音楽は地球を救う (のだろうか?) —『BRUTUS』のクラシック特集 [本]
2020年は巡礼の年ならぬ疫禍の年。その年もすでに6月になった。発売が遅れていたり発売されない雑誌などもあったりして、でも書店に行くのさえ剣呑だと思ってしまい、しかし通販で本を買うことは滅多にしないので、先日、久しぶりに買い物に行ってきた。
タワーレコードの宣伝誌『intoxicate』で志村けんの追悼記事を読む。志村のソウル好きについて触れている。『BRUTUS』にも同様のことが書かれている。ドリフターズのヒゲダンスのネタ元となったテディ・ペンダーグラスの3rdアルバム《Teddy》に収録されている〈Do Me〉、早口言葉の元であるウィルソン・ピケットの〈Don’t Knock My Love〉(同名タイトルアルバムに収録) についてはどちらにもとりあげられている。志村はペンダーグラスのアルバムをジャケ買いして〈Do Me〉を知ったのだという。ベタにソウルなジャケットがカッコいい。
山下達郎は自身のFM番組〈サンデー・ソングブック〉で志村の入院の報を受け、エールとして〈Do Me〉をかけたが、翌週、急逝への追悼として〈Don’t Knock My Love〉をかけることになってしまったのだという。音楽は無力でやるせない。だがそのときリンクされた音楽の記憶は永遠に残るのだろう。
『intoxicate』の記事の末尾には、志村が東八郎から聞いた言葉が書かれている。「自分は文化人、常識派と見せようとした段階でコメディアンとしての人生は終わりだよ」。志村はその言葉を座右の銘としたという (末次安里/intoxicate 145号 p.05)。
『BRUTUS』の記事には〈サンデー・ソングブック〉放送時の山下達郎の言葉が紹介されている。
山下による 「文化人、知識人としての生き方を選ばず、いちコメディア
ンとしての人生を全うされた」 (大意) という発言は優れた志村けん論で
あると同時にアーティストと呼ばれることを嫌う山下達郎そのものを語
る言葉のように響いた。(安田謙一/BRUTUS 916号 p.095)
東八郎も山下達郎も言っていることは同じである。最近は自らのことをアーティストとかクリエイターと称する人がいるらしいが、幼児性の発露としか思えない。
また志村はプリンスの2ndアルバム《愛のペガサス》(Prince, 1979) を絶賛していたというが、その裏ジャケのペガサスに乗るプリンスが志村的という指摘も頷ける。志村のいろいろなキャラクター設定の中には、そうした一種のパロディ (それはリスペクトやシンパシィを伴っている) がまぎれ込んでいたのに違いない。
さてその『BRUTUS』916号は 「クラシック音楽をはじめよう。」 という特集になっていて、いわゆるクラシック音楽入門とのことなのだが、これがかなり面白い。表紙を飾っている15歳のグレン・グールド。これを見て買ってしまったというのが本音なのだけれど。
本来なら次号の917号が並んでいなければならない時期なのだが、なぜか前号が売れ残っていた。
「作曲家ってどんな人?」 というコラムがメチャメチャ笑える。簡単なプロフィールに続けて小タイトル、そして短い解説が続くのだが、たとえばブラームスのタイトルは 「しつこい片思いが名曲を書かせた切ない人生」、ストラヴィンスキーだと 「ココ・シャネルにもひいきされた炎上系」、ドヴォルザークは 「後半生はアメリカでも活躍した、鉄道オタク」。でもベストワンはショスタコーヴィチである。小タイトルだけでなく解説まで引用すると 「体制と反体制のはざまで生きたトリックスター。/ソビエト時代のロシアを代表する天才作曲家。音楽にさまざまな皮肉を込めて体制をおちょくり、鉄のカーテンの内側にいながら常にぎりぎりの作品を書いた (後略)」。いや、もうね、小田島久恵さん最高です。
アンドラーシュ・シフへの川上未映子のインタヴューは、いつもながら真面目で共感する箇所が多い。シフは次のように語っている。
例えば、トルストイの『戦争と平和』は偉大な本ですが、全部読み切る
にはかなりの努力が必要です。ネットで1分間のあらすじを読むだけで
は読書をしたことにはなりません。座って、最初から最後まで一字一句
を全部読み、この長い旅路を経験することで初めて、非常な満足感を得
られるのです。音楽を聴くのも、これに似ていると思います。
そして、
昨今、音楽に関して忍耐力を持って向き合うことが難しくなってきてい
ます。今は皆、すぐに手に入るといった瞬時性を重視します。本を読む
といってもあらすじを2行読んで理解したつもりになったり、YouTube
で音楽を10秒ずつ聴いたり。交響曲やソナタを全部聴くようなことは
稀になってきています。このような感じでは、より深く理解するのは難
しいと思います。
シフは 「偉大な芸術を理解するのはやはり簡単ではなく、そこに近道はないのです」 という。忍耐力を必要とする作品を理解するのは簡単ではないからといって簡単にわかってしまう道ばかりを選んでいると、理解力はどんどん衰えてゆく。お手軽な道にはお手軽な喜びしかないのだ。そしていつの間にか、お手軽な近道しか歩けなくなってしまう。シフは、たとえばゴルトベルク変奏曲についても、全部を通して聴くこと、演奏する場合も繰り返しを省略しないで弾くことに意味があるのだという。
「みんなのMYクラシックピースガイド」 は著名人の 「私のベスト3」 で、企画としてはありきたりだが、そう書いたら恥ずかしいんじゃないの、と思えてしまったり微笑ましい面もあったりして面白い。でもこういうのって、あまりヒネり過ぎるのもダメで素直なチョイスのほうが無難のような気もする。
クラシック入門といいながら初めて知った話題もいろいろあって結構マニアック。というか、私の知識が入門者程度なのだろう。プロコフィエフに短編小説集があるのも知らなかったし、ファスビンダーの《13回の新月のある年に》にマーラーのアダージェットが使われていたのも知らなかった。アダージェットならヴィスコンティという刷り込みがあるので。最近、ファスビンダーの名前をよく聞くが、ファスビンダーはマストのように思う。
よく聞く名前といえば、ジョヴァンニ・ソッリマがそうだが、アルバム《Caravaggio》の影絵のようなジャケット・デザインはチェロを叩きつけようとするシルエットになっていて、ザ・クラッシュの《London Calling》のパロディだ。あ、そうか、と気づくまでに一種の間があった。
でもこの蔓延する現代のペスト、どうなるのだろうか。あまりにも感染力が強いこと、重篤化すると急激に死に至ることなどから感じられる不自然さは、自然由来のものではないのでは、とSF好きな私は妄想してしまうのだが、これって意外に図星なのかもしれない。しかし例えそれが当たっているとしても、真相は決して明らかにされないだろう。
ともかく耳の痛くならないマスクを所望したい。マスクにしてもメガネにしても、耳という 「でっぱり」 に依存していて、デザイン的に全く進歩がないのが不思議。あと、傘もそう。それを使用するために片手がふさがってしまう傘。基本的なかたちは江戸時代から変わっていない。なぜもう少し気のきいた機能的な傘が作れないのだろうか。耳に依存しないメガネ、腕に依存しない傘が作れたらノーベル賞をあげてもいい。といっても私の決められることではないけれど。
BRUTUS No.916 2020年6月1日号 (マガジンハウス)
Teddy Pendergrass/Teddy (BBR)
Giovanni Sollima/Caravaggio (Plankton)
Teddy Pendergrass/Do Me
https://www.youtube.com/watch?v=rso4272f9PI
Teddy Pendergrass/Do Me (live)
https://www.youtube.com/watch?v=XKHHxy_jMBU
8時だョ!全員集合/ヒゲダンス
https://www.youtube.com/watch?v=UYJdhe1RQS0
Wilson Pickett/Don’t Knock My Love (live)
https://www.youtube.com/watch?v=X-03-clz9h4
Andras Schiff/Beethoven: Piano Sonata No.30
https://www.youtube.com/watch?v=15EFrXnj49Q
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/13回の新月のある年に trailer
https://www.youtube.com/watch?v=FI3cVWdr7qQ
https://www.youtube.com/watch?v=rpHw9sQ2ZQs