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『URCレコード読本』を読む・2 [本]

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『URCレコード読本』を読む・1のつづきです。

そしてURC設立のきっかけとなったひとりである高石ともやのインタヴューはフォークというジャンルがまだ確立されていなくて、種々の音楽の混交が彼の原点にあることがよくわかる。

高石の音楽との出会いは小学生のときに観た映画《グレン・ミラー物語》で、だからディキシーランド・ジャズなのだという。それからフォスターの〈オールド・ブラック・ジョー〉を聴き、ハンク・ウィリアムズ、エルヴィス・プレスリーを聴き、こうした音楽は歌謡曲とは全然違うと思ったのだそうである。
兄の持っていた《サン・ジェルマン・デ・プレの詩人たち》という3枚組のLPにボリス・ヴィアンが入っていて憧れだったとも語る。ボリス・ヴィアンは『日々の泡』などで知られる小説家であるが、トランペットも吹いた人である。

デビュー前に、ピート・シーガーが来日したとき、横浜の体育館で前座で5曲歌ったのが高石が歌手になるきっかけだったともいう。

 本番前、とても緊張していて、ピートに 「ギター1本でどうやったらい
 いんですか?」 と訊いたら、通訳の人が 「誠実にやりなさいって言って
 ます」 って (笑)。(p.042)

高石がビクターからリリースした最初のレコードは、しかし彼にとってあまり気に入らない録音だった。それはまだ音楽づくりのシステムが旧態依然の体質だったからだという。しかし東芝でのフォーク・クルセダースと高嶋弘之はそうした時代の中で革新的だったのだという (高嶋弘之は当時の東芝音楽工業のディレクターでビートルズの日本招聘時のキーマンとして知られる)。

 同じ頃、東芝ではフォーク・クルセダースのレコーディングで高嶋 (弘
 之) ディレクターが生ギターの音量をギュンと上げてくれたから、加藤
 和彦が出来たんですよね。ビクターだったらとんでもない。生ギターな
 んかバックバンドの後ろの方というのが当たり前の時代に、あれをやっ
 た。フォークルがやらなかったら、日本の音楽の進歩が何年も遅れてい
 たでしょうね。(p.042)

それ以外にも、高石ともやと森進一のふたりで三沢あけみの前座をやったとか、高石の回想には、まさに音楽がまだ未分化だった時代であることを思わせられる話が多い。

当時のシーンの中で一目置いていた人は? と訊かれて高石は、加藤和彦と中川五郎だと答える。中川はピート・シーガーの歌った〈腰まで泥まみれ〉(Waist Deep in the Big Muddy, 1966) にすぐ訳詞を付けて歌っていたのだそうだが、それは単に英語力云々というような問題でなく、その思想性への共鳴にあると思われる。
一方でURCの創設者である秦政明について高石は 「根は興業屋でしたね」 とこきおろしている。
また彼のグループ、ナターシャ・セブンに後から加入した木田高介への評価も高い (p.044)。木田高介はジャックスのメンバーだったが、マルチ・プレイヤーであり、アレンジャーとしても優れていた。木田の特質はどんなスタイルの音楽にもフレキシブルに対応できる才能であり、この高石のインタヴューを読んでいて知ったのだが、かぐや姫の〈神田川〉を編曲したのも木田だったのだという。しかし、残念ながら彼は事故で早世した。

だがミュージシャンの他のミュージシャンへの評価は千差万別であり、たとえば岡林信康は〈それで自由になったのかい〉のレコーディング時、「ジャックスのドラムの人に叩いてもらったが、ジャズっぽい人だからイメージが違ってしまった」 と述べている (p.047)。ジャックスのドラムは時期からみて、たぶん、つのだ☆ひろであるが、ジャズっぽいのかなぁ、とちょっと不思議だ。もっとも当時のつのだは渡辺貞夫とも演奏していたのだから、先入観でジャズだと思ってしまったのかもしれない。そしてその後、岡林のバックをつとめたのがはっぴいえんどである。

高石ともやが尊敬すると言っていた中川五郎へのインタヴューが素晴らしい。実は私は、中川五郎という人は名前しか知らなかった。だが彼がここで語っている精神性に心打たれる。中川は中学時代、グループサウンズのオックスというグループのギタリスト岡田志郎と音楽仲間だったのだという。岡田はどんな曲でも弾く、ドラムも叩くというマルチなプレイヤーで、だが中川は 「僕はそんなに音楽が得意じゃなかった」 と謙遜する (p.049)。
そして中川はこう語っている。

 ……フォークはそんなに楽器が上手じゃなくても、やりたいことさえあ
 れば、自分なりのやり方でやればいいんだなと思って。だから僕もやり
 たいと思ったし、僕にはビートルズのコピーとかバンドを組むとか、そ
 ういう才能がなかったんです。単純にフォーク=素人でもできる、とい
 うところに飛びついたというか、これだったら僕にもできるかな、なん
 て思った。(p.049)

これに対してインタヴューアーは 「動機だけ聞いていると、パンク・ロックみたいですね」 と言っている。原初的情動はまさにその通りだ。中川はレコーディングに関して、このようにも語る。

 ただ僕の中では、今でもそうですけど、レコードを作る時に、ちゃんと
 したものを作ろうとか、作りたいとかいう意識はあまりないんです。普
 段やっていることが記録になればいいかなって、本来の意味でのレコー
 ドを作るような姿勢の方が強いので、一個一個のレコードにあまり強い
 思い入れとか、こういう作品にしようとかいうことがないんですよ。
 (p.053)。

中川五郎は現役でライヴ活動を続けているとのことだが、今の時期はどうなのだろうか。かえすがえすも憎き疫禍である。

さて、鈴木惣一郎がショックを受けたという、そして小沢健二によって発掘されたという金延幸子である。金延幸子のアルバムは《み空》1枚しかない。しかも、そのレコードが発売されないうちに彼女は、ポール・ウィリアムスという人と結婚して海外に移り住んでしまった。だが《み空》はカルト的人気があり、今回発売された国内CDより海外盤のほうが発売日は早い。
金延幸子のかなり齢の離れた姉は宝塚歌劇団のスター淀かほるだとのこと。彼女が最初に興味を持ったのはイギリス系のロックで、ビートルズ、アニマルズ、ストーンズ、キンクス、ハーマンズ・ハーミッツ、ピーター&ゴードンといった音楽を聴いていた。《ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!》を映画館に観に行ったら、ビートルズの人気が出る前で、まだ観客が全然いなかったのだという。
西岡たかしがジョニ・ミッチェルのレコードを貸してくれて、聴くと 「取りつかれたような不思議なメロディ」 だったという (p.093)。西岡はジョニと西岡に共通する部分があると見ていた。

金延は愚というグループを経てソロとなったが、「ソロになってから黒テントのオープニングで何ヵ月か歌って……」、「はっぴいえんどを初めて観たのも黒テントで、かっこいいなと思って凄く影響されました。彼らのレコードを聴くより先に、生で観ましたよ」 (p.095) と語っているが、金延やはっぴいえんどが68/71とそのようなかかわりがあったということに驚く。吉田美奈子も黒テントでひとりピアノを弾いて歌っていたとのこと。
そして金延はビクターでまずシングル盤を出すが、プロデュースした大瀧詠一とは気が合わなかったそうで、アルバムは細野晴臣に依頼することになった。ここにも登場してくるはっぴいえんどである。

だが金延幸子の歌はURCの中では異質であった。

 URCのレコードってソーシャル・ステートメントとか、メッセージの方
 が先でしょ。私の曲はメッセージでもない、まったく違うような、どこ
 に入れたらいいかわからないタイプのものだったので、それもあってず
 っと後回しにされてたと思うんですよね。それが、はっぴいえんどの
 『ゆでめん』が出たことによって空気が変わって、じゃあ私のアルバム
 もやりましょうか、ということにようやくなってきた感じでした。
 (p.095)

アルバムタイトルに関して、金延は 「空」 への思いを語っている。

 それと、私は空が好きなんですよ。小さい頃はうちに物凄い小さい窓が
 あって、そこから空をじーっと見つめてたんです。そうするといろんな
 想像がいっぱい出てくる。(p.096)

「み空」 というタイトルから連想するのは、私の場合、ハイドンの《天地創造》の冒頭の訳詞 「み空は語る神の栄誉」 であるが、金延によれば、複数の意味がこめられているらしい。なによりも 「みーそーら」 は 「eーgーa」 でもあるのだ。

夫であったポール・ウィリアムスとは結局1986年に離婚するが、彼は金延が音楽を続けることを望まなかったのだという。だがポールの友人にSF作家のフィリップ・K・ディックがいて、ディックは金延のアルバムを聴き、「もったいないから音楽をやりなさい」 と言ってくれたのだという。ディックはアメリカで一番最初の《み空》のファンだったとも。(p.100)
その後、自主制作のシングルを出したときもスポンサーになってくれて、アルバムを出そうかと思っていた頃、ディックは倒れてしまったのだそうである。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が《ブレードランナー》として映画化されて、まさに彼の名前がよく知られるようになってきた時期であった。

現在、金延幸子と交流のあるギタリスト、スティーヴ・ガンのインタヴューを読むと、《み空》が時代を超えた性質を持っているアルバムであることを再認識する。彼は細野晴臣のファンなのだそうだが、それ以外の日本のミュージシャンで好きなのは? という問いに対して、裸のラリーズ、高柳昌行、タージ・マハール旅行団などの名前をあげている。このアヴァンギャルドさがすごい。

最後に蛇足でしかないが私のURCとそれに関連する体験と記憶について。はっぴいえんどは、さすがにそういうジャンルに詳しい友人がいてレコードを貸してもらった。だから全く知らないわけではないのだが、聴くことに関して積極的だったかというとそうでもなくて、当時のファースト・インプレッションとしては 「のろいな」 というふうに感じていたのかもしれない。たぶん、その頃はスピードこそが第一だと思っていたように思う。だからポスト・はっぴいえんどの変遷もほとんど知らなかったし、ましてフォーク系の音楽はほとんど聴いたことがなかった。その頃の音楽嗜好とはかけ離れていたのだろう。
だが〈腰まで泥まみれ〉という曲にだけ、かすかな記憶がある。私の通っていた高校には中庭のような空間があって、そこに古びた部室の建物があった。その一室に気の合う人たちがいて、私はその部の部員でもないのにときどき出入りしていた。ちなみに音楽関係の部ではない。
ひとりギターのうまい人がいて、その部室の中でだったか、それともどこか他の場所であったのか忘れてしまったが、その人の歌った歌が〈腰まで泥まみれ〉だったのだ。唐突で、私にはその歌の歌詞の意味がそのときはよくわからなかった。わからなかったけれど、あまりにリアルで、そんな曲をなぜその人が知っているのかが謎だった。これはたぶんベトナム戦争に関する歌なのだということは朧げにわかったが、《地獄の黙示録》を観たときもそのストーリーがどうしてそのようになっているのかが同様によくわからなかった。もちろんそのときはわかったようなフリをしていたのだが、ピート・シーガーとフランシス・コッポラとベトナムとアメリカの歴史とがどのように関連しているのかがわかったのはもっとずっと後になってからだった。

蛇足の蛇足として、小杉武久氏とは、あるライヴの後しばらくお話を伺ったことがある。その音楽のアヴァンギャルドさとは全く異なり、音楽に関してとても真摯な姿勢を感じたし、音楽というものがそのアプローチによってどのくらい深くまでいけるものなのかということを反芻することになった。私が尊敬する音楽家のひとりである。


URCレコード読本 (シンコーミュージック)
URCレコード読本




金延幸子/み空
https://www.youtube.com/watch?v=-0w6GTjzf4Q

金延幸子/青い魚
https://www.youtube.com/watch?v=YHGjp8csyD0

中川五郎/腰まで泥まみれ
https://www.youtube.com/watch?v=PBFpp0mQ4xk
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