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消費される音楽 — クルト・ヴァイルおよびその他のことなど [シアター]

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Kurt Weill

日曜の夜だけれど明日も祭日だしということで、日本TV《行列のできる相談所》をなんとなく観ていた。内容はミュージカルに関するスペシャル番組で、井上芳雄のMCで井上をはじめ昆夏美、ソニンなどによる《ミス・サイゴン》《レ・ミゼラブル》といった作品からの歌唱があって楽しめた。

実は5月に大田美佐子『クルト・ヴァイルの世界』という本を買って、とても面白そうなのだがなかなか読み進められない。この本のサブタイトルは 「実験的オペラからミュージカルへ」 で、まさに二重人格的に変容したクルト・ヴァイルの実像を捉えている。
この本の序章に著者がクルト・ヴァイルに興味をもったきっかけのエピソードが書かれていて、それは黒テントで観た《三文オペラ》(Die Dreigroschenoper, or the Threepenny Opera, 1928) の衝撃だというのである。それはオペラと称しながらハイソなオペラ劇場などでなく薄暗いテント小屋で、もちろんオケピットなどなく、舞台設定も過去の日本に翻案されていて、でありながらその新鮮さにうたれたとのこと。その部分にとても共感してしまった。
私も68/71の《三文オペラ》を観た記憶があるが、それはテント公演ではなく、少しラグジュアリーな、たしか俳優座劇場で上演されたときだったと思う。公演場所こそ違うが、クルト・ヴァイルとは何かということについてまさにその鮮鋭さにショックを受けたのにほかならない。その後、何も予習をしなかった不勉強さを補完するために、ロッテ・レーニャのCDなどを購入したのだった。

そしてこの本のはじめのほうには、ブレヒトの『肝っ玉お母とその子供たち』(Mutter Courage und ihre Kinder) 上演時のロッテ・レーニャの写真も掲載されているのだが、「肝っ玉お母」 といえば私にとってそれは筒井康隆の『馬の首風雲録』を連想するトリガーとなっていて、また同時にブレヒトとヴァイルの蜜月とその離反をも思い出させられるワードなのだ。

クルト・ヴァイル (Kurt Weill, 1900−1950) はユダヤ系の作曲家であり、当時のナチスからの迫害を避けて最終的にアメリカに渡ったが、アルノルト・シェーンベルクやベラ・バルトークのように頑なに自分の音楽信条を守り続け、結果としてアメリカにおいて不遇であった人とは対照的に、アメリカにおいて成功したといってよいのだろう。ヴァイルはもともとはクラシカルな書法の作曲家であるが、アメリカではポピュラーな音楽を根幹としたミュージカルを多く書いた。それは原理主義的クラシック音楽愛好家から見れば豹変であり堕落であると映ったのかもしれない。

こうしたいわゆる大衆的な劇場音楽はイギリスのヴィクトリア朝のギルバート・アンド・サリヴァン (William Schwenck Gilbert, 1836−1911; Sir Arthur Seymour Sullivan, 1842−1900) が嚆矢である。ウィンナ・ワルツで有名なヨハン・シュトラウス2世 (Johann Strauss II. 1825−1899) などもポピュラーなクラシックのジャンルに入るといえるが、オペラからミュージカルの萌芽へと連なるギルバート・アンド・サリヴァンは、通俗でときに猥雑でもある点でシュトラウス・ワルツとはかなり異なるものだ。
少し雑駁な言い方ではあるが、こうした19世紀のサヴォイ・オペラの歴史を踏まえてそれがアメリカに伝播されミュージカルとなったと考えられるような気がする。オペラとミュージカルの違いは、前者がクラシック寄り、後者がポピュラー寄りというイメージはあるが厳密な区分けはできないようにも思う。その中間あたりに位置するのがたとえばガーシュインの《ポーギーとベス》あたりだと考えればわかりやすい。

繰り返し例にあげるが、こうしたアメリカでのオペラ/ミュージカルの萌芽時代を描いた小説がトマス・M・ディッシュ (Thomas Michael Disch, 1940−2008) の『歌の翼に』(On Wings of Song, 1979) であり、ギルバート・アンド・サリヴァンの《戦艦ピナフォア》が象徴的タイトルとなるが、アメリカにおけるミンストレル・ショーやカストラートなどの描写がアメリカの音楽ビジネスにおける変容と、その一時期における奇矯ともいえるステージングの特徴となっているようにも思える。つまりガーシュインを正統派とすれば乱立したマイナーなオペラ/ミュージカル作曲者たちはキッチュな徒花であり消費音楽と表現することもできるのだろう。

別のTV番組で山崎銀之丞が 「演劇は残す (残る) ものではない」 と、つかこうへいが語っていたというエピソードにも衝撃を受けた。舞台芸術は映画などと違って毎回全く異なる条件におけるパフォーマンスだといってもよい。昨日の舞台と今日の舞台は違うし、あなたが観た演劇とわたしの観た演劇は違うのかもしれないのだ。
その不安定さ・はかなさが演劇の魅力でもあり限界でもある。だからせめて言葉としてだけでも残しておかなければならない。

68/71の舞台で思い出すのはやはり俳優座劇場で上演されたゲオルク・ビューヒナー (Karl Georg Büchner, 1813−1837) の『ヴォイツェック』(Woyzeck, 1835) である。記憶がほとんど薄れているが、舞台全面を板敷きにして独特の空間を作り上げていて、脚本の不穏な構成と秀逸な照明が印象的だったが、68/71支持者からの評価はあまり高くなかったように覚えている。きっとその舞台づくりがブルジョア的に見えたのだろう。
そしてアルバン・ベルクのオペラ《ヴォツェック》(Wozzeck) はビューヒナーの『ヴォイツェック』が元となっている作品であることは自明である。

大衆的なオペラはソープ・オペラとかオペラ・コミックと呼ばれて一段低いもののように扱われてきた。だが最も大衆に支持され好まれてきたのがそうしたオペラでありミュージカルであるのだ。
《ミス・サイゴン》の作曲家クロード=ミシェル・シェーンベルクは直接の子孫ではないがアルノルト・シェーンベルクの親族にあたる。結局、音楽業界のなかでそのような何らかの継続性が起きてしまうのはよくあることなのだ。

夜、NHKFMでフォーレの《ペレアスとメリザンド》が流れていた。チョン・ミョンフン/東京フィルによるライヴ音源である。「ペレアスとメリザンド」 というタイトルの曲は、フォーレとシベリウスとドビュッシーと、そしてシェーンベルクがある。素材として発想を膨らませやすいし、キャッチが良いからという理由なのだと思う。


大田美佐子/クルト・ヴァイルの世界 (岩波書店)
クルト・ヴァイルの世界: 実験的オペラからミュージカルへ




新国立劇場/三文オペラ 舞台映像
https://www.youtube.com/watch?v=LWXPsGxyNvI&t=18s

Die Dreigroschenoper, Berliner Ensemble 2012
Theater Am Schiffbauerdamm, Berlin
https://www.youtube.com/watch?v=nv2SiBcE9dM

Kurt Weill《三文オペラ》全曲
https://www.youtube.com/watch?v=SeK1b4q0RNk
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