SSブログ

不可視なもの、不可視の音 — 広瀬浩二郎 [本]

KojiroHirose_200705.jpg
広瀬浩二郎 (小さ子社サイトより)

ソファに置かれた琵琶に奇妙な存在感があった。何十枚並べられても感興の湧かない写真もあれば、1枚だけなのに強い印象を残す写真もある。琵琶という楽器から連想してしまうのは武満徹の《ノヴェンバー・ステップス》なのだが、ここで琵琶の写真をそのイメージとして取り上げられているのはラフカディオ・ハーンの『怪談』(1904) に収録されている 「耳なし芳一」 である。タワーレコードの宣伝誌『intoxicate』146号に掲載されている広瀬浩二郎の記事は、短いながら示唆に富んでいて、巷間の最大公約数とは異なった視点を感じさせる。

広瀬は現在、この世界に広がっているコロナウイルスについて次のように指摘する。

 新しい生活様式とは、人や物にさわらないさわらせない 「拒触症」 なの
 だと感じる。僕はコロナウイルスそのものの感染拡大よりも、「拒触症」
 が蔓延することに危機感を抱いている。

最近よく使われる 「新しい生活様式」 という強権的表現が不快だとかねてから思っていたが、それを 「拒触症」 と言い換えてパロディ化しているところに、ひらめきを感じる。
そして、

 なぜ人類は新型コロナウイルスをこれほど恐れるのか。いうまでもなく、
 それはウイルスが目に見えない存在だからである。近代以降、人類は
 「目に見えないものを見えるようにすること」 が進歩だと信じてきた。
 近代化のキーワードは 「可視化」 である。多種多様な事物を目に見える
 形にしたいという願望が、人類の発展を支えてきたのは確かだろう。一
 方、「近代化=可視化」 の道を邁進する人類が、たくさんのものを見落と
 し、見捨ててきたのも事実である。20世紀初頭、ハーンが『怪談』を通
 じて、目に見えないものの価値を強調したのはきわめて意義深い。「可
 視化の過程で、大切なものを見忘れているのではないですか」。これが、
 日清戦争から日露戦争へと突き進む近代日本に対するハーンからの問い
 かけだった。

可視なものこそが正当で明瞭なものであり不可視な心霊現象を否定するのと同様に、見えないコロナウイルスは恐怖であり不浄のものであるから排除するという姿勢が今の世界の方向性である。「近代化=可視化」 という言葉をさらに進めれば、それは一元化あるいは均質化であり、曖昧なものは否定され、すべてを人工的照明の下にさらけ出さなければならないという意味を包含しているともいえる。
広瀬はさらにこう続ける。

 人間が万物との触れ合い (相互接触) の中で育まれてきたことを軽視す
 る昨今の 「拒触症」 の流行は、明らかに過剰反応である。目に見えない
 ウイルスへの過度の恐れは、はたしていつまで続くのか。

もちろんここで広瀬が言っているのは過剰反応をやめてマスクなどしなくてもよいとか、「自粛警察」 なるものがウザったいとか言っているわけではない。
ただ、ハーンが『怪談』を書いた時代が日清・日露戦争という日本の戦意昂揚を掲げていた頃であったという指摘が、妙に今の政治情勢と符合する。表立った戦争こそ起こそうとしてはいないが、為政者の志向はそれに似て多分にキナ臭い。むしろコロナの混乱を千載一遇の機会ととらえている思惑を強く感じる。

マスクは象徴であり、自分は菌を出していないという自己正当化のあらわれに過ぎない。インフルエンザ流行時にもよく言われていたように、一般人が使用しているようなマスクは外からの病原菌の攻撃に対してほとんど無防備であり、マスクをしていれば感染が防げるというわけではない。
「新しい生活様式」 という言葉がなぜ不快かといえば、それは本来したくもないマスクを肯定的にとらえようとするいわば強弁であり、黒を白と言いくるめるような言語操作だからである。不快なものはあくまで不快であり、それが快感に変化することはない。もし変化するのだとしたら、それはマゾヒスティックな素地があるだけの話である。ではメディア (とその背後にいる為政者) がなぜ 「新しい生活様式」 などと唱えてそれを納得させようとしているのかというと、つまりこの状態がかなり長く続くという予想から出てきた言葉に他ならない。たぶん疫禍は短くても数年は続くだろうし、来年こそはオリンピックを、などという幻想は、ニンジンで馬を釣るコメディと同じである。アスリート・ファーストなる言い方はおためごかしであり、真実がどこにもないことに気づかなければならない。
某国大統領が頑なにマスク着用を拒むのは、彼はきっとスタイルにこだわる人であり、もっと言えば 「見てくれ」 が信条なので、「まるで下着を顔に貼りつけたような布マスクなど御免だぜ」 と言っているような気がする。

さて、広瀬が昨今の現象を 「拒触症」 と揶揄し、過剰反応というのには理由がある。彼は視覚障害であり、13歳の時に失明したのだという。視覚にたよれない場合に使うのは聴覚であるが、聴くだけでは心もとないので、よりダイレクトに使えるのは触覚であるはずだ。その触覚を使うことを拒否されてしまったら外からの情報量が激減することは目に見えている (いや、見えていないのだが)。
耳なし芳一は視覚だけでなく聴覚も奪われてしまった。だから触覚にたよるしかない。芳一もヘレンケラーも、触覚にたよっていることは同じなのである。だが芳一は琵琶法師として成功する。広瀬は 「「お金持ち=幸福」 と単純に考えていいかどうかはさておき、芳一が聴衆に支持される著名な琵琶法師へと成長したのは間違いない」 という。

そこで広瀬のプランである。彼は今、絵本を作ろうとしているというのだ。絵本といっても、通常の絵が描かれている絵本ではなく、絵のない絵本でもなくて (でも絵のない絵本というのは形容矛盾だ)、盛り上げ印刷などを用いて 「目に見えないものに触れることができる絵本」 をめざしているのだという (めざすという言葉を使うのにも悩むのだけれど)。

 もともと、人類は芳一的なるものを持っていた。それは、何にでも手を
 伸ばし、貪欲にさわる幼児の行動、もしくは濃厚接触を常とするいわゆ
 る 「未開」 人の暮らしを観察すれば、よくわかる。

この疫禍により 「さわらない・さわらせない社会通念の流布」 があるが、では 「さわるとはどんな意味を持っているのかという根本的な問い」 を広瀬は指摘する。それは逆説的な今の世界への問いかけであり、彼はそれを 「芳一力」 と名付けたいというのだ。昔、「老人力」 という言葉があったのを思い出してしまう。そのパロディといえばその通りなのだろうけれど。

そして広瀬によれば、人類の進歩は可視化することにあるということである。見えない恐怖としてコロナウイルスが存在するので、それは最も邪悪なものとして捉えられる。だが高性能の顕微鏡を用いればウイルスは見える。メディアで何度も見かけるあのかたちだ。邪悪なウイルスと思うから邪悪に見えるだけであって、冷静に見れば単なる微小なものの一形態に過ぎない。一種の模様に過ぎない。
つまり全てに実体はあるのだ。触覚についても同様で、触るためには触るための実体が存在しなければならない。

だが音には、そして音楽には実体がない。高価なヴァイオリンであったとしても、それは音を出すための道具に過ぎず、音楽そのものではない。きらびやかなコンサートホールも、小さなライヴハウスも、そこは音楽を演奏するための場所でしかなく、音楽そのものではない。楽譜は音楽を再現するための地図に過ぎず、レコードやCDは音楽を記録した媒体に過ぎない。
川のせせらぎや風のそよぎのような自然音も、音楽や電車の走行音や建築現場の機械音も、その実体は存在しない。音はすべて、空気中に消えるだけである。だからコロナウイルスにも束縛されないはずなのに、現実にはコンサートホールやライヴハウスといった実体に制限され、影響を受けてしまう。これは音楽の本質から見ると不幸であるが、逆にいえばそうした人為的な構築性によって音楽は成立しているのだともいえる。スナフキンのままでは音楽は伝播しない。
家でCDを聴いているのなら問題ない、と言ってもそれは既成のメディアを聴いているのだから言えることであって、これから新たな録音をするのだとしたら、スタジオでもライヴ録音でも、それを収録するという行為は今までより困難になってしまうだろう。

それはマスクの好き嫌い云々のような些細な問題ではなく、もしかすると過去の録音のみを愛でるような方法でしか音楽を享受できない時代になってくるのかもしれない。これは極論だが、芸術全般の萎縮と衰退の可能性があるということを、あらかじめ覚悟しておかなければならない。

『intoxicate』のプロフィール欄には広瀬浩二郎/自称 「座頭市流フィールドワーカー」 と書かれていて、オススメのCDはスティーヴィー・ワンダーの《インナーヴィジョンズ》。決まり過ぎてるけどカッコいい。


広瀬浩二郎/触常者として生きる — 琵琶を持たない琵琶法師の旅 (伏流社)
触常者として生きる―琵琶を持たない琵琶法師の旅




Stevie Wonder/Too High
https://www.youtube.com/watch?v=q8dK0iEzi1M

Stevie Wonder & Sting/Higher Ground and Roxanne (Live)
https://www.youtube.com/watch?v=QsaWoSq-OBo
nice!(81)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽