SSブログ

ローヴァーBRMのこと [雑記]

roverBRM_1965a_181129.jpg

『CAR GRAPHIC』(以下CGと略) 2018年12月号をパラパラと見ていたら、Sportscar Profile Seriesという連載にガスタービンカーのことが解説されているのに目がとまった。レシプロと異なる原理によるガスタービンは、CGに拠れば第二次大戦末期のメッサーシュミットなどで試みられたとのことだが、戦後それは当然のこととして自動車にも応用される成り行きになった。そうした試行錯誤のなかでのローヴァーBRMに関しての紹介記事なのである。

CGは誌名の通りのグラフィック誌であるので、私は一種の美術誌としてとらえていたりするのであるが、それは極端というか一種の韜晦なのだとしても、普通の自動車に関する雑誌とはやや異なるスタンスをとっていてそれがずっと変わらないのは事実である。
ローヴァーはいわゆるオースチン・ローヴァーを端緒とするイギリスの自動車会社であったが、最終的にドイツのBMWの傘下となり、そして消滅した。だが 「ミニ」 はBMWエンジンではあるがいまだに生産されている。といってもすでにミニでない 「ミニ」 になってしまっているが。

ローヴァーはガスタービンを開発し実用化しようとしたが、その過程でル・マンに出場するという話が持ち上がった。しかしローヴァーはレース用の車をセッティングするノウハウを持っていなかったために、その相棒として選んだのがBRMであった。BRM (British Racing Motors) はその当時のF1におけるコンストラクターズであり、ロータスと並んで最も優秀なチームである。
だが1963年にル・マンに初めて出場したときは、急遽その出場が決まったため時間がなく、そしてBRMもF1にかまけていてそれだけの力を持ち合わせておらず、外見上は2シーターのル・マン風なデザインであったが中身はF1の流用に過ぎなかったとのことである。架装されたボディも、いかにも速そうな当時のレーシングカーのラインの延長線上でしかなく、しかも結局この1963年車は特殊なエンジンであるのでレギュレーションに適応せず、特別参加ということになった。ゼッケンは00である。この1963年のル・マンの際の写真はほとんど存在せず、CGでも入手できなかったとのことである。
ドライヴァーはグレアム・ヒルとリッチー・ギンサーであり、リタイアすることもなく走り切り、総合7位となる順位であったが特別参加のため、ランキングからは除外されている。

さて、燃料の問題などをクリアしようとして、同時にレギュレーションも変わったため、翌1964年に参加するためのチューンが行われたのだが、レースカーを運搬している途中で壊してしまい再生することができず不出場となった。そして1965年にやっと正式に出場することとなり、一般的にローヴァーBRMとして知られているのはこのときの車である。ドライヴィングしたのはグレアム・ヒルと、新鋭ジャッキー・スチュワートであった。ゼッケンは31である。
この1965年車はトラブルにもめげずなんとか完走し、総合10位を獲得する。しかしその後、ローヴァーはレースに対する取り組みを辞めたため、ローヴァーBRMもそれが最後の運命となった。

1965年車は、1963年車があまりにデザインされていないという社内の批判に応え、デザインされたものとなったが、前面にヘッドライトが埋め込まれているのが特徴的で、CGでは美しいデザインと表現されているが、ややトリッキーな、昔日の感覚で設計された近未来車とでもいうようなデザインであった。そのため強く印象に残るである。
CG1965年8月号のキャプションには 「ゴーッという吸入音とバサバサという風切り音しか出さずいつのまにかしのび寄るローヴァーBRMタービン」 とあるが、YouTubeなどの動画では、非常に異質な音色のエンジン音であり、それはどうなの? という疑問が残る。

この年のル・マンはフェラーリ250LMが勝ったが、上記号のCGには250LMという表記と275LMという表記が混在している。これはフェラーリの表記法からすれば排気量的には275とするほうが正しいからである。しかしトップも2位もプライヴェートであり、ワークスの275P2と330P2は全滅した。
結果として250LMは32台しか生産されず、プロトタイプカーとして終わってしまったが、ローヴァーBRMほど極端ではないが、プロトタイプとしての未完成だけれどそれゆえに新鮮な魅力が存在する。この2台の稀少な車に往事の、まだ自動車に未来があった頃の見果てぬ夢を感じるのである。

インドア・カー・クラブという飯田裕子のコラムはブガッティ・トラストというミュージアムのことがリポートされていて興味を引く。そこはH・G・コンウェイのコレクションを集めたミュージアムなのだそうで、さすがイギリスと思ってしまうマニアックさである。エットーレ・ブガッティは息子であるジャンに将来を託そうとしたが、ジャンは30歳で事故死した。そしてブガッティはエットーレの逝去によって衰退してゆく。ジャンがタイプ41のロワイヤルを設計したのは23歳のときであった。そのはかなさはディーノの愛称で知られるアルフレード・フェラーリに通じる悲哀がある。

ジョージ・ハリスンのwikiにはデイモン・ヒルとの親交に関する記述がある。

 少年時代からモータースポーツのファンで、70年以後観戦にも熱中した。
 79年のインタヴューでも車好きを明らかにした。ニキ・ラウダらのレー
 サーとの親交を深め、自身もレースにドライヴァーとして参戦した。彼
 は79年にF1ドライヴァーのジャッキー・スチュアートらに捧げた曲
 「Faster」をアルバム内で発表した。「Faster」の印税は、29歳で癌で
 亡くなったF1ドライヴァーの癌基金に寄付された。顔がジョージとそっ
 くりと言われるレーサーのデイモン・ヒルと親交があり、参戦資金が不
 足していたヒルがジョージに支援依頼の手紙を郵送。ジョージは資金を
 提供した。数年後、F1チャンピオンになったデイモンは返済を申し出る
 が、ジョージは辞退した。

デイモン・ヒルは金銭的にずっと苦労が絶えなかったようで、彼の実力はそれによって阻害された部分があるように感じる。そしてデイモン・ヒルは、もちろんグレアム・ヒルの息子である。あれほどの有名ドライヴァーだったのにもかかわらず、グレアムからデイモンに遺されたものはほとんどなかったのだという。

roverBRM_1963_181129.jpg
roverBRM_1965b_181129.jpg


CG 2018年12月号 (カーグラフィック)
CG 2018年 12月号[雑誌]




Rover BRM
https://www.youtube.com/watch?v=90DQl6kf_48

https://www.youtube.com/watch?v=o2Il3sQLwUY
nice!(87)  コメント(2) 
共通テーマ:音楽