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柴田南雄『音楽の理解』を読む・2 [本]

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柴田南雄 (1952)

柴田南雄『音楽の理解』を読む (→2017年08月27日ブログ) のつづきである。

柴田によれば1750年頃から1950年頃までは交響曲の時代であったとともに 「和声音楽の時代」 であって、それはいわゆる〈古典派・ロマン派〉の時代である。そして古典派とロマン派は地続きであるが (その境目は1810年頃であるとする)、古典派以前のバロック時代との間には海があり、ロマン派以降の現代との間にも広い海があって、交響曲とは〈古典派・ロマン派〉という島の特産だとするのだ (p.85)。

さらに交響曲を時代的に分けるのならば、初期の、主として3楽章形式の交響曲、ベートーヴェンを頂点とする4楽章の古典派交響曲、マーラーを頂点とするロマン派の交響曲、そして20世紀・第1次大戦以後の交響曲の4つであるとする。

シンフォニーという楽曲名称は、まず16世紀頃の無伴奏の合唱曲にあらわれ、シンフォニエーという名称を伴う楽曲がジョバンニ・ガブリエリ、ハインリヒ・シュッツなどに見ることができるそうだが、ごく一般的にはルカ・マレンツィオ、ジュリオ・カッチーニ、クラウディオ・モンテヴェルディなどのオラトリオやオペラにおける器楽の間奏曲をシンフォニアと呼んだことにより楽曲名として普遍化されたようである。
一方で、ソナタの第1楽章をシンフォニアと称呼したり、オペラの序曲をシンフォニアとする場合もあった。アレッサンドロ・スカルラッティの急・緩・急、あるいは緩・急・緩・急といった速度変化や、バルダッサーレ・ガルッピの主題とその展開の様相などにも見られるように、次第に形式は複雑になり近代化してゆく。
また、バロック末期のコンチェルト様式の中で、特定のソロ楽器が目立っていない様式のコンチェルトをシンフォニーの萌芽と見ることも可能だそうである (p.86)。

初期の交響曲とは3楽章形式で3声~4声の弦楽合奏であった。その例として、やや時代を下るが、モーツァルトのディヴェルティメントD-dur K136 (125a)、B-dur K137 (125b)、F-dur K138 (125c) をあげている。というより一般的にはジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニの77曲のシンフォニアがその初期形式の典型と考えたほうがよいだろう、ともいう。
やがてヴィーンやマンハイム楽派において、第3楽章にメヌエットを置くような単純なバロック期的配置から抜け出て、かつオーボエ、ホルンなどを弦楽合奏にプラスした声部の作品が出始める。それらを主導したのはヨハン・シュタミッツであり、バッハの息子たちであった。

古典派交響曲は最も典型的な交響曲としての体裁をもっているが、具体的にはハイドンの後期、そしてモーツァルトの第35番以降、そしてベートーヴェンであると規定する。
ここで柴田の非常に明確な古典派交響曲理解のための指摘がある。

 古典派の交響曲は自分でオーケストラに入って何か楽器を奏く、という
 体験以上にそれらをよりよく知る方法はないと、思われることだ。(p.94)

これはどういうことかというと、バロックを引き摺ったいわゆる初期の交響曲は3~8声くらいで、それは平面で鳴っている音に過ぎないが、古典派の2管編成になると、弦4、木管8、金管4の合計16声部となり音は立体的に呼応する。その場合、オーケストラの外から聴いているのと、その内部で自身が当事者 (演奏者) となって音を聴くのとでは全く異なるというのである。
それはベートーヴェン当時の大体30人くらいのオーケストラにおいてのみ可能であり、近代の大人数オーケストラになってしまうと、横の連携は稀薄で、指揮者とオーケストラという対立関係に変化してしまう。

 「交響曲」 の名のもとに奏者たちが真に有機的に連繋を保って生き生きと
 演奏できるのは、古典派の諸曲を今日のように拡大された編成によって
 指揮者が統率の妙技を披露するのでなく、三十人前後の人数で自発的に
 アンサンブルをする時にのみ実現可能だ。(p.95)

つまり最近の、ピリオド楽器による人数を抑えたオーケストラこそが、古典派交響曲の音そのものの論理構造が一番わかりやすいというのである。柴田がこれを書いた1974年頃は楽器数がインフレ化したビッグ・オーケストラが主流であり、現在のように、ピリオド楽器の使用や小編成に絞って楽曲生成の頃のオリジナル編成を尊重するという方法論に関しては看過されていた時代である。それを柴田が的確に思い描いているのは、先見の明というよりは、現場の経験値から発言されたことであるように思える。

ロマン派の交響曲に関しては、ベルリオーズの特異性を述べながらも、最も特徴的なのはマーラーの作品であるとする。マーラーの創作の原点が哲学的であり漠然としたテーマ設定であることはともかくとして、技法的に見ても、楽章が古典的4楽章では必ずしもないこと、そして各楽章間の調性の関連性の稀薄さなどがあげられるとする。
むしろ交響曲以外の自身の作品からの引用などによる、彼の全作品の相互的な関連性が強いことが特徴的だというのである。マーラーの前には、シベリウスもまた、伝統的な書法に過ぎないという逸話も述べられている。

ロマン派以後の20世紀の交響曲は、ショスタコーヴィチによる交響曲がその代表的なもので、しかも柴田に言わせれば 「まったく時代おくれになった 「交響曲」 の最後の最も有力な担い手であった」 (p.100) と形容するのは当然のなりゆきであり、仕方のないことである。
シェーンベルクもバルトークも交響曲を1曲も書かなかったし、メシアンの《トゥーランガリア交響曲》は交響曲の範疇にないとするのだ。

この章における柴田の趣旨を私なりに類推すると、交響曲の時代は、爬虫類の中で一時期だけに突出して恐竜の跋扈した時代のようであり、戦艦大和的な無用の長物的外構としてイメージしているように思える。古典派とロマン派を乱暴とも思えるほどに十把一絡げにしてしまっているのも、常識的あるいは保守的古典派音楽信奉者へのアンチテーゼとして読み取ることができる。
しかし、このように交響曲は死んだと言いながら、柴田南雄は1974年に《コンソート・オブ・オーケストラ》で尾高賞を受賞し、翌1975年には合唱交響曲という名称ではありながらも、一応、交響曲と名づけられた《ゆく河の流れは絶えずして》を作曲している。

その1975年は武満徹が《カトレーン》を発表した年でもあるが、《カトレーン》はメシアンへのオマージュでもあり、西欧伝統音楽への回帰であるとともに、アヴァンギャルドからトラディショナルへと武満が方向を定めた年でもある。同じ頃、ピエール・ブーレーズは《リチュエル》を書いているが、このあたりからの歴史は音楽が (特に現代音楽が、その 「現代」 を標榜するポジションから) 変質していく一端を表しているようにも思えて、歴史というものの面白さと残酷さを垣間見る。

レオナンやペロタン (レオニヌスやペロティヌス) のようなルネサンス期の音楽に逃避してしまうのはインテリの韜晦の一方法であって、それはリチャード・パワーズの小説にも描かれているし (→2015年10月09日ブログ)、メシアンへのシンパシィと一致することも同様である。すでに時代の要請は冒険から遠い位置に存在していたのだ。
そしてそれから40年以上過ぎた現代の状況はどうなのだろう。世界の藻海は腐敗しているのかもしれないし、たゆたう船ばかりで、操舵者は絶えたままである。

(引用ページ数は青土社・1978年版に拠る)


柴田南雄/音楽の理解 (青土社)
音楽の理解




柴田南雄著作集 第2巻 (国書刊行会)
柴田南雄著作集 第2巻




Mito Chamber Orchestra/Mozart: Devertimento K136
https://www.youtube.com/watch?v=Cx5L8gBi9Bs
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