SSブログ

エリック・ドルフィー《Out to Lunch》 [音楽]

dolphy_copenhagen1961_190223.jpg
Eric Dolphy, Copenhagen 1961 (npr.orgより)

エリック・ドルフィー (1928-1964) の《Out to Lunch》は彼のセッション・アルバムの中で最も整合性があり、完成度の高い録音だと思われる。思われるなどと曖昧な言い方をしないで、録音である、と断定してしまっても差し支えない。その《Out to Lunch》を2019年2月13日に発売された最も新しい国内盤で聴いているのだが、+2のalt takeさえ実は初めて聴いたのである。

ドルフィーのFM盤《Conversations》とDuglas盤《Iron Man》にプラスアルファしたResonance盤《Musical Prophet: The Expanded 1963 New York Studio Sessions》が発売されてから随分経ってしまって、いまだにそれについてなかなか書くことができないのだが、このセッションの基本は1963年7月1日と3日の録音であり、さらに1964年3月2日の〈A Personal Statement〉のalt takeが収められているというのが目玉である。
Jazzdisco.orgのディスコグラフィに拠れば、同曲は〈Jim Crow (aka A personal Statement)〉と表記されていて、March 1 or 2, 1964となっているが、《Musical Prophet》で3月2日と確定されているのならそうなのだろう。つまり《Out to Lunch》より数日後の録音ということである。

なぜResonance盤などのプロモーションが《Out to Lunch》にこだわるのかといえば、それ以前におけるドルフィー名義の、つまりリーダー・アルバムはこのResonance盤の基本になっている《Conversations》と《Iron Man》なのであり、そこから《Out to Lunch》(1964年2月25日) まではすべてサイドメンとしての録音しかないのだ。そしてその後のリーダー・アルバムといえば1964年6月2日の《Last Date》なのである (正確にいえばその1日前の6月1日にCafe De Kroon, Eindhoven, Netherlandsでの〈Epistrophy〉が1曲だけある)。ドルフィーの録音歴のなかで際だって重要であるアルバムからこそ《Out to Lunch》の名称が繰り返し使われるのだろうと思われる。
リーダー・アルバムがどうして重要かというと、はっきり言ってしまうとたとえばコルトレーン・グループにおけるドルフィーはあくまでもコルトレーンを引き立てるための役割でしかない。コルトレーンとドルフィーのコンセプトはかなり異なる。ただドルフィーは合わせるのが上手いから合わせているだけで、私はコルトレーン・グループでのドルフィーは 「所詮、お手伝い」 というふうにしか聞こえないのである。

さて、今回の国内盤はライナーノーツの翻訳が載っているのだが、正直言ってライナーノーツなんてそんなに真面目に読んでいなかったということを思い知らされた。いや、読んでいたのかもしれないが、ともするとライナーノーツなんて、ありきたりなことしか書いていないからという先入観だけで読み飛ばしていたのかもしれない。
A. B. Spellmanのライナーに拠れば、ドルフィーはオーネット・コールマン的な反逆のミュージシャンとして認識されていて、

 いわく彼は無用の繰り返しが多く、大げさで、美しいメロディを持たず、
 頑迷なほど抽象的である。(行方均・訳 以下同)

と非難されていたというのだ。もうボロボロで言われたい放題であるが当時のミュージック・シーンだとそんなものだったのだろう。

《Out to Lunch》というアルバムの特徴はピアノレスであって、その代わりにヴァイブのボビー・ハッチャーソンが入っている。このヴァイブの音がこのアルバムの全体的なテイストを決定づけているといっても過言ではない。
ドルフィーはハッチャーソンのヴァイブについて 「ピアノより自由で解放的なサウンド」 であると言っているが、つまりピアノによる和音が、音楽をスクエアにしてしまうという意味あいがあったのではないかと感じる。
普通ならあるはずの楽器が無いという組み合わせを考えると、たとえば山下洋輔はずっとピアノ、サックス、ドラムというベースレスでトリオを形成していた。これはおそらくベースによるリズムの支えみたいなものが重く感じられたからではないかというふうに類推する。また昔のピアノトリオは、ピアノ、ギター、ベースというようなドラムレスのことがあったが、それもドラムによるリズムのきっちりとしたキープが邪魔だったのかもしれない。ビル・エヴァンスとジム・ホールのデュオはその考え方の延長線上にあるように思う。

ある程度の和音を発生させるがでもピアノとは異なる、というふうにハッチャーソンのヴァイブを位置付けた場合、このリズムセクション、つまりリチャード・デイヴィスとトニー・ウィリアムスという3人は非常に強力である。
トニー・ウィリアムスのプレイに対するドルフィーの形容で注目すべきなのは、タイムとパルスという対比である。

 「トニーは拍子 [タイム] を刻むのではなく、波動 [パルス] を送る」
 ”Tony doesn’t play time, he plays pulse.”

さらにタイトル・チューンである〈Out to Lunch〉についてはさらに詳しくこの概念が語られている。

 「彼は拍子 [タイム] を刻まず演奏している。たとえリズム隊が拍子を放
 棄しても、根本的な波動 [パルス] が曲の内部から訪れる。この波動こ
 そミュージシャンが演奏すべきものだ」
 “He doesn’t play time, he plays. Even though the rhythm section
 breaks time up, there’s a basic pulse coming from inside the tune.
 That’s the pulse the musicians have to play.”

ドルフィーはタイムとパルスとは異なるというふうに考えているのだ。タイムはキープするものだが、パルスは音楽に本来から内在されているもので、それをかたちづけるのがドラマーの役目である、と言いたげである。
この表現はブログの前記事に書いたモートン・フェルドマンのmeterとrhythmの概念によく似ている。フェルドマンはリズムでなくメーターだと言っていたが、使っている単語こそ異なっているが、「拍動」 (と、わざと異なった単語を使ってみるのだが) は作り出すものでなく、音、というか生成された音楽に本来備わっているものなのだということを言いたいのではないだろうか。

さて《Out to Lunch》の+2のalt takeなのだが、追加されているのは〈Hat and Beard〉と〈Something Sweet, Something Tender〉である。Jazzdiscoを見ると〈Hat and Beard〉は1310 tk.10、〈Something Sweet, Something Tender〉は1311 tk.12となっていて、最後の〈Straight Up And Down〉が1313 tk.21と表記されている。このtkという記号の後の数字はおそらくその日のトータルなテイク数で、つまり21プラスアルファの演奏をしたのだと思われる。その中で選ばれたのがマスターテイクであって、それぞれのテイク数に関しては不明である。
聴き較べてみるとマスターテイクのほうが当然良い演奏であるが、alt takeは少し攻め気味のアプローチであって、滑らかさが不足して棘があるように聞こえる部分がかえって新鮮で、各テイクのレヴェルの高さが感じられる。〈Hat and Beard〉のalt takeは1’17”あたりでドルフィーが一瞬出てしまうのがキズだと解釈されているのだろうが、それ以降のソロはマスターテイクよりもチャレンジングな印象を受ける。ドルフィーがソロに入った直後のトニー・ウィリアムスの反応もスリリングだ。テイク数がこれだけあるのだから (最小で21テイクだとして、5曲あるから各曲平均して4テイクはあるはず)、できれば全てのテイクが聴きたいくらいのクォリティである。ブルーノートならマスターは残っているのではないかと思う。コンプリート盤の需要はきっとあるはずだ。

このアルバムがリリースされたのは1964年8月であったが、そのときすでにドルフィーはこの世にいなかったのだと解説にある。だが製造過程で間に合わなかったのか、ライナーノーツにそのことは何も記されていない。


Eric Dolphy/Out to Lunch! (ユニバーサル ミュージック)
outtolunch_jk_190223.jpg
www.amazon.co.jp/dp/B07KZG7DQB/

Eric Dolphy/Hat and Beard
https://www.youtube.com/watch?v=7tnPkQufnZY
nice!(96)  コメント(4) 
共通テーマ:音楽