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100分de名著『果てしなき 石ノ森章太郎』を読む [コミック]

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手塚治虫、萩尾望都に続く別冊100分de名著のマンガ家第3弾は『果てしなき 石ノ森章太郎』である。
だが石ノ森章太郎 (1938−1998) をどのようにとらえるのべきなのかは意外にむずかしい。手塚治虫や萩尾望都のような 「これが代表作」 と言い切れるような作品がない。「ない」 といったら語弊があるのかもしれないが、たとえば『サイボーグ009』のような、まずマンガ作品がその基礎にあるものをあげるべきなのか、それとも《仮面ライダー》のようにテレビドラマのコンセプトを提示した人として考えるべきなのか、年代によって違いがあり、それぞれの視点が存在する。

評者のひとり、名越康文は『サイボーグ009』をとり上げているが、その最期の 「天使編」 「神々との闘い編」 (共に1969年) はいずれも未完であり、そしてそこまでが『サイボーグ009』である、と結論づけている (p.77)。その後の009は 「評価が難しい」 というのだ。
夏目房之介は『左武と市捕物控』について述べているが、「私たちの世代にとっての石ノ森はここが最高峰」 であり、以降の作品は 「終わったな」 とまで言い切っている (p.123)。そしてテレビアニメや特撮ヒーローもののプロデューサーであったことを評価すべきなのだが、石ノ森の生前、それを伝えることができなかった、なぜなら石ノ森がその価値を認めたがらなかったからだという。
宇野常寛は1978年生まれなので、最初に 「仮面ライダー」 があり、石ノ森章太郎は特撮番組のクレジットにやたらに出てくる名前の人という認識があって、石ノ森のマンガ作品を読んだのはその後からであったと語る。ゆえに石ノ森章太郎は有能なコンセプターであったと意味づけるのだ。

つまりわかりやすく位置づけるのなら、1955年のデビュー作 「二級天使」 から1968年の『左武と市捕物控』を経て1970年頃までがマンガ家の時代、1971年の《仮面ライダー》放送の頃から1998年までが、もちろんマンガも描いているのだが、プロデュース業の時代というのが、ほぼ共通の認識である。

そんな中で、1964年の『週刊マーガレット』に連載された『さるとびエッちゃん』(雑誌掲載時のタイトルは 「おかしなおかしなおかしな女の子」) へのヤマザキマリの分析が目を惹く。『さるとびエッちゃん』はギャグマンガであるが、エッちゃんは性格的にクールであり、ストーリー全体がシュールであるとヤマザキはいう。
そして、

 彼女は自分の周りで起こっている事象に対して、いろいろ思うことはあ
 っても、押し付けがましい正義感も、ああするべき、こうするべきとい
 った主張もない。石ノ森が意図したものなのか、エッちゃんというキャ
 ラクターを作った時点でエッちゃんが勝手に動き出したのかは分からな
 いのですが、その点でも唯一無二な漫画だと言えます。(p.25)

と書く。つまり、

 何が正しいのか悪いことなのかは彼女が判断をしているわけではない。
 自己主張や自我意識がない。そもそも漫画のセリフに 「わたしは」 とい
 う表現がほとんど出てこないのです。(p.27)

それが石ノ森の、世界に対するスタンスなのではないか、とヤマザキは言っているようである。
いくらギャグマンガとはいえ、そのヒロインであるエッちゃんに感情移入しにくい、むしろ感情移入されることを拒んでいて、何も求めずただ生きているだけというその態度は、承認欲求であふれかえっている現代の情勢と対極にありそこから学ぶことはたくさんある、とヤマザキはいうのだ。それでいてそのクールな立ち位置であるはずのエッちゃんから滲み出る悲哀があり、それが物語の深さだともいう。

また、話がちょっとズレるが、このヤマザキの指摘の中で 「エッちゃんというキャラクターを作った時点でエッちゃんが勝手に動き出した」 のかもしれないという表現をしているのが同業者としての共感でもあるようで、やはりそういうことがあるのだなと納得する。

そして石ノ森章太郎の特徴的な作品として取り上げられているのが『章太郎のファンタジーワールド ジュン』である。『ジュン』(1967) は手塚治虫の立ち上げた雑誌『COM』に連載された実験的な作品で、コマ割りの斬新さ、ほとんど言葉のない作画など、詩的なその方法論に手塚治虫が嫉妬したといういわくつきの作品である。夏目房之介はセンチメンタル過ぎると言っているが、逆にいえばそれは石ノ森のピュアな精神構造がそのまま露出してしまった結果であり、特にテクニック的なコマ割りの革新性 (コマ割りは田の字でなくてもよいし、ワク線は常に必要ないということ) がその後の萩尾望都などの作品に影響を与えたことは確かである。

竹宮惠子はその当時、編集者から 「少女マンガは日常的な題材でないとダメだ」 と言われていたがそれを打破したのが石ノ森で、それにならって少女マンガにSFを導入してみようという試みとして描いたのが 「ジルベスターの星から」 (1975) であったとインタビューで述べている (p.45)。

名越康文は『サイボーグ009』について、サイボーグにされてしまった違和感という形容をしているが、つまり身体を無理矢理に改造されてしまったことは喜びでも何でもなく、マイナスの作用として働きながら、でもそれでも生きていかなければならないということであり、それはさるとびエッちゃんよりも、よりシビアな悲哀であって、一種の諦念ないし虚無感の実相である。
そうしたサイボーグの違和感は《ブレードランナー》のレプリカントの悲哀と通底していて、つまり石ノ森はリドリー・スコットなどよりずっと以前にヒーローないしはアンチヒーローのセンシティヴィティを描いていたのだといえる。
かつてヒーローは明るい太陽であるだけの存在だった。たとえばスーパーマンがそうである。だがクリストファー・ノーランの描いた《ダークナイト》のバットマンは、もともと翳のあるヒーローであったにせよ圧倒的にダークである。それは世界が次第に複雑系に変化していったというよりは、むしろ劣化していったと考えるほうが自然である。

また少し話題がズレるが、ヤマザキマリによればイタリアでは『ドラえもん』と『クレヨンしんちゃん』が全くウケないのだとのこと。東南アジアでもスペインでもウケているのにイタリアではウケない。なぜならドラえもんがすべて解決してくれて、のび太がそれに依存しきっているのが不評なのだ、と。その点、『さるとびエッちゃん』は自立していてヴィットリオ・デ・シーカなどにみられるネオリアリズモ的なテイストがあるともいう。このあたりは、さすがイタリア、芯があるなぁという気持ちで読んでいた。

『ジュン』に出てくる少女は年齢を超えた存在であり、つまり幼いようでもあり、老成した女の仮の姿のようでもある。だが私は竹宮惠子の『私を月まで連れてって!』(1977−1986) のニナ・フレキシブルがそのヴァリエーションではないかと連想してしまう。性的でないロリータはその分、かえって蠱惑的だ。

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石ノ森章太郎/ジュン


100分de名著 果てしなき 石ノ森章太郎 (NHK出版)
別冊NHK100分de名著 果てしなき 石ノ森章太郎

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