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ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』のこと [本]

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ほしおさなえ『活版印刷三日月堂』のことは以前の記事に 「『空色の冊子』を読む」 として書いたが、それはシリーズでいうと第5巻目の話で、なぜそんな中途半端なところから感想を書く? と思われてもしかたがないのだけれど、それは私の読み方に問題がある。というのはこの本にはサブタイトルがついているのだが巻数が表示されてなかったので、順番に読まなかったのである。つまりシャッフルした状態でかまわず読んでいたのだ。なんか話が前後しているなぁ、と思いながら読んでいたのだが、そういう読み方でもなんとなくわかってしまうような書き方だったので、後になってから気づいて、ああそうだったのか、と思った次第で、つまり私がそんなに緻密な性格でないことがバレてしまったわけです。『ポーの一族』だって私は第3巻から読み始めたのだが、それはたまたま書店に第1巻と第2巻がなかったからに過ぎない。あえて居直ってしまうんだけど、いいんだ、どこから読んだって。

ついでに白状してしまうと、映画館が今みたいなシステムでなく、自由に出入りできて、観ようと思えば1日いてもいいようだった頃、私は映画の上映途中から入って終わりまで観て、次の回の最初から観て、観たところまできたら出てくるというのの常習であった。今だってTVの映画放送でも、途中から観たり、逆に最初から途中までしか観ていなかったりということが数多い。映画の好きな人からしたら、とんでもないヤツなのである。たとえばジブリの《天空の城ラピュタ》を全部観ているのかどうか、いまだに自信がない。切れ切れに観ているのだが、たぶん全編観てないような気がする。

さて、『活版印刷三日月堂』のことだが、小説の内容については書かないでおこうと思っていて、前の記事でもわざとのように書いていない。あらすじなど書いてもムダだと思うからだし、そういうのはネットを探せばいくらでも見つけられるし、ちょっと懐かしい描写のあるこの作品について何か書くとかえって興ざめのような気がするからである。発行元のポプラ社って、小学生の頃に初めて読んだアルセーヌ・ルパンの子ども向けの本を出していた出版社だよね、ということを思い出した。このポプラ文庫にも、子どもの頃のドキドキ感がまだ残っているような気がする。

前の記事にも書いたことだけれど、この小説のキーワードとして考えられるのは、川越、宮澤賢治、荒井由実の〈ひこうき雲〉だと思う。
その宮澤賢治だが、彼の全集について 「星たちの栞」 の中に次のような箇所がある。

 「『校本宮澤賢治全集』。古いほうの……」
 箱には文字と小さな絵。引き出すと青っぽい布張りの本が出てきた。表
 紙の文字は金の箔押し。むかしながらの全集だ。一九七〇年代に編纂さ
 れたこの全集がその後の宮澤賢治のテキストの基礎になっていると聞い
 たことがあるが、はじめて見た。九〇年代から新版の編纂がはじまり、
 二〇〇九年に完結。いま学校の図書館にあるのも、その『新校本宮澤賢
 治全集』の方だ。(第1巻 p.170)

この部分をとても納得しながら読んだのである。そうだよなぁ、と思う。たぶん、後から出た新校本全集のほうが研究の成果が盛り込まれていて、内容としてはより良いもののはずなのである。でも、本のかたちだけを見てしまうと、前の全集のほうが格段に美しい。というふうには『活版印刷三日月堂』には書かれていないけれど、そういうことなのである。もちろん校本全集は活版印刷、新校本全集はオフセット印刷である。
といっても私は新校本全集は全巻持っているが、前の全集は2冊しか持っていない。しかも2刷であるが、でもこれが活版印刷の見本のような本なのである。もっともそれは宮澤賢治全集に限らずそうで、たとえば漱石全集は菊判の頃の全集が一番美しいし、三島由紀夫全集もひとつ前の全集のほうがよいと思う。どちらも最近の全集は新漢字旧仮名であるが、菊判の漱石とひとつ前の三島全集は旧漢字旧仮名だからである。でもこれらの旧全集も残念ながら各々、ほんの数巻しか持っていない。入手しにくいので、もっとも金さえ出せば手に入れられるのかもしれないがそれほどの気力もなく、なぜなら別にコレクターではないので、それは仕方のないことだと思う。それに全集って全部揃っているとカッコ悪いみたいな妙な感覚もちょっとあったりする。実はヤセ我慢に過ぎないのかもしれないが。

宮澤賢治全集は校本全集も新漢字旧仮名なのでそれについては残念なのだが、すでに旧漢字で組むのはむずかしくなっていた頃だし、それに一般的な感覚でいうと、旧漢字にしたら読みにくくて売れなくなってしまうからそうしなかったのだと思う。新校本全集は本文と注釈とが別々になっていて、つまり貼箱の中に各巻2冊ずつ本が入っている。これは研究者にとっては便利なのかもしれないのだが、表紙がソフトカバーなのである。これをハードカバーにしたらとても高価になってしまうからソフトカバーにしたのだとは思うが、クロス装のハードカバーである校本全集と較べると、もうガッカリするくらい佇まいが違う。
それにこれは少し専門的な指摘になるかもしれないが、製本も糸かがりではないし、そして新校本全集の致命的な欠点は写植の文字がアマいことである。おそらく現像が適正ではないのだと思うが、フォントがぼってりとしていて、エッジの効いていないヌルい文字になってしまっている。本来のこのフォントの見え方ではない。だが、この当時はこの程度でも通してしまったのかもしれない。
さらに細かいことを言ってしまえば、本文13Qなのだが、文字送りがベタではなく12.5Hのように見える。この微妙なツメが気持ち悪いのだが、MicrosoftWordのようなPCソフトはデフォルトでツメになってしまうし、この頃からツメ印字が良いという感覚があったのもしれない。ましてWordの場合、見ているとどんどん詰めてしまう設定にしている人がよくいるけれど、そういうのはバカ詰めといって嫌われたはずだったのであるが (しかもプロポーショナルかどうかもわからない謎のツメ)、もはや現代では汚いものがデフォルトになってしまっているのは嘆かわしい。というのもPCで使われているフォントが、活版の活字のようなクォリティを持っていないからなのだろう。なぜなら、バカ詰めにすればフォントのアラが隠せるからである。

ガッカリ感のある本って限りなくあるのだけれど、でも全集と銘打っていてこれはないよね、というものまで存在する。たとえば清刷を元にしたオフだとか、さらには前の印刷物から起こした版だったりとか、雑なつくりの本があまた氾濫しているが、それはそうした違いを見分けられる人が少なくなってしまったからなのだろう。
もっとも音楽メディアだって、私の持っているチック・コリアの《Circle》の2枚のCDは針音がする。マスターがなくてアナログレコードがソースらしい。SP盤復刻か? とツッコミを入れてしまいたくなる。

最後に『活版印刷三日月堂』の中で心に響いた言葉のひとつ。「雲の日記帳」 に次のような言葉がある。

 「本というのは、たくさん作って消費するものじゃない。みんなが同じ
 ものを繰り返し読んで、なにかを発見し続けていくものなんだって気づ
 いたんだ。俺はそういう本を作りたい。いまの時代にはむずかしいかも
 しれないけどね」 (第4巻 p.179)


ほしおさなえ/活版印刷三日月堂 星たちの栞 (ポプラ社)
([ほ]4-1)活版印刷三日月堂 (ポプラ文庫)




荒井由実/ひこうき雲
https://www.youtube.com/watch?v=SlXL1A7rrxo
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