。
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