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ノスタルジア ― 諏訪内晶子の弾く武満徹 [音楽]

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Akiko Suwanai

このまえの日曜の夜 (4月22日)、NHK2の《クラシック音楽館》をたまたま見た。
N響定期の録画であり、武満徹の《ノスタルジア》(1987) と《遠い呼び声の彼方へ!》(1980)、そしてワーグナーの指輪の管弦楽曲集。武満の2曲はどちらもソロ・ヴァイオリンを主体とした曲であるが《遠い呼び声の彼方へ!》がオーケストラであるのに対し、《ノスタルジア》はもう少し編成が小さい。ヴァイオリンは諏訪内晶子である。指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。2018年2月21日のサントリーホールでの収録とある。

私としては諏訪内晶子を久しぶりに見た (というか聴いた) ような気がするのだが、何となく以前とは雰囲気が変わっているような印象があって、それは年齢を重ねたから安定してきたとか巨匠風になってきたとかいうようなことではなくて、何と言ったらいいのだろうのか、つまり安心して聴ける演奏であったように思う。
だが、それよりも私が聴いていて感じてしまったのはもう少し異なる一種の違和感であって、これはごく個人的な感想に過ぎないのだが、音楽に対しての没入感があまり得られなかったことにあったのだ。諏訪内のテクニックとか表現に問題があるのではない。では何かというと、むしろ曲そのものに対する私の感覚が変わってきたのではないかということに思い当たった。

武満徹は20世紀を代表する日本の現代音楽作曲家であり、世界的にも一定の評価を得ている。作品の形式は多岐にわたるが今まで私はそれらを万遍なく武満として、いわば一枚岩のようにして捉えていたと認めなければならない。だが実際には、ストラヴィンスキーほど極端ではなくても、作風は時とともに変化するものである。
具体的にいえば、《遠い呼び声の彼方へ!》は武満のネオ・ロマン派的作品の嚆矢のようにも言われる。それまでの、調性的な音楽への反逆というべき敵対的な視点から、むしろ調性への歩み寄り的な柔軟な路線へと次第に傾斜していったこと、そして最初の頃は西欧伝統音楽のメソッドのなかに、わざと東洋 (日本) の、機能的にも違和感のある楽器を投入することによって音楽的ダイナミクスを得ようとしていた意欲から遠ざかり、ごく通常の西欧的楽器を用いて、西欧的作曲技法のなかで自分なりのオリジナリティを出していこうとする方向性に変化していったことがあげられる。
その区切りが《遠い呼び声の彼方へ!》だというのだが、その徴候は《カトレーン》(1975) あたりからあったのではないかと私は思う。音は豪奢でリッチだったがそのなかにかすかな空虚さがあった。

立花隆の武満徹論を読むと、その後半になるにつれて、なんとなく文章構成自体の求心性が失われてゆくような印象を受ける。それは立花が取材をしながら書いている途中で武満が亡くなってしまったため、不完全なかたちになってしまったのをなんとか補足して形成させたというようなニュアンスで説明されているが、私の感じたままをいえば、後期の作品になるにつれて、立花の武満作品に対する評価が次第に留保付きのような感じになってしまっていったのではないだろうか。
もちろんこれは私自身の感覚でしかないが、たしかに後期になればなるほど、その作品の音楽様式的完成度は上がって、より美学的感興を得られるようになっていったのにもかかわらず、原初的なパッションは反比例して減少していったのではないか、と思うのだ。つまり予定調和的でどことなくデジャヴであり、音楽としての発見が稀薄だ。

立花の武満論を読んでいて感じられるのは、若い頃から伝統的音楽作法に逆らって、木に竹を接ぐようにして和楽器を西欧楽器群のなかに入れてソロ楽器として扱ったという方法論の究極の作品が《ノヴェンバー・ステップス》であり、逆にいえばそこがひとつの到達点であって、そこで 「やりきってしまった感」 があったのではないかというふうに解釈できる。
そこまでの苦難の登り坂を描写する立花の筆致は冴えているが、一定の成功に達した後の描き方は少しくすんで曖昧なカラーリングを施されているようにも見える。そしてそうした立花の解釈から感じられる感想は、私がもともと直感的に感じていた感想でもあるのだ。

《ノヴェンバー・ステップス》はがむしゃらに書いただけ怖いもの知らずでいきいきとしているが、逆にいえばその闇雲感がカッコ悪いという美学も成り立つ。それは卑俗な喩えでいうのならば、有名になった女優やタレントが肌の露出のある服装をしなくなったり、お笑いから出発した芸人が俳優として成功するとお笑いを辞めてしまったり、ハイソサエティなふうに自らを装おうとするのと通底した感覚であるともいえる。

YouTubeを探していたら諏訪内晶子の弾いているヴァイオリンとピアののための《悲歌》(1966) という作品があって、音としてはアヴァンギャルドで今の感性からするともうダサい部分があるのかもしれないが、でも私には《ノスタルジア》よりも《悲歌》のほうが前向きで逞しくてヴィヴィッドであり、シンパシィを感じるのである。

とはいってもタケミツ・トーンといわれる精緻な音作りは終生変わらなかったし、そのクォリティは驚くべきものがあったのだと思う。ただ、批判的な目ということなのではないが、なんでも同じように聴いてしまうというのでなく、ひとりの作曲家のなかに生じている微妙な差異に対して自分の好みが明確になってきたのは、リスナーとしての微細な進歩なのではないかと自画自賛的に思うのである。
というよりももっと素朴に考えて、ロックバンドや新進の小説家の処女作にこそ、その全てが詰め込まれていてもっともテンションが高いというのに似て、売れない頃の成り上がるためのパワーこそが私の興味を引き付けているのに過ぎないのかもしれない。

武満の《ノスタルジア》には 「アンドレイ・タルコフスキーの追憶に」 というサブタイトルが付いているが、それはタルコフスキーの同名タイトルの映画でもあり、タルコフスキーの作品から醸し出される懐かしいもの、あるいはよそよそしいものへのオマージュでもある。

武満の音は日本的な美学になぞらえて墨絵のようなとか水彩画のようなとか、流動的な比喩でよく語られるが、それは同時に構成力の弱さを物語ってもいる。それはある時の一瞬を切り取ったような一回性の断片であり、バッハのような壮大な伽藍建築の迷路のような、整然としていて、かつ威圧的な構築性はない。
だが初期の作品、たとえば《弦楽のためのレクイエム》のような曲には、スタイリッシュになってしまった後期の作品にはない何かが潜んでいる。


諏訪内晶子/シベリウス&ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲
(ユニバーサル ミュージック)
シベリウス/ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲




諏訪内晶子/武満徹:悲歌
https://www.youtube.com/watch?v=gm0oOib5UXQ

Michael Dauth/Toru Takemitsu: Nostalghia ― In Memory of Andrei Tarkovskij
https://www.youtube.com/watch?v=CoKHj1-fFF8
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深い河、池袋の西 —『Coyote』特集 森山大道を読む [アート]

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森山大道の撮った宇多田ヒカル (natalie.muより)

『Coyote』64号の特集は森山大道、そして『SWITCH』5月号は宇多田ヒカルの特集。黒の表紙と白の表紙を一緒に買ってきた。発行元は同じなのでセットになっているようにも思える。
森山と荒木経惟の対談は、本人たちも言っているようにそんなに内容は無い。のっけから荒木は 「もう会って話すことって言ったら無いじゃん」 という。話すことより、まずお互いの写真があってそれが全てなのだ。

でもそういいながら、お互いをヨイショしているような、その無駄話のような話が結構面白い。若い頃の2人の立場の違いが、それぞれの個性となっていったのかもしれない。
それよりその後のページに掲載されている森山の〈池袋の西〉というタイトルの写真群に引き込まれる。森山が住んでいる池袋のスナップということなのだが、クリアで深い闇のあるカラー写真と、同様にクリアなモノクロ。1ページに多くの写真を詰め込み過ぎて、もっと大きなサイズで見たいと思ってしまうのだけれど、この圧倒される感じに池袋の今がある。
フェリーニの《8 1/2》に出てくるサラギーナに似た路上生活者のおばさんという森山の形容に、かわらない文学的な香りが通り過ぎる。

荒木の話は時として韜晦に傾いてしまうことがあるが、そのトークと表面的なエロさが彼の本質を隠す働きをしているのかもしれない。だがそれはごく薄いヴェールに過ぎない。雑誌の最後のほうに掲載されている月光荘のスケッチブックに貼られた、たった1冊だけの写真集には、若き日の姿がうつしだされている。
篠山紀信などの名前が表札のように書かれた階段の入り口 (おそらく事務所) で、二眼レフ (おそらくローライ?) を持って佇む荒木の姿がカッコイイ。それはすぐ上にレイアウトされた陽子さんの写真と対比されている。

『SWITCH』の表紙は宇多田ヒカルの雪の中の写真なのだが、雑誌の中程とそして巻末に、2002年に森山が撮った宇多田が掲載されている。アルバム《DEEP RIVER》の頃、19歳の彼女のポートレイト。モノクロームのポジとのことであるが、これらもまた漆黒の影とクリアな質感が、特に黒みの面積の多さが美しい。黒は深く濃密だ。
でもまだ内容はほとんど読んでいないので、パラパラと見てみた感想でしかないのだが。

その他の本や雑誌の話題など。
『SFが読みたい! 2018年版』を見たら、ここでクリストファー・プリースト『隣接界』が1位になっていたのだった。実は私はプリーストがちょっと苦手である。『夢幻諸島から』も一応読んだけれど、それなりに面白いとは思うのだが、でもそんなに良いかな? という感じがしてしまうのはなぜ? (『夢幻諸島から』については→2013年10月16日ブログ参照)。
最近、やたら本屋大賞が騒がしいので仕方なく買ってみた。ステファニー・ガーバーの『カラヴァル』だけれど、ほとんどジャケ買いに等しい。でも増刷に付いた帯の吉岡里帆で買ってしまう人もいるんだろうなぁ。ピーター・トライアスも続編が出てしまったので買ってきたけれど読む時間が無くて全然消化しきれていないのが困ったものです。もうすぐ出るという高野史緒の新作に期待。


Coyote No.64 (スイッチ・パブリッシング)
Coyote no.64 特集 森山大道




SWITCH 5月号 (スイッチ・パブリッシング)
SWITCH Vol.36 No.5 特集:宇多田ヒカル WHERE IS YOUR SWITCH?




クリストファー・プリースト/隣接界 (早川書房)
隣接界 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)




ステファニー・ガーバー/カラヴァル 深紅色の少女 (キノブックス)
カラヴァル(Caraval) 深紅色の少女

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川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』を読む [本]

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ここのところ忙しくて、というより単にいろいろな雑事その他もろもろが山積しているので単に気ぜわしいだけなのかもしれないのだが、本もろくに読んでいないし、それより以前に全然書店に行っていないことに気がついた。
それでなんとか時間を作ってこの前、本を買い出しに行った。買い出しという死語がすごいね。J・G・バラードの短編全集が完結してしまって、すでにその書評まで読んでしまった後なのに今さらなのだけれどとりあえず揃えておこうと思って、それと新潮社のナボコフの出ている分 (ロシア語からの翻訳というのが特徴。そして最後に増補版ロリータもあり) と、ハヤカワのSF銀背の新刊2冊 (クリストファー・プリーストとケン・リュウのアンソロジー) と、須賀敦子の詩集と萩尾望都のエッセイと文庫になった『羊と鋼の森』と、そして川上未映子の新刊と雑誌を数冊。雑誌は私のなかでは本としてカウントしてないんですけど、でもなにはともあれ重い。
川上未映子の新刊は書店にサイン本が山積みでした。なんか芸能人してるなあ。

さて『羊と鋼の森』はすぐに読んでしまったのですが、今回の話題は新刊の川上未映子、表題作の 「ウィステリアと三人の女たち」 です。
主人公 (わたし) は主婦で、結婚して9年経つ。結婚してから3年後に今住んでいる家を買って、それから子どもができないということに対して真剣になり始めるのだが妊娠しない。夫とそのことについて話し合うが、2人はすでにすれ違い始めている夫婦であり、夫は不妊治療などという言葉に対して嫌悪感を示す。
さて彼女は、向かいの大きな家が壊されていくのを毎日見ていて、そこには老女が住んでいたような記憶があるが詳しいことはわからない。藤の木が切り倒されたことから、毎年その藤の花びらを老女が掃き集めていたのを思い出す。
家の取り壊しは途中で止まってしまい、工事の人間もやって来ないある日、その壊されかけた家を見ている女を見つける。女は黒いワンピースを着ていて腕が長い。女はわたしに話しかけてくる。女は空き家に入るのが好きなのだという。人のいなくなった家でも部屋でも、夜、そのなかでただじっとしているのだという。だがこの家は、気がついたときにはすでに取り壊しが始まっていて間に合わなかったのだという。
週末、夫が接待ゴルフに出かけていった日の深夜、わたしは半分取り壊された家に入ってみる。光の入り込まない真っ暗な部屋があり、そこでわたしはその家に住んでいたと思われる老女の若い頃のことを思い浮かべる。若い頃、彼女はその広い自分の家で、偶然出会ったイギリス人の女性と一緒に英語塾を始めた。彼女の母親はおらず、父親に育てられ、そして彼女は結婚することはなかった。英語塾は繁盛し、生き生きとした毎日を送る。だが彼女はある日、イギリス人の女性に恋していることに気づく。しかしそのことを打ち明けることができない。やがてイギリス人の女性は、母親の身体の具合が悪くなり、介護をするため母国に帰って行く (以下、結末部分のあらすじは省略)。

というような記述が続くのだが、それは壊されかけた家の真っ暗な部屋の中でのわたしの幻想なのである。この幻想に入って行くところがうまい。するっと自然に舞台がかわる。幻想の中の二人 (若い頃の老女とイギリス人女性) は塾が始まるまでの時間、一緒に昼食をとり音楽を聴く。繰り返し聴くのがベートーヴェンの第32番のピアノソナタ。その第2楽章を二人は何度も聴く。そして彼女の愛読書はヴァージニア・ウルフだ。

 彼女が夢中になったのはヴァージニア・ウルフだ。辞書を片時も離さず
 難解なウルフの文章の息遣いと、それらが編み上げる、一度としておな
 じ影を落とさない美しい模様を苦労して、何年もかけて読み込んでいっ
 た。(p.151)

藤の木と32番ソナタとヴァージニア・ウルフ、これがいわば3つのキーワードとして作用している。32番のソナタはベートーヴェンが最後に書いたソナタで、この頃、ベートーヴェンの耳は完全に聞こえていない。そして最後ということだけでなく、後期ソナタの中でこの32番は特殊だ (たぶん時代的に考えればモノラルのバックハウスあたりがふさわしいのだろうが、下記にはわざとアムランをリンクしておく)。
ウルフは、精神的に不安定な部分を持っていて、そして同性愛的性向も持っていた。それが彼女の性格に反映されているだけでなく、そもそも川上の文体そのものがウルフへのオマージュでありトリビュートに他ならない。ウルフの名前が出る前に、もうそれがわかってしまう。時間的な錯綜が垣間見えるのだが、それはすぐに訂正されていて、それをしなくてもいいのにとも思うのだが、ともかく意識の流れのようでいてそうでもなく冷静さを保っている兼ね合いのバランスに、川上未映子ならではのテクニックが感じられる。完全に無調の音楽のようになって壊れていくことがないのも、死のにおいが感じられるのもウルフに似ている (ヴァージニア・ウルフに関しては→2016年12月03日ブログを参照)。

ネタモトがウルフであるのは、川上のインスタグラムの1月25日にウルフの写真が載っていることからも明らかであり、2月8日の Memories of the lost garden というのは、なんとなくその壊されかけた大きな家を連想させる写真のように思えてしまう。背景が煉瓦塀のようなのだが見間違いかもしれない。

藤の花というと私は亀戸天神を思い出す。この季節に、親戚の伯母が亡くなってその法事に亀戸のお寺に行ったことがあった。それまであまり親しい交流のなかった親戚だったのだが、それがかえって新鮮だったのかもしれない。その帰りに、なぜか亀戸天神に行こうということになった。細かいことをいえばお寺の後に神社ってどうなの、という人もいるのだろうが、なぜか誰もそれを言い出さなかった。だが、その年の気候は暑かったのか、すでに藤の花はなかった。ほとんどその頃のことなど覚えていないのに、そこだけにピントがあったように鮮明な記憶があるのはなぜなのだろうか。それが正確な記憶なのかそれともあとから補塡され修飾された記憶なのかわからない。藤の花びらが散るさまは、桜の花びらよりも冥い。


川上未映子/ウィステリアと三人の女たち (新潮社)
ウィステリアと三人の女たち




川上未映子公式ブログ
http://www.mieko.jp
川上未映子インスタグラム
https://www.instagram.com/kawakami_mieko/

Marc-André Hamelin/Beethoven: Piano Sonata No. 32
in C minor, Op. 111 (live)
https://www.youtube.com/watch?v=cozrfeCQ5mA
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《関ジャム》のパガニーニ [音楽]

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David Garrett (映画《パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト》より)

4月8日の《関ジャム》の特集はヴァイオリンでしたが、これがなかなか面白くて、いつもなら録画しておいて後で観ているのに、リアルタイムで最後まで楽しく観てしまいました。内容的にはヴァイオリンという楽器の基本的な説明や使われ方、有名曲などの解説に対してオバカな質問でごく親しみをもてるようにわかりやすく、というのがコンセプトです。
ヴァイオリンはやはりクラシック寄りな楽器なので、それをどのようにしてポップス系の興味に結びつけるかというのが肝心です。ゲストのヴァイオリニストは、NAOTO、金原千恵子、宮本笑里、石川綾子。この順番は (TVアサヒサイトの順番と違いますが) ポップス←→クラシックの順です。

楽器の説明の場合、たとえばエレキベースのときもそうだったけれど、どうしても内容的にはテクニック偏重になっていく。今回の場合も、その究極がパガニーニになってしまうのは仕方がないのですが、でもわかりやすいといえばわかりやすいです。
そんななかで宮本笑里が、着るならなるべく薄い衣装がいいと言っていたのが印象的でした。生地に音を吸われてしまうのが嫌なんだそうです。だからヴェルヴェットみたいな生地は不可、ストッキングもなるべくなら履きたくないとのことで、つまり肌が出ているほうが良いわけです。
この話からホールの観客の服装についてよく言われていることを思い出したのですが、夏と冬では音が違う。なぜなら冬は布地の面積が広いので夏のように音が反射しないのです。
もちろんホールというのは、そんなことだけで音の良否が変わるのではなくて、そのホールの持っている固有の音 (音響特性) があり、たぶんどのように設計しても数字だけではわからない部分が存在します。昔からある有名なホールは音響構造的には悪いのかもしれないけれど、結局その音のほうが心地よくて、数字的には理想の音の出るはずの近代的ホールがまるで駄目だったりします。

それでテクニックの話では当然パガニーニになるので、いわゆる超絶技巧曲のひとつである《カプリース》へと話題を持って行くために、トリル、ヴィブラートから始まり、ダブルストップなどを経て、スピッカート、リコシェ、ハーモニクス、そして左手ピチカートの説明まで。左手ピチカートは《カプリース》の一番派手な 「見てくれ」 の箇所です (正確にいうと24のカプリース第24番の第9変奏)。

これを弾いている石川綾子のヴィデオが何ともカッコよくて、クラシックなんだけれど完全にポップス寄りな映像づくりとパフォーマンスで、このへんはやはり《関ジャム》なんですから仕方がないといえば仕方がない。でも興味を持ってもらうことのきっかけになるかもしれないことは確かです。だから 「こんなのクダラネェ」 と否定する視聴者だっているかもしれないけど、私は否定しません。
以前の放送でも、二分音符とか四分音符とかそういうごく初歩的なことすら知らないゲストのタレントがいて、そんなの中学校で習うだろ、とは思うんですが知らない人は全く知らない。知らない人は同様に、元素記号だって知らないし、微積分だって知らないし、夏目漱石だって知らない。知らないというより、単に興味がなくて忘れちゃったということなんですけど、でもそれは学校の勉強の教え方が面白くなかったからなんです。
ところが、この番組でいしわたり淳治がJ-popの歌詞のことについて解説すると、かなり微妙なところまで踏み込んでいるのに面白い。学校の勉強とは違うからです。その微妙さのレヴェルは、比較するのがむずかしいけれど、古典の解釈の微妙さなんかと共通した感じもあります。ところが紫式部日記だと興味ないけど、J-popの歌詞という身近なものだとそれって面白い! と興味を持てるようになる。その結果、その興味を持った人の100分の1か1000分の1でもいいけど、もっと微妙な解釈に対して興味を持つ人ができるかもしれない、と思うのです。

そういう一般的傾向からすると私の興味の持ち方は少しズレてるのかもしれませんが、これってどうなの? と他のものと比較したくなってくる。早速まず石川綾子の当該ヴィデオを観てみました (→A)。カッコイイですけどこれはヴィデオですから、やはりライヴで弾いているのに興味は移っていきます。
カプリースで有名どころで古いのだと、まずヤッシャ・ハイフェッツの演奏があって (→B)、これなんか 「どうだすごいだろう感」 ありありなんですが、最近のだと、たとえばマキシム・ヴェンゲーロフのを見つけました (→C)。この演奏では左手ピチカートに拍手が起きます。でも、サーカスじゃないんだから。こういうのがいわゆるヴィルトゥオーソというか巨匠芸ですね。

ところがもっと最近の、ヒラリー・ハーンだと比較的さらっと弾いてしまう。派手なアクションなんか無いんですけれど、かえってその冷徹さがすごい (→D)。これはMidoriなんかにもいえて、ライヴの演奏が見つからなくてスタジオ録音の音ですが (→E)、「だからなに?」 という感じで弾ききっています。
ヴィデオとかスタジオ録音は編集ができるので (もっといえばeditすることすらできるので)、ライヴに較べると難易度評価としては下がるのですが、でも彼女がこれを録音したのは17歳のときです。たぶんナマで弾いても同様に弾けるでしょう。

つまりピアニストの場合もそうですけど、児玉桃なんかもメシアンを軽々と弾いてしまう。むずかしい曲というのは誰かが一度弾いてしまうと、もう難しい曲ではなくなって次々に演奏して録音が出てしまう、というんですね (と誰かが言ってたんだけど誰だか忘れた)。超絶技巧とかいう表現はだんだんと陳腐なものになりつつある。
というよりも、ただむずかしければいいんだという風潮そのものが陳腐になってくれればいいと思うんです。もちろんテクニックは必要ですし、テクニックはあればあったほうが良い。でもテクニックだけでは音楽は音楽として成立しないということが大切で、《関ジャム》の場合は、やっぱり興味を持たせるということが第一義なので仕方がないんですが、結果としてはそこまでは——音楽はテクニックのその先にこそ本質があるという位置にまでは持っていききれていない。けれど、わかる人にはわかるだろうから (というかそれがわからなければ音楽を聴く意味そのものが存在できない)、それだけでも番組の意義は十分にあるのかもしれないと思います。

私は一時、まだアナログディスクの時代に、パガニーニの《チェントーネ・ディ・ソナタ》にハマッていたことがあって、テレベジとプルンバウアーの有名な録音ですけど、ヴァイオリンとギターというのはとても音色的に柔らかくて好きです。パガニーニだって 「どうだすごいだろ!」 ばかりじゃ疲れてしまうはずです。
チェントーネの最近の演奏でパヴェル・シュポルツルのがありましたが (→F)、こういうのが楽興の時というのではないかと思います (今、「がっきょう」 と入力したら 「楽興」 と出て来ないインプット・メソッドを使っている私です。ダメジャン!)。

パガニーニというと奇妙な思い出があります。初期のインターネットで、まだ掲示板での交流が全盛の頃なのですが、ある掲示板 (それは音楽とは全然関係のないジャンルでした) で、「私はヴァイオリニストではナントカさんとパガニーニが一番上手いと思う」 と書いている人がいました。ナントカさんは、名前を忘れてしまいましたが現役のヴァイオリニストです。どうもこの人はパガニーニという名前を誰か他のヴァイオリニストと勘違いしていたらしいんですが、でも誰もツッコまない…… (というより誰もパガニーニを知らないふう)。あのさ、パガニーニをナマで聴いたって、あなた何歳? と言いたかったのですが、なんか自分の言ってることはすべて正しいと思ってるのが言葉の端々に出るヤヴァい人っぽかったのでやめておきました。いまだに謎です。本当にナマで聴いたことのある200歳くらいの人だったりして。


Midori/Paganini: 24 Caprices (SMJ)
パガニーニ:カプリース(全24曲)




György Terebesi, Sonja Prumbauer/Paganini: Violin & Guitar
(ワーナーミュージック・ジャパン)
パガニーニ:ヴァイオリンとギターの音楽第1集(SACD/CDハイブリッド盤)




A)
Ayako Ishikawa/Paganini: Caprice No.24
https://www.youtube.com/watch?v=7axMQQJyHco

B:
Jascha Heifetz/Paganini: Caprice No.24
https://www.youtube.com/watch?v=vPcnGrie__M

C:
Maxim Vengerov/Paganini: Caprice No.24
https://www.youtube.com/watch?v=hsJdLv38fy8

D:
Hilary Hahn/Paganini: Caprice No.24
https://www.youtube.com/watch?v=gpnIrE7_1YA

E:
Midori/Paganini: Caprice No.24 (音のみ)
https://www.youtube.com/watch?v=nCHSdNzo8ek

F:
Pavel Šporcl, Vladislav Bláha/Paganini: Centone di sonate N. 1
https://www.youtube.com/watch?v=n3l0IYRxRlQ

映画《パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト》より
https://www.youtube.com/watch?v=YCsVEsQlm7o
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niceが見えません [雑記]

昨日のメンテナンス後からniceが見えません。
自分の記事のniceが見えないため、
どなたからniceを付けていただいているのか確認できません。
こちらから行ってniceを付けることはできるのですが。

こんなことは初めてですが、
ソネブロはメンテナンスをすると必ずそれ以降、
使い勝手が悪くなります。
なんとかならないのでしょうか?
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レリーズとセキュア — カードキャプターさくら・クリアカード編 [コミック]

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この週末は桜がちょうど満開で、まさに桜吹雪となって散りつつある。あたたかい場所の桜はもう葉桜だ。
スマダンの記事のなかにCCさくらのことが書いてあって興味深く読んだのだが、TVアニメのクリアカード編の第1回も、桜吹雪のなかを登校して行く中学生になったさくらから話が始まる。

スマダンの記事は的確で、まさにクリアである。さくらは 「変身しない魔法少女」 であること。小狼 [シャオラン] が同性に恋をするのが描かれていること。そして 「知世のさくらへの愛着と献身は、どこか友達の域を超えている」 ことなどが指摘されていて、そして何よりもCCさくらがこれだけ人気になったのは 「しっかりと子供向けに作られ」 ていたことだとするのである。

カードキャプターさくら (略してCCさくら) はCLAMPのマンガで、それを原作としたTVアニメ、劇場用アニメなどが作られた。TVでは現在、クリアカード編を放送中である。
CLAMPの作品のなかでCCさくらはカリスマ的人気があるが、それは子ども向けなのにもかかわらず、すべてが丁寧に作られていて、しかも考えようによっては深い意味を持っていることだ。そのとらえかたはいろいろあり、そのどのようにもとることのできることがCLAMPのマジックである。

スマダンの記事では、CCさくらの最も斬新な特徴として、さくらが 「変身しない魔法少女」 であることをあげている。基本的には、セーラームーンを代表とする 「変身する少女」 だけでなく、各種のヒーローものは変身することによって成立していることが多いが、さくらは変身しないのである。さくらの変身は変身でなく、さくらの最も親しい友人である大道寺知世が作ってくれる衣裳にいつも着替えることによって成り立っているのだ。
この 「「着替える魔法少女」 という、お約束を逆手に取った設定」 は、つまりヒーローものの原点であるスーパーマンに近い。だが着替えをするスーパーマンも、変身するウルトラマンや 「変身する魔法少女」 たちも、原則的にいつも同じ衣裳であるのに対し、さくらはそのときそのときで違う衣裳なのだ。それは知世が、さくらを着せ替え人形的に利用して自己満足しているというふうに考えられなくもない。だがそれよりも知世はさくらの絶対的なファンなので、いかにかわいい衣裳をさくらに着せてそれを映像に撮るということを含めての作品を作りたいという目標があり、一種の絶対的なファッションを含めた総合デザイナーなのである。

それは単純な愛とか献身だけではできないし、もちろん知世の自己満足であるという結論だけでは解決できないのだ。知世は単純に 「さくらちゃんに私の服を着せることが幸せ」 という能天気さを装っているが、そのなかに、例えば『ちょびっツ』におけるちぃと柚姫の関係性のアナロジーを感じるのである。
もちろん知世は小学生の読者/視聴者にとってはさくらの理想的な友人としてとらえられているのに違いないし、知世がコンプレックスのような表情を見せることはないが、もう少し深読みすれば、さくらが見落としているかもしれない世界への視点に対して最も深い洞察力を持つバイプレーヤーであることは確かだ。そして柚姫ほどダークではないし、常に能動的である分、より複雑な人格として設定されていることが読み取れる。

さくらのいわゆる守護天使であるケロちゃんは、さくらに対しては大阪弁のユルいペットのような外見をしていて、でも一般人に対しては単なるぬいぐるみを装っている。ケロちゃんの本質はケルベロスであり、クロウカードの守護者でもあるが、ギリシャ神話のケルベロスは冥府の番犬であり、ケロちゃんが、ごくたまに本来の姿を見せるのでもわかるとおり、その本性は果てしなく暗いはずである。それをケロちゃんとしてカムフラージュしてしまうところがCLAMP仕様なのである。
これが 「しっかりと子供向けに作られ」 ているひとつの例であり、ケルベロスが何かを識っていればその意図するところもわかるはずだ。

クリアカード編第1回の桜吹雪の中を出かけて行くさくらと、桜の花吹雪による自然の美しさ (それは少し怖いほどの美しさという面をも内包しているのだが) のシーンから、私はなぜかグリーンゲイブルズに赴くアン・シャーリーを連想してしまった。CCさくらは単なる登校のシーンに過ぎないのであり、アンの自然観察を含めた心の動きの描写ほどの複雑さはもちろん無いが、新しい環境に入って行く期待や不安、好奇心という面では一緒である。そしてまた、さくらが中学生になって、今までより少し大人びてきたこととも無縁ではない。

ところで『赤毛のアン』についてサーチしていたら、その冒頭にハンノキの出てくる描写があるというブログ記事を見つけた。この部分である。

 アヴォンリー街道をだらだらと下って行くと小さな窪地に出る。レイチ
 ェル-リンド夫人はここに住んでいた。まわりには、ハンノキが茂り、
 ずっと奥のほうのクスバート家の森から流れてくる小川がよこぎってい
 た。

 Mrs. Rachel Lynde lived just where the Avonlea main road dipped
 down into a little hollow, fringed with alders and ladies’ eardrops
 and traversed by a brook that had its source away back in the
 woods of the old Cuthbert place;

ハンノキは alders であるが、アルダーは家具材であり、エレクトリック・ギターのボディにも使われる木材である。だが私がハンノキという言葉に反応するのはル=グィンの『ゲド戦記』の冒頭にもハンノキが出てくることを思い出すからである。

 ハイタカはゴント山の中腹、“北谷” の奥の “十本ハンノキ” というさび
 しい村で生まれた。

 He was born in a lonely village called Ten Alders, high on the
 mountain at the head of the Northward Vale.

どちらも小説の冒頭の自然描写であるが、偶然であるにせよどちらもハンノキというのが興味深い。正確には『赤毛のアン』は alders and ladies’ eardrops (ハンノキとフクシア) であるが。

CCさくらにおけるさくらのキメ・フレーズは 「レリーズ」 (release) である。さくらが封印を解くときに発せられる言葉だが、クリアカードでは逆に封印をするための夢の杖が存在する。その杖による封印の言葉は 「セキュア」 (secure) である。
『遊戯王』のアルティメット (ultimate) などもそうだが、子どもが意外な英語を知っていたりするのは、アニメとかゲームによるものが多かったりする。


CLAMP/カードキャプターさくら クリアカード編 (1) (講談社)
カードキャプターさくら クリアカード編(1) (KCデラックス なかよし)




カードキャプターさくら クリアカード編 第1話
http://www.nicovideo.jp/watch/151513773
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