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ほしおさなえ『活版印刷三日月堂 空色の冊子』を読む [本]

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川越は小江戸などとよばれ、ブームになってから久しいが、その川越を舞台にしたほしおさなえの三日月堂第5巻である。舞台のすべてが川越ではないが、読んでいて思ったのは、ほしおさなえのキーワードは土地/場所なのではないかということだった。単純にlieuというより、それはミシェル・ビュトールのタイトルのように génie du lieu であって、三日月堂でも三ノ池植物園でも坂の近くの住まいでもそうだが、その場所には共鳴する何か惹かれるものが宿っている。
特定の土地/場所へのこだわり、ブルース・スプリングスティーンのニュージャージーや北村信彦のデトロイトと同じように、ほしおさなえの川越は美しい郷愁の中にあって、しかしその美しい風景がフィクション設定のためのツールであるところに周到な仕掛けがある。架空感覚が一番強いのが三ノ池植物園であるが、場所へのこだわりは一種の幻想小説となって読者に挑みかかる。架空建築とはつまり架空庭園のヴァリエーションである。

次第に滅びてゆく活版印刷に対する登場人物たちのこだわりもまた、ビュトールがこだわった書籍/文章と装幀/美術へのこだわりに似ている。ビュトールの企てたそれはコラボレーションという意味だけでなく、活字そのものへの美学にまで干渉するスタンスをとっていて、作家という立場より一歩踏み込んだ思想性を形成していた。

『空色の冊子』は7つの短編から成っているが、そのところどころに出てきて紐づけられているのが宮澤賢治の『銀河鐵道の夜』である。「星と暗闇」 ではブルカニロ博士がいるかいないかによって見分けられる草稿と完成稿の違いが語られているし、『銀河鐵道の夜』を読んだことが起点となって天文学にのめり込む人物の心情も語られる。
プラネタリウムの場面で、解説者が『銀河鐵道の夜』の冒頭部分を紹介するシーン (p.090) は、そのシーンにおける現在形それ自体と、過去にそのプラネタリウムに来た記憶とが重層していてジーンとする。但しそれは原作を読んでいなければ感じ取ることはできない。
死んでしまった人の短歌が急に思い浮かぶ場面 (p.087) も、短歌という形式が少ない文字数で表現しなければならない特性ゆえに、かえって強い印象を人に残す、という意味がよく伝わってくる。
荒井由実の〈ひこうき雲〉は自殺を連想させる歌といわれているが、話はそうした解釈とやや違うかたちに展開してゆく。〈ひこうき雲〉はトリガーに過ぎない (P.132)。

私は子どもの頃、天文が好きで、しかしそれは今からふりかえると、自閉的で夢見がちな印象も伴っていたように思う。私が最初に読んだ塚本邦雄の歌集は『星餐圖』だったが、その最初の 「青年にして妖精の父 夏の天はくもりにみちつつ蒼し」 に強い衝撃を受けた。なによりも 「こういうの、やっていいんだ」 という幼稚な驚きだったのかもしれないが。
少女マンガ的視点で見れば三日月堂は私の最も好きな萩尾望都の 「小夜の縫うゆかた」 に似ている。昔の、貧しかったけれど活気があってやさしさに満ちていた日本の風景、経済効率だけを考えて生産のほとんどを海外に依存している今の時代のようでなく、真面目にものづくりをしていた時代、そうした風景こそがこの国の本来の姿のように思い出されるのだが、そうした時代は永遠に喪われてしまって取り戻すことはできない。

活版印刷の最後期の頃を私はかろうじて知っている。大きな工場を見学して、鑽孔テープのデータで鋳造される活字や、熱と特有のにおいのする紙型のとり方も見た記憶があるが、それより昔ながらの活字の並んだ部屋の懐かしさの印象のほうが強い。ジョバンニの文選のバイトのような仄暗いイメージではなく、もっと活気のある職人たちが働いていた。だがそれは活字の歴史の終焉を見届けたのに過ぎなかった。


ほしおさなえ/活版印刷三日月堂 空色の冊子 (ポプラ社)
([ほ]4-5)活版印刷三日月堂 空色の冊子 (ポプラ文庫)




〈参考〉
細野晴臣/銀河鉄道の夜 Nokto De La Galaksia Fervojo
 ますむらひろしのキャラ設定によるアニメにつけられた
 細野晴臣のサントラはずっと私の愛聴盤である。
https://www.youtube.com/watch?v=XA2Ig0OmDb4

杉井キサブロー/銀河鉄道の夜
https://www.youtube.com/watch?v=SfrKfoSIAkk
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