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宮下奈都『羊と鋼の森』を読む [本]

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今さらなのだが、2016年の本屋大賞を受賞して話題となった宮下奈都『羊と鋼の森』が文庫になったので読んでみた。

ストーリーはごくシンプルである。主人公である外村 [とむら] は北海道の高校2年生。学校の体育館のピアノの調律に来た板鳥と出会う。それまで調律という仕事があることさえ知らなかった外村は、板鳥の作業に心を動かされ、弟子にしてくださいという。そして紹介された調律学校で2年間学び、板鳥の勤務する楽器店 (江藤楽器) に就職する。
店の先輩調律師は板鳥、柳、秋野の3人。板鳥は別格のカリスマ調律師、柳は外村の面倒を見てくれるやさしい先輩、秋野は斜に構えたやや棘のある先輩。そんな環境の中で外村は調律師としての経験を積んでゆく。

見習いとして柳に同行した初めての調律は、一卵性双生児の高校生姉妹の家のピアノで、姉 (和音/かずね) と妹 (由仁/ゆに) は見分けがつかないほど似ているが、弾くピアノから感じられる表情の違いに驚く。和音は暗く、由仁は明るい。柳は当然のように由仁を推すが、外村は和音の暗さに惹かれる。
しばらくしてから偶然、由仁に道で会った外村は、音の出ないキーがあるので見て欲しいと依頼される。それは簡単に直ったのだが、ついでに音の具合も見て欲しいといわれて直そうとしたのに、かえってバランスを崩してしまう。まだ自分には力がないのだ、と外村はふさぎ込む。

僕にはまだ何かが足りない。どうしたら調律が上手くなれるのか、と外村は悩む。店のピアノで調律の練習をしたり、音楽の素養がないとコンプレックスを感じ、僕はまだ音楽を何も知らないから、と毎晩ピアノ曲を聴き続ける。柳は、「外村は木の名前や花の名前や鳥の名前を知っている」 という。それは何かの役にたつ、という。だが外村は 「木は木でしかない」 と答える。
一方、秋野は 「調律なんてお客の技倆に合わせてほどほどにやればいいんだ。あまり精度を上げるとかえってお客は弾きこなせない」 という。
外村はいろいろなお客に出会う。良い客もいれば、外村の調律を信用してくれない客もいる。

1年が過ぎ、外村は板鳥からコンサートホールのピアノの調律を見せられる。ホールのピアノの調律は家庭のピアノとは別物なのだ、ということを外村は悟る。だが板鳥は外村に 「あきらめないことです」 といって励ます。

外村は柳のバンドのライヴに行く。柳はパンクバンドのドラマーをやっているのだ。調律師のときとは全然違う様子の柳。だが柳の彼女である濱野は、以前、柳は精神的に病んでいてここまで来るのは大変だったのだと述懐する。
秋野は以前、プロのピアニストを志望していた。だが何度も悪夢を見て、そこから脱出するのに4年かかったのだという。そしてピアニストの夢を捨て調律師になることにした。あきらめるとはそういうことだ、と秋野はいう。

ふたごの妹、由仁が突然ピアノが弾けなくなる。つられて姉の和音もピアノを弾くことを拒否してしまう (巻末の解説では、由仁がそうなったのは、スポーツでいうyipsのようなものなのではないか、とのこと)。
しかししばらく時が経って、和音は由仁が弾けなくなった分も引き受けて、自分はプロのピアニストになると宣言する。そう決心してからの和音のピアノは音が変わる。いままでと違うピアノだと誰もが認める。
由仁は 「私は調律師になって和音のピアノを調律する」 という。しかし外村は心の中で、和音のピアノを調律するのは僕だ、と思う。

外村の調律の仕事もだんだんとお客がつくようになってくる。家庭のピアノをきちんと調律できるようになりたい、と外村は秋野にいう。そうした、いわば 「小さなしあわせ」 のようなものが音楽には大切なのではないか、と外村は思うのだ。だが秋野から 「あの子 (和音のこと) はそのうちにコンサートで弾くようになる。それでいいの?」 と言われる。秋野はすべてを見抜いているのだ。

ラストシーンは柳と濱野の結婚披露パーティー。そこでピアノを演奏することになる。ピアニストは和音、そして外村はその調律を依頼される。最初はとても良い音が出ていた。だが会場の準備が始まり、人や什器などが持ち込まれるとピアノの音がだんだん伸びなくなる。会場に合わせて調律しなければいけないのだ、と外村は気づき、あわてて調整をし直す。
パーティー本番のピアノを聴いて、外村は秋野に褒められる。「初めてほめてもらいました」 と外村はいう。そして 「コンサートチューナーを目指さない。そう思っていたのは、誤りだった」 と思う。
会食の中で秋野は 「外村くんみたいな人が、たどり着くのかもしれないなあ」 と呟く (p.264/文庫版・以下同)。皆がそれに同意する。

     *

この小説は職能小説である。ピアノを調律する職人の話だ。だが職人といってもガテン系ではない。なぜならピアノは機械ではない。ピアノは楽器なのだ。
話の中には商取引もIT関連も無い。恋愛も、強い憎悪や不快も無い。今っぽい風景が何も無い。最近の小説に必ず存在するそうしたファクターはことごとく周到に排除されている。
また最近流行りの言葉である 「自分探し」 でもない。自己は最初から確立している。仕事に興味を持ち、どうしたら良い仕事ができるかということ、いやいややっている仕事ではないこと、そして仕事をすることとは、人間としてどう生きるかということなのである。それはいわば 「真 (まこと) の仕事」 である。清潔さ、潔癖さ、そして静謐さが全てを支配している。

羊はピアノの弦を叩くハンマーの先の羊毛を圧縮したフェルトをあらわし、鋼はピアノの弦、そしてそれを支える強固な枠をあらわす。森は、そうした素材で作り上げられるピアノの音をあらわすが、同時にそれは外村の育った北海道の森であり、真の音と音楽を求めて彷徨う森であり、そして社会であり世界である。
登場人物は、板鳥宗一郎と双子の佐倉和音、佐倉由仁の3人を除いて、すべて苗字だけで語られる。主人公の外村でさえ、下の名前が明示されない。外村の弟は、単に弟と書かれる。

これらの登場人物の苗字は、外村、板鳥、柳、秋野、そして営業の諸橋、バーのピアニストである上条など、すべて文字の中に 「木」 が入っている。双子の苗字である 「佐倉」 は、実は 「桜」 の言い換えである。木はそれぞれが人であり、木が集まれば森になる。だから森が社会であり世界なのだ。
それ以外の人たち、濱野、江藤社長、事務員の北川、担任の窪田は、全て水や草、つまり自然をあらわす苗字が使用されている。引きこもりの青年の苗字である南という文字の上部分の 「十」 は草の象形である。

そうした禁欲さは音楽に関しても同様に履行される。小説のなかに出てくる曲名は3曲しかない、ショパンのエチュード、子犬のワルツ、結婚行進曲である。エチュードも何番のエチュードかは明かされない。つまり具体的な音楽 (曲目) の情報はほとんど無いのである。無いというより、わざと排除されているのだ。

柳は外村に教えるのに、よく比喩を使う。外村は柳の比喩はわかりにくいと思う。ところが後半で、外村の印象的な比喩が語られる。

 「天の川で、かささぎが橋になってくれるっていう話がありますよね。
 ピアノとピアニストをつなぐカササギを、一羽ずつ方々から集めてくる
 のが僕たちの仕事なのかなと思います」 (p.211)

そして、

 カササギは最後の一羽まで揃わなきゃいけない。一羽でも足りないと、
 一羽分よりもっと大きな隔たりが空く。カササギが足りなかったら、最
 後は大きな溝を跨ぐのか、跳び越えるのか。(p.211)

事務員の北川は 「外村くんってほんとロマンチストよね」 と言って揶揄する。
それは 「木は木でしかない」 と言っていたはずの森の住人であった外村の、自覚しないままの逆襲でもあるのだ。外村の比喩でいう鳥とはメシアン的な鳥とは違う意味の鳥である。あるいは田村隆一が提示した哲学性の中での鳥かもしれない。メシアンの鳥は、その声の模倣であると同時に比喩でもあるが、この小説の中の鳥は、森とその森の従属物としての鳥である。それは自然に対する根源的畏怖であり、あるいは信頼である。

     *

昔の楽器店は、つまり私の子どもの頃は、小さな町にある小さな楽器店はこのような雰囲気だった気がする。マスプロ化した今の楽器店にはない品性のようなもの、音楽的な気品、それは気取っているのとは違う、何か音楽をすること (演奏すること、聴くこと) の喜びのようなもの、そして音楽を大切にしたい矜恃のようなものであったことを思い出す。
それはもはや手垢のついてしまった 「昭和の香り」 などといったノスタルジックな表現とは別種のものだ。きっと今でも、世俗にまみれていないこうした町が日本のどこかに存在していることを私は夢見る。


余聞:先日、ウチにピアノの調律が来たのでこの小説のことを話題にしてみたら、大変興味深い話を聞いた。だが絶対口外してはいけないということなので、それにごくローカルな話でもあるので、残念ながら書くことができない。


宮下奈都/羊と鋼の森 (文藝春秋)
羊と鋼の森 (文春文庫)

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