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ローヴァーBRMのこと [雑記]

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『CAR GRAPHIC』(以下CGと略) 2018年12月号をパラパラと見ていたら、Sportscar Profile Seriesという連載にガスタービンカーのことが解説されているのに目がとまった。レシプロと異なる原理によるガスタービンは、CGに拠れば第二次大戦末期のメッサーシュミットなどで試みられたとのことだが、戦後それは当然のこととして自動車にも応用される成り行きになった。そうした試行錯誤のなかでのローヴァーBRMに関しての紹介記事なのである。

CGは誌名の通りのグラフィック誌であるので、私は一種の美術誌としてとらえていたりするのであるが、それは極端というか一種の韜晦なのだとしても、普通の自動車に関する雑誌とはやや異なるスタンスをとっていてそれがずっと変わらないのは事実である。
ローヴァーはいわゆるオースチン・ローヴァーを端緒とするイギリスの自動車会社であったが、最終的にドイツのBMWの傘下となり、そして消滅した。だが 「ミニ」 はBMWエンジンではあるがいまだに生産されている。といってもすでにミニでない 「ミニ」 になってしまっているが。

ローヴァーはガスタービンを開発し実用化しようとしたが、その過程でル・マンに出場するという話が持ち上がった。しかしローヴァーはレース用の車をセッティングするノウハウを持っていなかったために、その相棒として選んだのがBRMであった。BRM (British Racing Motors) はその当時のF1におけるコンストラクターズであり、ロータスと並んで最も優秀なチームである。
だが1963年にル・マンに初めて出場したときは、急遽その出場が決まったため時間がなく、そしてBRMもF1にかまけていてそれだけの力を持ち合わせておらず、外見上は2シーターのル・マン風なデザインであったが中身はF1の流用に過ぎなかったとのことである。架装されたボディも、いかにも速そうな当時のレーシングカーのラインの延長線上でしかなく、しかも結局この1963年車は特殊なエンジンであるのでレギュレーションに適応せず、特別参加ということになった。ゼッケンは00である。この1963年のル・マンの際の写真はほとんど存在せず、CGでも入手できなかったとのことである。
ドライヴァーはグレアム・ヒルとリッチー・ギンサーであり、リタイアすることもなく走り切り、総合7位となる順位であったが特別参加のため、ランキングからは除外されている。

さて、燃料の問題などをクリアしようとして、同時にレギュレーションも変わったため、翌1964年に参加するためのチューンが行われたのだが、レースカーを運搬している途中で壊してしまい再生することができず不出場となった。そして1965年にやっと正式に出場することとなり、一般的にローヴァーBRMとして知られているのはこのときの車である。ドライヴィングしたのはグレアム・ヒルと、新鋭ジャッキー・スチュワートであった。ゼッケンは31である。
この1965年車はトラブルにもめげずなんとか完走し、総合10位を獲得する。しかしその後、ローヴァーはレースに対する取り組みを辞めたため、ローヴァーBRMもそれが最後の運命となった。

1965年車は、1963年車があまりにデザインされていないという社内の批判に応え、デザインされたものとなったが、前面にヘッドライトが埋め込まれているのが特徴的で、CGでは美しいデザインと表現されているが、ややトリッキーな、昔日の感覚で設計された近未来車とでもいうようなデザインであった。そのため強く印象に残るである。
CG1965年8月号のキャプションには 「ゴーッという吸入音とバサバサという風切り音しか出さずいつのまにかしのび寄るローヴァーBRMタービン」 とあるが、YouTubeなどの動画では、非常に異質な音色のエンジン音であり、それはどうなの? という疑問が残る。

この年のル・マンはフェラーリ250LMが勝ったが、上記号のCGには250LMという表記と275LMという表記が混在している。これはフェラーリの表記法からすれば排気量的には275とするほうが正しいからである。しかしトップも2位もプライヴェートであり、ワークスの275P2と330P2は全滅した。
結果として250LMは32台しか生産されず、プロトタイプカーとして終わってしまったが、ローヴァーBRMほど極端ではないが、プロトタイプとしての未完成だけれどそれゆえに新鮮な魅力が存在する。この2台の稀少な車に往事の、まだ自動車に未来があった頃の見果てぬ夢を感じるのである。

インドア・カー・クラブという飯田裕子のコラムはブガッティ・トラストというミュージアムのことがリポートされていて興味を引く。そこはH・G・コンウェイのコレクションを集めたミュージアムなのだそうで、さすがイギリスと思ってしまうマニアックさである。エットーレ・ブガッティは息子であるジャンに将来を託そうとしたが、ジャンは30歳で事故死した。そしてブガッティはエットーレの逝去によって衰退してゆく。ジャンがタイプ41のロワイヤルを設計したのは23歳のときであった。そのはかなさはディーノの愛称で知られるアルフレード・フェラーリに通じる悲哀がある。

ジョージ・ハリスンのwikiにはデイモン・ヒルとの親交に関する記述がある。

 少年時代からモータースポーツのファンで、70年以後観戦にも熱中した。
 79年のインタヴューでも車好きを明らかにした。ニキ・ラウダらのレー
 サーとの親交を深め、自身もレースにドライヴァーとして参戦した。彼
 は79年にF1ドライヴァーのジャッキー・スチュアートらに捧げた曲
 「Faster」をアルバム内で発表した。「Faster」の印税は、29歳で癌で
 亡くなったF1ドライヴァーの癌基金に寄付された。顔がジョージとそっ
 くりと言われるレーサーのデイモン・ヒルと親交があり、参戦資金が不
 足していたヒルがジョージに支援依頼の手紙を郵送。ジョージは資金を
 提供した。数年後、F1チャンピオンになったデイモンは返済を申し出る
 が、ジョージは辞退した。

デイモン・ヒルは金銭的にずっと苦労が絶えなかったようで、彼の実力はそれによって阻害された部分があるように感じる。そしてデイモン・ヒルは、もちろんグレアム・ヒルの息子である。あれほどの有名ドライヴァーだったのにもかかわらず、グレアムからデイモンに遺されたものはほとんどなかったのだという。

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CG 2018年12月号 (カーグラフィック)
CG 2018年 12月号[雑誌]




Rover BRM
https://www.youtube.com/watch?v=90DQl6kf_48

https://www.youtube.com/watch?v=o2Il3sQLwUY
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くれない、キャロル、ボランなど [雑記]

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高畑充希のdocomoのCM〈紅〉がうるさすぎるという意見もあるようだけれど、ん~、そうなのかな。あの歌と同期しているアプリのイヌの顔との落差が面白いし、見た後、自分の中で〈紅〉がループして、繰り返し歌ってしまうんですけど。
かつてのearthのCMの宮崎あおいの場合は、わざとヘタに歌っているのかそれとも本当にヘタなのかわからないところが面白かったのですが、高畑の場合は、どうしてそのロケーションで〈紅〉なのか、というのがいろいろと連想できるドラマになっている。
もっともdocomoの一連のCMの高畑は、キャリアウーマンっぽいキャラがちょっとブルゾンちえみと被っているようにも思えます。

DGGのピリスのcomplete boxをやっとcompleteしました。一時より高くなってしまったので、なかなか手が出なくて、なるべく安値になるまで待っていたということもあります。ソロが20枚、コンチェルトが5枚、室内楽が12枚、合計37枚のなかに全部収まってしまっている。ダブッているのがあるのかもしれないがボックスだと便利なので。でもこうしてアーカイヴになってしまうというのは便利でもあるけれど、逆にいえば悲しい。
ピリスにはERATO盤だってDENON盤だってあるし、と思えばいいのだけれど、もうほとんど揃ってしまったし、音楽の録音に限らず何にしても全集としてまとまってしまうのは、それがひとつの区切りであり、終わりになってしまった意味にもとれるので。
でもCDというのは所詮アーカイヴ用としてのメディアであって、私の価値観として最も高いのはやはりLPです。なぜならフランスのCDとイギリスのCDの音は違わないけど、フランスのLPとイギリスのLPは音が違うと感じますから。音だけでなくてジャケットの佇まいが違います。これはマニエリスムかもしれないけれど。

それは小室哲哉のArchivesでも同じ。かつてゲンズブールにも数々のヒット曲を構わず集めたアーカイヴがありましたが、小室がこんなにたくさんの人に曲を書いていたのだということにびっくり、というより愕然とします。それもピリスと同様に、区切りとなってしまっているのが悲しくもある。
東京パフォーマンスドールが1曲入っています (以下、TPD)。TPDは多人数のガールズグループの草分けといってもいいのかもしれないし、実は私はほとんど知りませんが、選ばれた1曲、売野雅勇の作詞による〈キスは少年を浪費する〉は、ごく画質の悪い動画っきり見られません。そしてこのTPDは篠原涼子の〈恋しさとせつなさと心強さと〉へとつながってゆく。
未来玲可みたいな 「一発屋」 も含めて懐かしさがそこかしこに存在します。
でも、ここまで出すんだから、以前のブログにも書いたことですけれど是非《tk-trap》の映像を出して欲しいです。映像は過去にVHSでしか出ていません。ここで言ってしまえば《tk-trap》は私にとっては小室哲哉/久保こーじの最高傑作だと思います。

文藝別冊の《T・レックス》は結構面白い。アキマツネオの 「音楽なんて好きじゃない。ただマーク・ボランだけ聴いてきた」 というインタヴューのタイトルにその全てが籠められているような気がする。
T・レックスじゃなくてティラノザウルス・レックスこそが重要だということについても納得できます。

山尾悠子の『飛ぶ孔雀』については、ネットにある書評など、どんなふうに書いているかなぁと思って読むと、かなり苦しそうな感じもして、こういうのは困るよね。私の感覚では、体言止めの多用が、それも技巧なんだろうけど、ちょっと技巧が勝ち過ぎているかなというのが素朴な印象で、つまり晦渋と奔放の使い方が少し強過ぎるとも思えます。
でも今日、美容院で雑誌を読んでいたら、その手のカタログ系みたいな文章っていうのは体言止め使い放題で、わざと生硬さを装うっていう手もあるんだけど、それは宮﨑あおいのブルーハーツと同じで、そうなの? っていう感じもする。本の感想についてはまたあらためて書くつもりです (つもりなので書かないかもしれない)。久しぶりに見たMM-OKL (だよね?) が美しい。


GOLDEN☆BEST 東京パフォーマンスドール (Sony Music Direct)
GOLDEN☆BEST 東京パフォーマンスドール




東京パフォーマンスドール/キスは少年を浪費する
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14149682

tk-trap (1996)
15:01からのCAROL part1~part2の歌がカッコイイ
https://www.youtube.com/watch?v=hnDuNwjZMXE

T.Rex/20th Century Boy
https://www.youtube.com/watch?v=fqITwSOXX2g

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niceが見えません [雑記]

昨日のメンテナンス後からniceが見えません。
自分の記事のniceが見えないため、
どなたからniceを付けていただいているのか確認できません。
こちらから行ってniceを付けることはできるのですが。

こんなことは初めてですが、
ソネブロはメンテナンスをすると必ずそれ以降、
使い勝手が悪くなります。
なんとかならないのでしょうか?
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ピストルと月と花火 — 年末年始のこと 2017〜2018 [雑記]

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aiko 2017.12.31

ハインリヒ・シェンカー (1868-1935) のベートーヴェンのピアノソナタ校訂版、まず第31番 (出版・1914) を読み始めたんですが、これがなんというか悪口の山盛りで、たとえばハンス・フォン・ビューロー (1830-1894) などボコボコにされています。ビューローとブラームスの関係は以前のブログにも書きましたけど (→2017年12月09日ブログ)、ビューローとヨハネス・ブラームス (1833-1897) はほぼ同年代で、シェンカーは2人よりずっと年下ですが、ビューローがブラームスに対して尊大な態度をとっていたことにむかっ腹を立てていたらしくて、ブラームスがビューローのことを 「所詮は単なる楽長に過ぎない」 と言っていたと暴露しています。
翻訳者である山田三香は当初、ヨナス版という再版を底本にしていたのですが、このヨナス版はシェンカーの悪口部分を省いたものだったそうで、ある意味、そっちのほうが正解なんじゃないかと思います。曲の分析だけやっていればいいのに、この罵詈雑言で全体の評価として減点という感じで、でもその当時の彼にとっては、そうしないと気持ちが収まらなかったのでしょうね~。

それでこの年末年始は、いつもなら絶対に見ることのできなかった紅白歌合戦など見てしまい、う~ん、10年ぶりくらいかなぁ、もっとも最初からではなくて何曲か過ぎてから見たのですが、知らない歌手がいっぱい出ていて、なかなか面白かったです。
こわいもの知らずに書いてみると、私の好みとしては竹原ピストルとエレファントカシマシがよかったです。基本的に私はパンクなので (まぢ?)。

竹原ピストルが《Love music》に出演したときの動画を見ると、なんかタメの多い歌いかたをしていて、ちょっとなぁ、と思ったのですが、紅白ではリズムがスッキリしていて緊張感もあって、本人も言っていたように良く歌えてました。「オレの言うことを聞け」 と言っておいて 「俺を含め、誰の言うことも聞くな」 っていうのは矛盾していてカッコイイんですが、その後に 「花を咲かせたらいいさ」 と続く歌詞が妙に陳腐で、わざとそうしているのかどうなのか微妙です。
エレカシは、一番いいコンディションをここに持ってきたという感じでベストでしたね。宮本浩次にあまりしゃべらせなかったのもよかったし。〈今宵の月のように〉は宮本と佐久間正英の編曲だったことを知りました。
それと審査員の一番良い席に吉岡里帆が座っていて、高橋一生との2ショットもあってというのがさすがのNHKです。まぁでも、紅白なんて、たまに見るからいいのかなぁ。

さてそれが終わって、CDTVにチャンネルを変えたら、いきなりのaikoがパンクっぽい仕上がりでよかったです。aikoのぐにゃぐにゃしたメロディラインが嫌いっていう人も多いんですが、聴いていると、つまりブルーノートっぽいっていうのか、いや、どの音にでもかけるので微分音的といったほうがいい部分があります。本来のaikoの歌唱力はすごく高いので、音が変なふうに聞こえるところは音痴じゃなくて、わざとそう歌っている (つまり音が外れているんじゃなくて外している) のだと確信しました。CDTVは昔からユルい感じがよかったんですが、見続ける気力がもうないです。

1月2日には府中の大國魂神社に初詣に行きました。以前は府中本町のこのあたりの道をよく通っていて、その頃は駅前のビル、イトーヨーカドーだったのにいまじゃボウリング場になってるし。府中本町駅から行くと参道の横から入るかたちになります。
実は大國魂神社に初詣で行ったのは初めてです。めちゃくちゃ長い列でこりゃダメと思ったのですが、意外に列が速く進むので、思ったほどではなかったです。おみくじは何を引いてもすごく悪いことが書いてあって、これ、大吉なのに凶じゃね? という内容。たぶん大國魂神社の芸風です。
参道の両脇はテキヤ系の屋台がたくさん並んでいて、でもよく見ると同じ看板の繰り返しがあったりして、やきそばを小さなパックに山盛りにしてフタがしまらないふうにするのがここの屋台の芸風? なら、もっと大きいパックにすればよさそうなものだけどそれじゃつまらないから、ということでしょう。キツネのお面だけのお面屋というのがユニークでした。ダルマ屋はどの店にも値札がないので怖いです。買わないけど。

竹原ピストルの紅白動画は昨日はあったんだけど今日になったら削除されていました。残念。それでYouTubeを探しているときブルーハーツの初期の動画を見つけたので、関係ないけどリンクしておきます。


竹原ピストル/よー、そこの若いの PV
https://www.youtube.com/watch?v=G9YgNxMB9Uo

エレファントカシマシ/今宵の月のように
Viva La Rock 2014 (2014.05.04)
https://www.youtube.com/watch?v=aQ_3uR2kjSY

aiko/花火
CDTV年越しライブ2017~2018 (2017.12.31).
https://www.youtube.com/watch?v=8-fKnIm9uZ8

aiko/予告
ミュージックステーションスーパーライブ (2017.12.22)
https://www.youtube.com/watch?v=lj9PWgySRLM

ザ・ブルーハーツ/リンダリンダ
夜のヒットスタジオ (1987.12.30)
https://www.youtube.com/watch?v=GcvYz1xK7WI
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やり残しのメモ [雑記]

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Caetano Veloso

2017年の終わりにはいろいろとトラブルがあって、やり残してしまったことが年を越してしまった。ブログに書こうと思ってメモをとっていても、時間がなくて読めなかったり聴けなかったり調べられなかったりで没にしてしまう数々のこと。でもこれから書くかもしれない幾つかのこと。すべては神のみぞ知る、ってビーチ・ボーイズですね。メモをそのまま書いておこう。2017年の忘れ形見として。こうして書いてしまうと気が済んで、もうこれで終わりにしてしまうのかもしれないが。

ウラジーミル・ナボコフの『アーダ』はとりあえず買っておいたけれどまだ読んでないうちに、すでに書評が出てしまって、自分の読む速度の遅さにがっかりする。若島正はロリータ、青白い炎、アーダを英語著作の3大傑作と位置づけている。ナボコフのフィネガンであるともいう。でもロシア語の『マーシェンカ/キング、クイーン・ジャック』も気になるところ。アーダはピーター・トライアスみたいな一種のSFでもある。SFそのものをも揶揄しているとはいうのだけれど。内田善美のリデルのウラジーミルに対しては、当然ナボコフを連想しなければならない。

ハインリヒ・シェンカーのベートーヴェンの校訂版は高価なので手が出なかったのだが、この前、丸善のポイントカードが廃止になってそれを精算したらすごいポイント数。で憑かれたようにシェンカーの全4冊のうち2冊を買ってしまった。これから読みます。読めないかもしれないけど。内田光子はシェンカーをほとんど読んでいるそうで、推薦文のなかで 「偉大な音楽は謎である」 と書いている。
シェンカーの重要性についてはマリア・ペライアも言及している。ロマン・ロラン全集のベートーヴェンの部分だけは以前から買ってあります。尚、マイケル・シェンカーではありません。

川上未映子編集の『早稲田文学』増刊・女性号は早々に売り切れてしまっていましたが、この前、増刷されたのでやっと購入。最初のほうに岸本佐知子訳のルシア・ベルリンがあって、ふふふと呟いてしまう。川上訳の一葉 「おおつごもり」 の収録あり。

そうそう、高山宏訳のアリスを購入。佐々木マキのイラスト、ポストカード3枚付き。私が規範とするのは岩崎民平訳だったが、今は百花繚乱。

冨永愛というメモがあるが、何を書こうと思ったのか忘れてしまった。爽健美茶のCMが衝撃だった頃。

電影少女というメモは、たぶんテレ東のTVドラマがはじまるからという意味で書いたのだと思うが、結局観ていない。ところで『I’’s』のコミックカバーの第1巻は何種類もあるのです。確か7種類くらい。増刷毎に少しずつ絵が違う。

アンナ・フェドロヴァ。ネットの動画にはあるのだけれど、CDはラフマニノフとかそんなに種類が無い。スカルラッティを探しているうちに見つけたバッハが面白いと思う。

新高恵子。天井桟敷の伝説の主演女優。彼女の伝記のようなものを、先日、自由価格本のなかに発見したので購入。ノックのムックを発見したのと同じ書店で。

タカーチのベートーヴェンSQについて。結局まだ聴いていないCDになってしまっています。ただ、タカーチは音だけ聴いているとよいのだが、演奏している動画を観るとあまりよくない。なぜなのか不明。

デヴィッド・ジンマン/トーンハレのボックスはマーラーがダブッてしまったが、しかもマーラー、そんなに感心しなかったのだけれど、これも一種の記念盤なのだろうということで。

阿部静子のテル・ケルについての解説本、メモにはベルナール・ラマルシュ=ヴァデルとロベール・ブレッソンの名前があるが今となってはなぜそれを書いたのか不明。フィリップ・ソレルスってほとんど知らないし。

フェルナンド・ソラナスの《Vuelvo al Sur》に関するメモ。ピアソラのmilan盤のサントラは昨年再発されたらしいがバンドネオンと枯れたゴジェネチェのシンプルさが美しい。Surはカエターノ・ヴェローゾも歌っています。


ウラジーミル・ナボコフ/アーダ (上) (早川書房)
アーダ〔新訳版〕 上




ウラジーミル・ナボコフ/アーダ (下) (早川書房)
アーダ〔新訳版〕 下




Caetano Veloso: Vuelvo al Sur (En vivo)
https://www.youtube.com/watch?v=UE4FL3fH2HQ

Caetano Veloso & João Gilberto/Garota de Ipanema
https://www.youtube.com/watch?v=h__ldWPnpXc
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万霊節の次の日 [雑記]

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George Harrison and Eric Clapton (1969)

友人の 「大人の音楽教室」 の発表会に行った。ちょうど台風の日、雨が強く降っていた。
大人向けの音楽教室が盛んになっているのは、つまりそれだけ需要があるということで、子どものときにやりたかったけどできなかった、というようなありふれた動機に限らず、好奇心さえあれば何でも可能というのが最近の傾向なのかもしれない。

会場は楽器店の小さなホールで、しかし立派なピアノがある。友人の演奏したのはピアノだが、ヴァイオリンやチェロの生徒さんもいてヴァラエティに富んでいる。演奏として興味深かったのは弦楽器類で、おしゃれなドレスにヴァイオリン、これは相当上手い演奏が聴けるはず、と期待していたら、見た目と実際の技術にはめちゃくちゃ落差があって、つまり指使いに気を取られるあまり、音程がどんどんズレていってしまう。伴奏のピアノに全然合っていない……。
でも使っている楽器でその人がどの程度の技倆かはわかるわけで、楽器を見たとき、え、ひょっとして? と思ったのですが、まさにそのひょっとしての、しずかちゃんのヴァイオリンでした。
つまりヴァイオリンって、やはり相当むずかしいんだなぁと思ったわけです。ギターなんかと違ってポジションがどこかわからないというのだけでも難易度が高いはず。

終演後、近くの古い感じの居酒屋で友人と話したのですが、それでもやらないよりはやったほうが全然良くて、今は音楽教室だけじゃなく絵画教室とか、いろんなカルチャースクールみたいなのがあるけれど、何でもトライしてみることに意義があると思うのです。

     *

話は最近発売されたグレン・グールドの1955年ゴルトベルク変奏曲のコンプリート・レコーディングのことに。グールドのデビューアルバムであるゴルトベルクの収録中の様子を全部出してしまおうという企画である。これはたとえば、最近出されているマイルス・デイヴィスのブートレグ・シリーズの考え方に近い。しかしジャズだったら、そのときそのときでインプロヴィゼーションに違いがあるから途中過程を全部収録するのもありだと思うが、クラシック音楽の場合は微妙な差異なので、それが果たしてCDセールスとして通用するのだろうか、と普通なら思う。でもグールドだったらそういうのでも売れる勝算があるのだろう。

グールドは稀有の才能を持ったピアニストだとは思うのだが、私は演奏家より作曲家第一主義なので、誰がどのように弾くかというのではなくて、その曲はそもそもどういう曲か、が重要ということになる。なぜなら有名でない曲は、録音されることも少なく、演奏家を選り好みできる状態にはないし、そして私が興味を持つのは常にそうした有名でない、録音のヴァリエーションのない曲だからである。

チャーリー・パーカーのダイヤル盤には〈Famous Alto Break〉というトラックがあって、これは〈チュニジアの夜〉の1stテイクであるが、曲自体は別のテイクが採用された。しかしこの最初のテイクのパーカーのブレイク部分があまりにすごかったために、わざわざ収録されたという由来の曲である。この場合のようにプレイヤーを中心として考えるのは、ジャズというジャンルにおける特殊な事情である。というよりポピュラー・ミュージックとは演奏家第一主義の音楽だからである。
パーカーのフォロアーであるソニー・スティットのルースト盤の有名なアルバム《Pen of Quincy》を最近聴いたのだが (このアルバムの正式なタイトルは Sonny Stitt Plays Arrangements from the Pen of Quincy Jones である)、CDには別テイクがオマケとして何曲か収録されていて、〈スターダスト〉の別テイクもある。
しかし採用されたテイクと捨てられたテイクの違いは明らかで、それはパーカーのブレイクと同じように、本テイクに存在する一瞬のブロウが別テイクより優れていたことに他ならない。この曲の場合は、その優れたブロウのあるテイクが本テイクとなった。

     *

11月3日に神田神保町に行ったら、古本まつりですごい人混みだった。すずらん通りに入るところではジャズ・バンドが演奏をしていて、道には露天の店ができていて、本や食べ物を売っている。古本まつりには興味があるのだけれど、その日は意欲がなく、そうした喧噪は落ち着いて本を選ぶ環境にはないので、早々に退散した。
祭りは死のにおいがする。本来、宗教的な行事で神仏をまつるから 「まつり」 という名称なのであったはずだが、その意味あいは崩れ、にぎやかで華やかであることが祭りの意味として護持されてきた。だが、喧噪とハレの舞台である祭りが、一種の呪縛を秘めていることも確かである。

銀座に行ったらそこも人の波で、そうだ、今日は秋の連休の一日だということにやっと気づいた。銀座は東京の最も有名な観光地のひとつであるし、最近はいつでも歳末のように人が多くてお祭りのようで、その賑わいがさらに人を呼び寄せる。外国人の集団が大量に買い物をしてショップ袋を両手に提げている。

そのメインストリートから外れると街の潮騒は遠ざかり、本来の銀座が甦る。いつも招待状をいただく友人の絵の展覧会に行く。honobono展はもう6回目。毎年きちんと開催するというパワーのすごさに打たれる。まさに継続は力なり、である。
少しずつ作風が変化していくのが面白い。どこまでも同じ人間の作品でありながら常に同じではない。作品を展示することも、音楽を演奏することも、自分の創作を他人の目に晒すということにおいては変わりない。こうして文章を書くこともその一環なのかもしれない。ものを創作するということがどういうことなのか、なぜ人は物を創ろうとするのか、なぜ人はそうしたことで感動したりするのか。そんなことをぼんやりと考える。あまり真剣に考えないのは、最近の私のアタマの処理能力が貧弱過ぎるからである。honobono展の皆さん、また来年も期待しています。

     *

その帰り、銀座のヤマハで、ヘンレのStudien Editionを買おうとしたら、全音のスコアが刷新されていることに気がついた。ブラームスの野本由紀夫の解説がとても面白いので1番と4番を買う。といっても私のようなシロートにはむずかしくてわからないことだらけだが、目からウロコの部分があって、思わず知ったかぶりして何かしゃべりそうになる。

     *

5日は高円寺のyummyでNO14Ruggermanさんと2人オフ会 (?) をしました。yummyは、ぼんぼちぼちぼちさんのオフ会で知った店なのだけれど、NO14Ruggermanさんが気にいってしまって、その後、常連のように利用しているのだそうです。
レコード棚があり、アキュフェーズのアンプでノーチラスが鳴っているけれど、音楽は自然で押しつけがましくない。その日はレコードではなくCDでした。

その前に、高円寺駅南口の商店街を南に、青梅街道まで歩いて行った。延々と昔っぽいような、でもいまどきでもあるような店が続いていて、脇道に入れば住宅街で、懐かしさを覚える。少し肌寒い。高円寺でロックバンドの練習か何かをして (よく覚えていない)、その後、沖縄料理店に行ったことを突然思い出す。そこでシークヮーサーという名称を初めて知った。
でもそれは記憶のなかで比較的新しいほうのことであり、そのもっと深層に過去のロックバンドの記憶が眠っていた。陽のささない狭いアパートの友人の部屋、テレキャスター、結局やらなかったWhile My Guitar Gently Weeps――誰もホワイトアルバムが買えるほど裕福ではなかった頃のこと。すべては須臾の夢なのかもしれず、思い出してもそれはすでに真実だったのかどうかもおぼろげな記憶に過ぎない。


Glenn Gould/The Goldberg Variations
The Complete Unreleased Recording Sessions June 1955
(Sony Classical)
The Goldberg Variations-the Complete 195 (8CD)




George Harrison and Eric Clapton/ While My Guitar Gently Weeps
https://www.youtube.com/watch?v=oDs2Bkq6UU4

Charlie Parker/The Famous Alto Break
https://www.youtube.com/watch?v=cJ831AvhVt4

Charlie Parker/Embraceable You
https://www.youtube.com/watch?v=Y8PHcgSGe-s
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真夏の通り雨とパラス・アテネの間に [雑記]

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杏沙子

夜のフジテレビ《Love music》を見ていた。銀杏BOYZの峯田和伸が大ファンである森高千里についてまず語り、それから本人とご対面という趣向だったのだが、その後の歌〈愛は永遠〉がよかったのです。あぁこういうの、ありなんだなぁ、と思って。何かすごく青春している。それは森高千里からインスパイアされた部分も少し混じっているのだろう。

でも、音楽ということでいうのならば、数日前に2kさんがリンクされていたコバソロ&杏沙子の〈真夏の通り雨〉に聞き入ってしまったのです。この曲をカヴァーしている人はYouTubeでちょっと探してみても何人もいて、でもそのなかでこの杏沙子の歌唱は出色。彼女のこの曲に対してのコメントに 「とてもとても奥が深く、難解で、試行錯誤を繰り返して」 とあるけれど、オリジナルの宇多田ヒカルとは異なる表現で、歌を歌うという行為に対する面白味をあらためて感じさせてくれる。

歌い出しはウィスパーヴォイスっぽく始まるのだけれど、でも本質はそこにはなくて、声が強くギラッと輝く個所が突然あらわれる (たとえば1:45あたり)。それは、単純なリフレインにしないで、わざと言葉数を多くして強い印象にする宇多田の常套パターンである2:12あたりからのフレーズで (教えて 正しいサヨナラの仕方を) より鮮明になる。これはこれでちょっと面白い。ただ、演歌のキメみたいな感じにも聞こえる。
同じ個所を宇多田はどう歌っているのかを確かめてみると (2:11あたり)、さらっと同じテンションで歌っているのだが、それでいてその部分はちゃんとそれなりの意味と強さを持っている。宇多田は声を変えなくても風景が一気に変わるのだ。その微妙なコントロール感はすごいのだが、おそらくそれは本人の歌唱の根源にはじめから内在しているものに過ぎない。
その、歌のなかでの 「かげひなた」 のうつろいをトレースしようとするとむずかしい。だから自分なりのラインを見つけるしかないのだ。ただ、単にきれいに丁寧に歌おうとしただけでは、歌の本質を摑むことはできない。それが如実にあらわれるのがこの〈真夏の通り雨〉という曲なのだ。

杏沙子はカヴァー曲の歌唱と解釈が素晴らしいのだけれど、オリジナル曲の出来がイマイチなのが残念。同様だったSotte Bosseを思い出してしまう。

それで難解ということから思い出したのが、山尾悠子のwikiにおける 「難解な作風」 という記述で、その気持ちはわかるけれど、とりあえずシュルレアリスムじゃないと思います。
それで、たとえば 「パラス・アテネ」 を例にとると、

 帝都が近づくにつれて花は凝血色に闌れていき、野遊びから戻ってくる
 豺王の額に、草ばかりの花冠が載っているのを隊商の者たちは見た。
 (p.246)

この場合、闌れて [=すがれて] みたいな難読文字もあるけれど、それより 「豺王の額に花冠が載っている」 とすればわかりやすいのに、その後に 「~のを隊商の者たちは見た」 と付け加えるから、なんとなくわかりにくいという印象を与えてしまう。もっとも作家は、わざわざその効果を狙って書いているので、構文のシステムさえわかってしまえば難解ではないはず。
文庫本の自作解説ではこの 「パラス・アテネ」 の後、「火焔圖」 「夜半楽」 が続くとあるが、タイトルは塚本邦雄の歌集タイトル『星餐圖』『感幻樂』を意識したものであると思われるし、連作全体の重要なイメージである赤い繭は安部公房の『壁』の第三部のタイトル 「赤い繭」 がヒントになっているような気がする。
さらにいえば 「パラス・アテネ」 をずっと通俗にしていくと栗本薫なのかもしれないとも、ちょっと思いました。


コバソロ&杏沙子/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=vVxJZUsdWXU

宇多田ヒカル/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=f_M3V4C8nWY

銀杏BOYZ/恋は永遠
https://www.youtube.com/watch?v=xm6cm49PSW4

Love mujic 2017年10月08日
https://www.dailymotion.com/video/x63r200
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スピルヴィルの森とドヴォルザーク [雑記]

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Wiener Konzerthaus streicherquartett

8月9日、池袋のジュンク堂で雑誌とジーン・ウルフの新刊を買った帰り、並びに丸善の池袋店ができていて、翌日開店ということでチラシを配っていた。この炎天下大変ですね、と思ったのを覚えているのだが、それから後、ずっと雨模様が続いて、今年は冷夏なのだろうか、そのほうが助かるけど、と思っているうちに8月も残り少ない。

こころかなしきときはおもひを野に捨てよ、と尾﨑翠は書いたが、捨てるほどの野原もないので、そういうときはセンチメンタルな音楽でも聴くのがいいのかもしれないと思うのである。
この前の《ブラタモリ》は長瀞だったのだが、長瀞といって思い出すのは中学生の頃の遠足の記憶ではなくて (その微かな記憶もあるのだけれど)、大塚愛の金魚花火だったりする。それはしんとして暗い。
野原だったらJalouseだけで消えてしまったLのことを私は思い浮かべるが、あのPVは野原というより森で、しかも単なる暗喩に過ぎない。森のなかが暗いことは同じだけれど (L: ラファエル・ラナデールについては→2011年07月19日ブログ)。

センチメンタルの王道は荒木経惟でもなくて、とりあえず私にとってはドヴォルザークの弦楽四重奏曲《アメリカ》である。いつも還って行く原初的記憶のなかの曲のひとつのような気がする。
でも、前にも書いたのだけれど、音楽というのは最初に聴いた演奏が深く刷り込まれてしまうことが多くて、たまたまあった東京クァルテット盤で聴いたら、なんとなくだるくて眠いのだ。私の最初の《アメリカ》は、おそらくウィーン・コンツェルトハウスのレコードのはずだが、確信が持てない。

尾崎翠を初めて知ったのはたぶん川又千秋の紹介記事によるものだったと思うが、同様な印象を松岡正剛も書いている。それは千夜千冊の0424夜で、花田清輝が尾﨑翠との引き合いに安部公房の 「デンドロカカリヤ」 を比較対象として選んでいたことに対して、

 そこが花田清輝にしてわからなかったのは、この時代、まだ少女マンガ
 というものが爆発していずに、花田は竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子が
 実のところは尾崎翠の末裔であることを知る由もなかったからである。
 これは大目に見てあげたい。

というのだが、それは無理、と思わず笑ってしまった。このときの松岡の批評対象は創樹社版全集で、その後、筑摩書房版全集も出たので尾崎のカルト性は薄まった (尾﨑翠については→2013年11月06日ブログ。今回の記事はこの日の記事の焼き直しみたいなものです)。

ドヴォルザークは《アメリカ》を1893年6月、アイオワ州スピルヴィルのチェコ人居住区で書いたとされる。私はいつもこの曲を聴くとアメリカの夜のハイウェイとか摩天楼とかラスベガスのネオンのような光景を思い浮かべてしまうことを以前のブログに書いたが (→2012年02月01日ブログ)、ドヴォルザークが作曲した頃にはもちろんまだハイウェイなどは存在していなかった。

全音のEulenburg版のスコアには、第3楽章21~28小節のヴァイオリン主題はスピルヴィルの森で聞いた鳥の歌にもとづいていて、それはアカフウキンチョウなのだと書かれている。突然、ドヴォルザークがメシアンみたいに感じられてきて面白い。

第1楽章は前奏2小節に続いてヴィオラが第1主題を弾く。すぐに繰り返す1stヴァイオリン。そのとき、下を支えるチェロのピチカートが心地よい。f、g、a、c、dというペンタトニックの主題と、いつもは目立たない内声のヴィオラの柔らかい音色がその心地よさの源泉である。
ペンタトニックの使用はアメリカ先住民族や黒人などのプリミティヴな音楽へのリスペクトであるとともに、同様にプリミティヴなチェコや東欧の素朴な音楽への郷愁でもある。
17小節目からチェロ、ヴィオラ、2nd、1stと、同じフレーズを1小節毎に受け渡しながら高音楽器へと上がっていく流れなどに、つい私はハイウェイのイメージを重ねてしまうのだ。

曲は63小節で繰り返し記号があり、3小節目へ戻るのだが、その直前のe-c-a-c-e、e-c-a-c-eという1stヴァオリンによる繰り返しには翳ったニュアンスがあり、最初に戻ると瞬間的に違和感が残る。でも、これは64小節目 (6) 以降につながっている音だと考えれば納得できる。
それに、その少し前の58小節目の2ndとヴィオラによるd、f♯、a♯、g♮、b♮、f♯、a♮、dという音がすでに違和感の感じられる前哨である。

などと書いていると、もっとだらっとして聴けば良いのに、とニワムスクイが同情をこめて鳴くのだ。昔の詩人なら、ああかけすが鳴いてやかましい、と簡単に言い捨てるのに違いない。


ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団/ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲アメリカ・他
(コロムビアミュージックエンタテインメント)
ドヴォルザーク:アメリカ/ハイドン:日の出、他




Dover Quartet/Dovorak: America, 1st movement
https://www.youtube.com/watch?v=6piTRGlSzDg

L /Jalouse [Clip Officiel]
https://www.youtube.com/watch?v=XAqpJfHCwSs
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十二夜、14番目の月、十六夜日記 —《LOVE LOVE あいしてる》 [雑記]

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21日の金曜日、帰ったらちょうどTVで《LOVE LOVE あいしてる》をやっていたので観てしまった。16年ぶりの復活SPとのことである。うわ~、なつかしい! と思ってしまったのだけれど、出演者の誰もがそんなに変わっていない。
ゲストの菅田将暉はお父さんが吉田拓郎の大ファンで、影響されて知っているとのことだったが、そして吉田拓郎、KinKi Kidsとともに歌うシーンまであって、しっかり客席に来ていたお父さんの気持ちはどんなだったんだろうか。

でもそんなことはいいとして (いいのかよ?)、最近はオトナになってしまった篠原ともえが昔通りの篠原だったのが私の懐かしさの根源である。当時と同様のキャンディショップのようなポップカラーの氾濫する過剰な色の取り合わせは、メチャクチャのようで、でもメチャクチャではない。
そうした色彩の使いかたは、渡辺直美主演で始まったTBSのドラマ《カンナさーん!》にもあって、第1回冒頭のめまぐるしいようなたたみかけかたは最近のアメリカ映画っぽいカメラワークで、ちょっとウザかったがすぐにそれも終わり、観やすいドラマだけれどそんなに深みはないかもしれない。
でも、カッコよくスマしているより、篠原や渡辺直美のように元気なほうが良いのだ。

TVドラマではそのファッションの使いかたが話題になりがちだけれど、渡辺直美だと、とりあえず着ている服そのままでは、たぶん参考にならない人がほとんどだと思う。でも、そのポップなアイテムとカラーは彼女の、嫌味にならない魅力をうまく引き出している。

カンナ (渡辺直美) とつり合っていないイケメンダンナの礼 (要潤) は、早速、空間デザイナーだというシシド・カフカと不倫話を勃発させてしまうが、シシドはすらりとした長身、アンニュイ風でステキなお仕事、とすべてカンナとは対照的で、着るものにもほとんど色彩が感じられない。
おぉ、また《あなそれ》に続いてゲス男出現なのか、と思うのだが、シシド・カフカはゲスト出演とのことだから (1~2回のみ)、これは長く続かないエピソードらしいのだ。
シシド・カフカはドラムを叩くミュージシャンでもあるのだが、カフカというエキセントリックな名前はもちろんフランツ・カフカを連想させるのだけれど、日本語にすると 「可・不可」 だからつまり Yes or No でもあって、これは私が勝手に思いついたことなのだが、そのあまりにステロタイプな不倫相手としての設定はやっぱり陳腐で定まらない浮気を象徴しているんだろうな、と納得してしまう。

とりあえず、不穏な前回ドラマ (の魑魅魍魎さ加減は、たぶんドラマ全体がギャグだったんだと思うけど) の後に登場してきた渡辺直美、失地回復にがんばってほしいです。

というところで唐突だが、森茉莉は父親の小説と翻訳小説について次のように書いている。

 そのようにして、口のきけない頃から膝に抱かれて父の雰囲気のすべて
 を感じていた私は、女学校に通うようになってから、初めて父の翻訳も
 のを読むようになった。父の小説は全部理屈でできている文章で、少し
 もよくないように私には思えた。父も自分自身でそれがいやだったから、
 翻訳はみな情緒溢れるものを選んでやっていたのである。それらのもの
 を読み出して、私は “空想する” ということを身につけたのである。だ
 から私は “退屈” というものが、まったくわからない。ごろんとベッド
 に寝転がれば、すぐに空想の世界に入ってしまう。
             (『幸福はただ私の部屋の中だけに』p.83)

どこで読んだのか、誰が書いていたのかも忘れてしまったが、森茉莉のアパルトマンの部屋の放埒に積み重なった本や雑誌やその他の幾多のもののなかで、鷗外全集が、ずずずと崩れた雑誌の堆積のようになっていたという描写があって、つまり森茉莉は父親の思い出は大切にしていたが、その作品は大切に思っていなかったのであることがわかる。
そして空想するという行為は、アン・シャーリーやジェルーシャ・アボットの例をあげるまでもなく、少女としての特権であり、そしてそれは決して少女だけに限定されたものでもない。世間における地位や権威というようなステータスを獲得さえしなければ。

立花隆の武満徹論について、続きがあるように書いておきながら私はその続きを考えあぐねていた。立花が繰り返し取材している途中で武満が亡くなってしまったこと、そのため本の後半はそれまでの取材原稿の焼き直しや拾遺であったりすることなど、やや生彩を欠く部分があることも確かだが、何より感じるのは、武満が《ノヴェンバー・ステップス》の成功によって獲得したのは音楽界の権威としての立場であり、そのときからアヴァンギャルドな精神性は後退していったのではないか、という仮説である。
というのはその後、もはや巨匠となってからの作品《カトレーン》(1975) を聴いたとき抱いた漠然とした印象、それはとても緻密に書かれているけれど、その語法は伝統の踏襲、伝統への回帰であってアヴァンギャルドではないのが如実であることがそのきっかけだったからだ。それに立花は武満徹大好きなファンであり信奉者であって、少し突き放した距離から見る目がない、というのも後半の記述をやや散漫なものにしているように思えた。

芸術はアヴァンギャルドだから良いというわけなのではない。ただ私はアヴァンギャルドだった人がアヴァンギャルドでなくなると興味を失うのである。
保坂和志が『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』の中で、オーネット・コールマンについて書いている部分があって、すごくかいつまんで私の感じた言葉で書いてしまうと、オーネットはコルトレーンのように決して求道的だったり禁欲的だったりはしないが、そのたらーんとしたハーモロディックなどというトンデモ理論みたいなので終生突き詰めて、いや突き詰めないんだけれどそれで押し通したというのが実はすごくアヴァンギャルドではないかというようなことなのである。
だから保坂は《タウンホール1962》の、冗長ともいえる〈The Ark〉を絶賛するのだ。

実はこの文章はオリヴァー・ネルソンのことを書こうとして書き始められたのだが、どんどん話が外れていってしまい元に戻りそうもないのでこのままにしておく。どんどん話が逸れていくのが森茉莉みたいでカッコイイ、と自画自賛。

15をその頂点として月は満ちかけするが、これから上り坂になっていくときが美しいのか、それとも次第に欠けていくときこそ退廃の美学があるのか、そもそもそれは退廃なのか、などといろいろな見方がある。それに月は欠けていってもまた復活するが、朽ちていくものに再生はない。


吉田拓郎/元気です。(ソニー・ミュージックダイレクト)
元気です。




シシド・カフカ/トリドリ (avex trax)
トリドリ(CD+Blu-ray)




保坂和志/魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない (筑摩書房)
魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない




Ornette Coleman/Town Hall 1962 (Esp Disk Ltd.)
Town Hall 1962 (Dig)




LOVE LOVE あいしてる 16年ぶりの復活SP
http://www.dailymotion.com/video/x5udrxt
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モグラネグラはドグラマグラではない [雑記]

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《相棒》の 「花の里」 店内

今日 (といってももう昨日になってしまったが)、テレビ朝日で《相棒》の再放送を見ていた。シーズン11#8の〈棋風〉という作品で、将棋名人とコンピューターとが対戦するという話である。おりしも 「ひふみん」 こと加藤九段がついに現役から引退することになり、その生まれかわりのようにして出現してきた中学生の藤井四段がデビューから負けなしで今日は歴代タイの28連勝になるかどうかという日、テレ朝がタイムリーな将棋ネタのドラマを持ってきたのは当然だろう。

この〈棋風〉の回は見た覚えがないので、楽しく視聴していた。
将棋名人と対決する将棋ソフトの開発者が死んでしまう。単なる事故死だと思っていたのに杉下右京がやってくると簡単に殺人に切り替わってしまうのはいつものこと (右京さんとコナン君の行くところに事件は起こる)。人工知能を研究するためには開発費が必要で、その開発費が欲しいソフトの開発者と、絶対に名人に負けて欲しくない将棋連盟の会長の思惑が一致して裏取引になりそうなとき、それを断固として止めようとした研究員・彩子 (高野志穂) は、実は過去に新進の女性棋士であったのに将棋のプロになるのを諦めて、ソフト開発の研究員となっていた。そして名人である時田 (竹財輝之助) のことを恨んでいるらしい、というふうに話が進展してゆく。

推理ドラマとしては比較的単純なストーリーなのだが、最後に時田名人と将棋ソフトが対決する場面で、コンピューターを操作して次の手を指示していた彩子は、肝心な一手をコンピューターに頼らず自分の手で指して、名人に負けてしまう。
そして彩子の過去の怨念は読み違いであり、時田は彩子の指す手が好きだったのだという結末となる。愛情が、彼女という人でなく、その棋風にあったところがほろ苦い。

事件が終わり、杉下は 「花の里」 で 「将棋には棋風というものがあり、棋譜を見れば誰が指していたのかが分かる。時田名人は彩子がその手を指したとき、それはコンピューターでなく彩子が指した手であることがわかったのだ」 というようなことを甲斐に言う。

人間と機械、アナログとデジタルの対比になっていて今っぽい話題だったのだが、その花の里の最終シーンのとき、画面の上にテロップが出て、「藤井四段が28連勝を達成しました」 というニュースが流れた。
あまりに絶妙なタイミング! その後、16時50分からの 「スーパーJチャンネル」 で、トップニュースとしてその28連勝が報道された。調べてみると相手の澤田六段が投了したのが16時47分なので、テレ朝はわざとニュースを抑えていたようなインチキはしていない。まさに最後の右京の言葉の個所で投了され、テロップが出されたのである。そういう偶然ってあるんだなぁと思ってしまう。

《相棒》の、この 「花の里」 のシーンはとてもなごむ。ヨルタモリの 「WHITE RAINBOW」 も魅力的な店だったが、「花の里」 のほうがずっと年季が入っている。この世には存在しない店に対して憧れを持ってしまうのは一種の幻想譚への希求であるのかもしれない。
そして鈴木杏樹の演じる月本幸子は、実は単なる小料理店の女将ではなく、過去のある人なので、その不幸な過去の末にたどりついた花の里という店が、とても存在感を持って目に映る。

鈴木杏樹はミュージックフェアの司会を長く続けていたが、彼女のキャリアの初期の頃に出演していたテレビ東京の番組《モグラネグラ》のことをふと思い出した。テレ東はいまでもちょっとユルい放送局だけれど、以前はもっと東京ローカルで、もっとずっとユルくて、そのユルいのがたまらなかった。
《モグラネグラ》は夜の音楽寄りのバラエティ番組みたいなもので、いろいろな司会者がいたのだが、鈴木慶一と鈴木杏樹の木曜日のときだけ、よく見ていた。この鈴木慶一と鈴木杏樹というW鈴木の司会は、調べてみたら1993年の半年くらいしか続かなかったらしくて、だから数回見ただけなのかもしれないが、いまでも印象に残っている。

といっても私は鈴木慶一のことはよく知らなくて、でもその数年前に出た高橋幸宏とのユニット The Beatniksの2枚目のアルバム《EXITENTIALIST A GO GO》(1987) を偶然聴いていたので、鈴木慶一はビートニクスの鈴木慶一でしかなかった。その後あたりだったと思うが、ムーンライダースのコンサートに誘われて1回行ったことがあるばかりである (もちろん、まだかしぶち哲郎は健在だった。かしぶちの曲はいつもせつない)。《センチメンタル通り》を聴いたのはさらに後で、それは70年代の憂愁に満ちていた。
《EXITENTIALIST A GO GO》はノスタルジックな名盤で、何度も何度も繰り返し聴いていた記憶がある。1987年には鈴木さえ子の《STUDIO ROMANTIC》もリリースされているが、その前の《緑の法則》(1985) のほうが私は断然好きだった。最初の自転車のベルの音が、子どもの頃の夏休みの楽しさの記憶に共鳴する。

鈴木慶一の、これらの鈴木さえ子アルバムを経て原田知世の《GARDEN》(1992) に連なる流れは、もっとも冴えていた時期、というか私にとってまさに心の微細な揺れにフィットする音が聞けた時期であったような気がする。
テレ東では1991年から98年まで、呆れるほどホントにしょーもない《ギルガメッシュないと》というバラエティがあって (イジリー岡田さん、最高です)、あれはやっぱり世紀末への退廃的な怒濤の流れだったのだ。
というふうに最初と最後で話題が変わってしまうのは、森茉莉的話題のずらしかたの手法で、現在私はその影響下にある。

     *

追記
木曜モグラネグラの1本目のリンクが間違っていましたので訂正しました。尚、夢野久作ではドグラマグラが一番有名ですが、私が好きなのはあやかしの鼓です。


THE BEATNIKS/EXITENTIALIST A GO GO (ポニーキャニオン)
EXITENTIALIST A GO GO




鈴木さえ子/緑の法則 (ミディ)
緑の法則(紙ジャケット仕様)




原田知世/GARDEN (フォーライフ)
GARDEN




木曜モグラネグラ
https://www.youtube.com/watch?v=EEFb9WUp8Ps
https://www.youtube.com/watch?v=XJ799Zu5xpI

THE BEATNIKS/ちょっとツラインダ
https://www.youtube.com/watch?v=NbRyV6vmixw

原田知世/さよならを言いに with鈴木慶一&佐野史郎
https://www.youtube.com/watch?v=0ayBqVMW50c
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