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humide あるいは大人になったパソコン ― 宇多田ヒカル・インタヴュー [本]

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宇多田ヒカルwebsiteより

ライダースジャケットというのは本来、バイクを乗るときのためのハードな服だったはずなのだが、どんどんアレンジされてファッションアイテムのひとつと変化してしまった。それは軍用であったトレンチコートがほとんどレディースファッションとなってしまったのに似ている。
『ROCKIN’ON JAPAN』今月号の表紙を飾るAcneのライダースを着た宇多田ヒカルは、でもメンズライクとレディースライクの中間あたりにとどまっていて、その黒一色で限定された禁欲のなかに多彩な色を秘めている。

渋谷陽一は今回のインタヴューをオファーするのに、宇多田に手紙を書いたのだという。メールではなくて手紙というところに意味がある。

2人の話はアルバム《Fantôme》を中心に展開するが、母親である藤圭子の死とその前後について、渋谷の聞き方は的確で、それでいて節制されていてこころよい。
母親の死があり、そして自分の結婚・出産について、そして休んでいた間のこと、再び音楽を作らなくちゃ、と自覚したことなど、それらのことが明らかにされていく。いつか母親にそういうことが起こるのではないかという予感をずっと持ち続けていたことがさらりと語られるが、その持続したままの不安感を思うとそれはとても辛く、心が曇ったままであるはずだ。

渋谷は《Fantôme》がリリースされたとき、業界的には地味という評価があったけれどそれは違うのでは、と思っていたし、リスナーのほうが正しく宇多田のメッセージを感じ取ったというが、一聴、派手さがないことがすなわち地味という感覚でしか受け取れないというのは、音楽をどのあたりの層で受け取っているかによるのだ。ほんの表層でしかないのか、もっとずっと深層のところまで聴こうとするのか、それはポップキャンディのような音楽だけを聴いていたのではわからない。

話のなかでとりあげられている〈真夏の通り雨〉はやはり存在しなくなった母を最も意識した内容であるし、そしてリードの部分で渋谷によって語られているように、いままでの歌詞のなかの二人称の 「君」 が 「あなた」 にかわったこと、それが重要であり、宇多田にとっての母の死の重さをあらわしているという。
渋谷はいままでの宇多田の曲との相違として、いままでの曲は乾いていた砂漠のような印象でシュールだったのだけれど、それが森のなかのような湿り気のある曲想になっていると突く。

曲想に湿度/生気があるということはとても共感できる部分で、私の感覚ではそれはwetとは異なりフランス語でいうhumide (ユミド) なイメージで、豊潤さと濃密さを秘めている。それは黒のなかに最も多彩な色彩が内在していることに等しい。その湿り気と日本語との親和性についても宇多田は熟知しているようだ。

また渋谷がKOHHの参加について、歌詞の内容を宇多田がある程度ディレクションしたのかと訊いたのに対し、それは無いのだと宇多田は答えている。何も言わずにおまかせにして、でもそのように寄り添ってくれた歌詞が出て来たことがうれしいと彼女はいう。
宇多田は休んでいる間の日常的な生活のなかで、たとえば男声の歌を歌うのが声域も広くて発声練習になるなどと言っているが、フランク・オーシャンいいねえ、と渋谷がいうように、その音楽的嗜好の延長線上にKOHHを選択したのだとも思える。

渋谷は宇多田の才能がいままでAIのように動いていたのだけれど、そのAIが心を持ったというのだが、それに対して宇多田は 「パソコンも大人になったというか」 と切り返しているが、パソコンという言葉から私が連想したのは、全く違った意味ではあるのだけれど『ちょびっツ』のそれであった。ごく日本的な家屋のなかに張り巡らされた高度な配線と少女のかたちをしたパソコン。それは未来への啓示でもあり皮肉でもあったが、パソコンに哀しみの表情のあることが胸をうつ。それが乾いた不完全なものであったとしても。

このところ、夏だというのに雨続きだ。渋谷は〈真夏の通り雨〉を何度も聴いたというが、夏がさらっていった命は、しかし忘却とはならずに心にとどまるのか、それともそれもそのうち風化してしまうのか、どちらにしても雨はすべてを洗い流す。

(宇多田のアルバム《Fantôme》についての拙文は→2016年10月01日ブログ)


ロッキング・オン・ジャパン 2017年09月号 (ロッキングオン)
ロッキング・オン・ジャパン 2017年 09 月号 [雑誌]




宇多田ヒカル/Fantôme (Universal Music)
Fantôme




宇多田ヒカル/忘却 featuring KOHH
https://www.youtube.com/watch?v=SmaeIlqqNCM

宇多田ヒカル/真夏の通り雨
https://www.youtube.com/watch?v=f_M3V4C8nWY

宇多田ヒカル/Forevermore
https://www.youtube.com/watch?v=sLlYBsZSAmU

宇多田ヒカル/花束を君に
https://www.youtube.com/watch?v=yCZFof7Y0tQ

宇多田ヒカル/二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎
https://www.youtube.com/watch?v=UPdlfIhzPEo
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