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戸田山和久『教養の書』を読む・その2.03 [本]

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Fahrenheit 451

第5章のタイトルは〈「読書の意義は何だろう」 ということを教養の観点から考え直してみる〉であり、ここでとり上げられている映画がフランソワ・トリュフォーの《華氏451》(1966) である。戸田山はこの映画を焚書映画の最高峰と言っている。ちなみに第2位は《ザ・デイ・アフター・トゥモロー》(2004) で、それについては第4章で解説されているのだが省略 (邦題つけるとき 「The」 を取るんじゃない、と戸田山先生が書かれているので 「ザ」 を付けておきます)。
《華氏451》はレイ・ブラッドベリ原作のSF映画であるが、SFらしい風景やメカニックな機器などは一切出てこない。その精神性がSFなのであり、そういう意味ではジャン=リュック・ゴダールの《アルファヴィル》(1965) と同じだ。ディストピアを描いているという点でも共通している。

以前、私はこのブログ記事に電子書籍イチオシに対する考えを書いたことがある。

 最近のそうした出版界の動きを見ていると、そのうちに紙でできた本を
 持つことが禁止される時代が来るかもしれない、と危惧してしまうほど
 のヒステリックさである。まるでファシズムを連想するほどである。や
 がて 「華氏451」 のような時代が来るのかもしれない。

幸いなことにこの2020年の段階で本はまだ禁止されていないが、書籍に限らずペーパーレスへの信仰は増大するばかりである。全く紙を使わないのを教義としている某大手コンピュータ会社があるが、その会社のPCを使いながら言うのは矛盾しているのかもしれないけれど、私はその会社が嫌いである。昔は良い会社だったのに。
そんなことはどうでもいいとして (ホントにどうでもいいので、この会社についてのコメントは不要である。あっても削除します)、戸田山和久はこの映画の中の世界における全体主義思想を次のように解説している。

 読書を禁じる理由は映画の中で明快に語られる。「われわれはみな似た
 ようでなければならない。万人が同じになる。これがただ一つの幸福へ
 の道だ」。あるいは 「考える隙を与えるな。幸せでいられる」。本を読む
 とものを考えるようになる。余計なことを考えるようになると、悩みが
 増えて不幸になる。それだけではない。政府の言うことを疑ってかかる
 ようになったり、自分はみんなとは違うと考えるようになったりする。
 こういう連中は、支配 [コントロール] しにくくてかなわん。いわゆる
 「愚民政策」 ね。(p.82)

《華氏451》の世界では本を隠し持っている人は反社会分子として弾圧され、消防士のような外見をした焚書官が隠された書物を押収して、皆の見ている前で火炎放射器で焼却する。
主要な登場人物は主人公である焚書官ガイ・モンターグ (オスカー・ウェルナー)、その上司であるキャプテン (シリル・キューザック)、そしてモンターグの妻リンダ (ジュリー・クリスティ) である。モンターグは職務に忠実な焚書官であるが、あるとき、魔がさして (?) 押収した本を読み、焚書に疑問を感じるようになる。そんな夫を妻リンダは密告する。
ある日、モンターグが現場に出動するとそれは自分の家の捜索であった。隠していた本が押収され焚書されようとするが、モンターグはそれに抵抗して火炎放射器でキャプテンを焼き殺してしまう。彼は指名手配されるが逃亡し、森の中でブックピープルと出会う。

このディストピアに見える世界の中では、人々は幸せに暮らしているのだと強制的に思わされていて、妻のリンダとその友人たちは毎日家でパーティーを開き、インタラクティヴなTVを見て過ごしている。それが面白いことだと信じ込まされているらしいのだがどうみても面白いとは思えない。唯一、未来的な情景として出てくるのがモノレールだが、車内の乗客たちの表情は暗く、すぐれない。

モンターグが生まれて初めて本を読むシーンで使われるのがチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』である。その冒頭で主人公は 「ぼくはある金曜日の夜、十二時に生まれた」 と言うのだが、これについて戸田山は、モンターグが本を読んでいるのは、おそらく一週間の勤務が終わった金曜日の真夜中であり、それがこのディケンズの冒頭の言葉と響き合っているのだ、という。「モンターグは読書を知ることによって生まれ変わる」 のだということなのである。(p.86)
モンターグという名前はドイツ語の Montag、つまり月曜日であり、憂鬱なブルーマンデーの月曜日である。職務に忠実な性格をあらわしているのだと戸田山は指摘するが、それだけでなく、彼の無知と、日常生活の根本にある拭いきれない憂鬱を含んでいるはずだ。ロビンソン・クルーソーに出てくるフライデーという名前と、まさに対照的である。

しかしモンターグの妻のリンダは全体主義社会に懐柔された人であり、社会機構を批判することなど全く考えない人である。そうした妻たちのパーティーの中に入り、モンターグは本を朗読する。その心に響く内容を恐れて泣き出してしまう人もいる。

 この社会では、ひとの魂を揺さぶる本は心の不安を乱す暴力の手段とみ
 なされている。(p.88)

のであり、

 「万人が同じになること」 が幸福とされているこの社会では、自分の人生
 は他のどの人の人生とも交換可能なものでなければならない。それが理
 想なのだから、逆に 「自分の人生」 をもとうとすること自体が社会に対
 する反逆と見なされる。(p.86)

ことになる。これは寓話であるが、実際の現実にも存在し得ることである。かつてのソヴィエトで行われていた抽象的な音楽に対しても奇妙な判断基準を設けて弾圧するというジダーノフ批判に一環する姿勢は、「ひとの魂を揺さぶる音楽は全体主義に反するものである」 ということと同じである。そしてまだその残滓はあるのかもしれない。
今シーズン売れている服はこれ! これが最新流行! と言って流行の画一的ファッションに誘導することは、indiidualisticな精神に反するものである。誰もが他人と同じファッションを着たがるわけではない。学校の学芸会の芝居で主役と端役を設けず、どの生徒にも同じくらいのセリフを与えるという方法論は演劇のダイナミズムの崩壊にしかならない。「万人が同じになること」 を強制することは全体主義の特徴である。

さて、しかし日常生活に満足しているふうなリンダも抑制されている何かがあって、薬物中毒で昏睡状態になる。すると処理をするチームがやってきて、患者の血液を全部とりかえることによって再生させる。「これで新品同様ですぜ」 と言い置いて彼らは帰って行くのだが、リンダは同じ型の新品になるだけで (そのディストピアにおける従順な人間という名の一個の部品)、モンターグが生まれ変わったのとは違う、と戸田山は指摘している。
映画ではモンターグの本に対する意識を目覚めさせ、ブックピープルのコミュニティへと導いていく女性・クラリスがいるが、妻リンダとこのクラリスをジュリー・クリスティが1人2役で演じている。それは2人がコインの表と裏のような関係性であることを暗示していて、《ピーターパン》の演劇においてダーリング氏とフック船長が同一の俳優によって演じられる慣習と同じである。
そしてそれは 「本の危険性と魅力は同じコインの両面」 (p.90) であることとも同じである。

本と一緒に焼け死ぬ女性のシーンについての解説はこうである。

 焚書官たちが駆けつけると、秘密図書館の番人である白髪のおばさんが、
 次の引用を口にしながら玄関ホールに現れる。

  リドリー司教よ、男らしく振る舞おう。神の恵みにより、今日わ
  れわれはイングランドに蠟燭の炎をともそうではないか。二度と
  消えることのない蠟燭と信じて。

 押収された大量の本が積み上げられる。おばさんは本の山から離れよう
 としない。すると、キャプテンは 「何が望みだ。殉教か?」 と言う。
 すごいわ、キャプテン。おばさんが唱えていたのは、英国国教会の司教
 ヒュー・ラティマーがカトリック女王のメアリ1世に弾圧され、火あぶ
 りの刑に処せられるとき (1555年) に一緒に処刑されたニコラス・リド
 リーに語ったとされる言葉だ。キャプテンは、おばさんの言葉の出典を
 知っている! 知っているから、おばさんが本とともに燃えて死ぬ覚悟
 なのを見抜いたわけだ。(p.91)

キャプテンは本に大変詳しいのだが、本が禁じられる前に本を読んでいた世代なのだ。だがキャプテンはそうした本に対して歪んだ愛、というより憎しみを抱いて焚書官をやっているのである。だから本と一緒に焼け死ぬ女性とキャプテンもコインの表と裏で、実は似た者同士だということなのだ。
尚、注として、宗教の違いから300人もの人々を反逆者として処刑したメアリ1世がカクテルのブラッディ・マリーの語源であるという解説もついている。

モンターグはブックピープルのコミュニティに辿り着く。そこではひとりの人が1冊の本になって、本を口伝で守り伝えてゆくのである。そうすればたとえ物理的に本が燃やされても、言葉は永遠に残るという、いわばファンタジーである。ファンタジーであるが、口承とは言葉を残すための最もプリミティヴな方法である。幻想であり寓話であるのだが、それらが意味するものは重い。

映画の冒頭で焚書官の捜索のシーンがある (下記YouTubeリンクの1番目)。戸田山は勝手に 「りんご男」 と呼んでいるのだそうだが (Man with the Apple: ジェレミー・スペンサー)、彼は

 焚書官の到着直前に仲間からの電話を受けて、辛くも逃げおおせるのだ
 が、そのとき、なぜかりんごを齧っている。ラストの湖畔のシーンでも、
 この男はブックピープルの一員として再びちらっと映る。このときもり
 んごを齧っている。禁断の知恵の実 (本のメタファー) に誘惑され、そ
 れを食べてしまったために堕落して、楽園から追放された男、というこ
とだね。ただし、この場合は楽園といっても愚者の楽園なわけだが。(p.89)

このとき、捜索に入ったモンターグは、男の残していったりんごを見つけて齧るのだが、「そんなものを齧るんじゃない」 と、りんごはすぐに弾き飛ばされてしまう。まだ職務に忠実な焚書官であるモンターグが無意識にそうしただけの行動なのだが、それはやがて彼が禁断の実を食べてしまうということへの伏線である。モンターグが天井照明の中に本を見つけて指図し、投げ下ろされた本が『ドン・キホーテ』であることにも意味がある。
もっとも、りんごだっていつも知恵の実とは限らず、腐ったりもするものなのだが。

戸田山は 「読書は単なる情報収集ではない」 と言う (p.92)。「過去の人々、地の果ての人々、虚構の人々と時空を超えてダイアローグするために読む」 と言うのである。単に面白いから読む、それが読書の本質であるはずだ。目先の利益やノウハウを得るために読む本も存在するがそれは教養としての読書ではない。
だから本という文化を絶やさないように読むべきだし、読まなくてもとりあえず買う、自分が読まなくても誰かが読むかもしれない。そうすることが本というメディアを絶やさないための方法論のはずだ、というのが戸田山和久の主張であり、《華氏451》に籠められたメッセージなのだと私も思う。

《華氏451》の音楽を担当したのはバーナード・ハーマンである。映画音楽の作曲家としてはビッグネームで、ヒッチコックの映画を多数手がけている。彼の最後の作品はスコセッシの《タクシードライバー》の音楽であった。
蛇足だが《華氏451》の原著初版 Fahrenheit 451 が某古書店に飾られていた。だがとても手の出るような金額ではなかった。


戸田山和久/教養の書 (筑摩書房)
教養の書 (単行本)




François Truffaut/Fahrenheit 451: First scene
https://www.youtube.com/watch?v=x9iyKI2pJbE

François Truffaut/Fahrenheit 451:
First Meeting Between Guy and Clarisse
https://www.youtube.com/watch?v=poQ25pFXIRg

François Truffaut/Fahrenheit 451: Antisocial Element
https://www.youtube.com/watch?v=R-0l8rIp9bw
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