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立花隆『武満徹・音楽創造への旅』を読む・2 [本]

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瀧口修造とアンドレ・ブルトン (1958)

立花隆『武満徹・音楽創造への旅』に関する感想のつづきである。
(1は→2017年05月11日ブログ) だが、つづきであってつづきではない。

この本の成立過程は、1にも書いたように、立花が武満に、これまでの彼の歴史を訊ねるというかたちで行われたインタヴューを元にしている。それはどんどん溜まるカードのように堆積し、ひとつひとつはそれぞれの輝きを持っているが、関連性はない。すべてが揃ったところで、それを整理していけば武満の伝記ができあがる、というヴィジョンがあったのだろうか。それが完遂されないうちに突然、武満は亡くなってしまった。そのため本の後半である第II部はさらにサンプリング度を増し、カードはより多く堆積した。そしてそのまま、時間が経ってしまったのだ。

しかしそれで終わりにしてしまったのでは、全てのカードが死んでしまう。だから、順不同で未整理であっても、それらをすべて開示しようと立花は思ったのである。これは貴重なデータであり、それをもとにして、誰か武満論を書く人がいてもよいのではないか、そしてその際のデータとして使える部分があるのではないか、ということであると思う。したがって立花の文章に構築性が無いという批判はあたらない。

ただ、そうしたものであるからということだけでなく、語られている内容がすべて真実であるかどうかはわからない。本人が言った話だとしても記憶違いもあるかもしれないし、実際に武満の記憶違いは幾つか確実に散見される (したがって武満の多くの著作のなかの、過去の記憶を記述した部分も同様にすべてを信用することはできない)。
ある日突然、武満のところへ黛敏郎がピアノを送ってきたという話も、美談として伝えられるが (p.199)、黛に言わせればそんなことはないのだという。そんなことはないのだとしても、当時、ピアノがないと不便だろうから送ったなどということは、今考えるよりも大変な好意だとは思うが、脚色が強くなり過ぎていたことは否めない。
また黛自身は、ピアノが1台余っていたから送ったのだ、と言っているがそれは真実かどうかわからない。たぶんそれは黛の照れであって、武満を思う心が感じられる話である。

思わずカードという比喩を使ってしまったが、それはつまりエピソードの集積なのであって、面白い話には事欠かない。だがそれらが集積した結果が示されていないのが (というか示そうとはしなかったのだが) 物足りないといえば物足りないのだが、すべてはマテリアルであり並列であることに意味があると思えばそう思えなくもない。
ただ、そうした話題はTVのクイズ番組の問題と解答みたいなものであって、TVをオフすると同時に忘れてしまうように、実体的な印象に乏しい。

でも、とりあえず印象に残ったエピソードだけ幾つか列挙してみよう。

まず武満には初期の音楽的体験としての古典派やロマン派といった西欧伝統音楽への入れ込みというのが無く、最初から現代音楽だったこと (p.317)。それはたしかに少し特異な音楽遍歴かもしれない。

ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプトはジャズ畑だけでなく、武満にとっても非常に影響を与えた。武満は非常に早い時期にこの概念を知ったという。1961年、来日したフォークグループ、キングストン・トリオのベーシストが武満にリディアン・クロマティックの原稿コピーを置いていったというのだ (p.366)。武満は後年、1988年6月号の『へるめす』でラッセルと対談をしているというが未読である。
パントーナリティとアトーナリティについて (p.369) は、船山隆の武満論に関する記事ですでに周知のことであったが、船山の解説のほうがこの件については詳しいので繰り返さない (船山隆の武満論については→2014年07月16日ブログ)。
また、当然ながらジャズシーンにおいても繰り返し言及されるシステムであるが、ビル・エヴァンスのラッセル・オーケストラに関するアプローチのこともすでに書いた (→2014年10月09日ブログ)。

そしてジャズのインプロヴィゼーションに関しての武満の言及として、

 ジャズの即興演奏が即興演奏といいながら、一時期、単にコードをルー
 チンにパラフレーズするだけの慣用句の積み重ねになってしまっていた
 んです。どんな曲であろうと、コードさえ同じなら、同じようなことを
 やってしまう。(p.371)

とあるが、これはマイク・モラスキーの記事のなかでも取り上げた通りである (→2017年08月10日ブログ)。リー・コニッツはそうしたストック・フレーズは真のインプロヴィゼーションではないと言ったが、しかし全く無から生じるインプロヴィゼーションというのはあり得ないはずである。手クセとして刷り込まれているフレーズはたとえ意識が混濁していても演奏することが可能なのはチャーリー・パーカーの逸話でも有名であるし、それはシュルレアリスムの自動筆記という手法があり得るのかという問題とも通底するはずだ。ネコがピアノの鍵盤の上を歩いたらそれはインプロヴィゼーションとなるか、ということを確か山下洋輔が書いていたが、どこに書いてあったのか忘れてしまった。

ジョン・ケージが初めて日本に紹介されたのは1961年8月、大阪の御堂会館における二十世紀音楽研究所の第4回現代音楽祭においてであったという (p.395)。
武満はケージから大きな影響を受けたが、でも音楽的には一致しないし、ケージは作品としては面白くないとも言っている (p.428)。対してケージは 「武満は 「美」 に関心を持ちすぎている」 と反撃していたとのことだ (p.429)。ケージと鈴木大拙についての交流と影響についての言及もあるが (p.446)、今福龍太『書物変身譚』において私にはすでに既知のことであった (→2014年09月15日ブログ)。
ケージについてはあまりに多くの文献等があるのでその全容を理解するのは困難であるが、音楽というよりイヴェント/パフォーマンスであることも多く、そのコンセプトが優先されてしまっている傾向があると思われる。それこそがケージといえばそれまでであるが。

ロシア (当時のソ連) の作曲家のオーケストレーションに関する勉強の話は面白かった。シュニトケやグバイドゥーリナは、あの執拗で威圧的な検閲のなかでどうやってオーケストレーションを習得したのかというと、それは映画音楽を書いたからだというのである。当時のソ連ではジダーノフ批判による不可解な弾圧があり、ショスタコーヴィチなどがそれに苦吟し対抗したのは有名な話である。映画に関しても当局の検閲があったのだが、映画音楽に関する検閲はなかったのだそうで、だからどんな大胆な実験をしてもよかったのだというのである (p.462)。

《ノヴェンバー・ステップス》で琵琶を弾いた鶴田錦史 (1911-1995) が女性であったという話は、知らなかったのでいまさらながらびっくりした。鶴田は資産家で亀戸駅前でナイトクラブを経営していたが、武満の音楽にのめり込み、その結果ほとんど資産を無くしてしまったのだという (p.480)。鶴田の数奇ともいえる生涯を追った佐宮圭『さわり』(2011) という本もあるが未読である。

と書いていけばきりがないのだが、つまりそうした数々の逸話は立花によって引き出された (言葉は悪いが) 一種の週刊誌的話題であって、その面白さは限りないが、音楽そのものではなくその周囲をぐるぐる回っているエピソードのように感じられる。

音楽的な話題で興味をひかれたのは《鳥は星形の庭に降りる》(1977) における、星形を象徴する5つの音、C♯、F♭、F♯、A♭、B♯についての解説である (p.614)。この5音は武満の創案した独自のペンタトニック (p.60) なのだそうだが、真ん中のF♯は核音 (ヌクレア) で、それは半音 (セミトーン) で考えたオクターヴの中央に位置する音なのである。
武満は《鳥は星形の庭に降りる》について 「私の内に突然顕れる不定形な情動の縁、夢の縁 [へり] を透視したいと思う」 という (p.656)。そしてケチャックやターラについて言及する。

《ノヴェンバー・ステップス》以後、武満はむしろ西欧伝統音楽への回帰のような、いわゆる偶然性とかエスニックな楽器の使用からはむしろ離れるような伝統への回帰ともいえる傾向が見られたが、ずっと民族的なものへの関心は持続し、たとえばガムランを聴いたときのショックを語っている。それは響きの明るさと官能性を持っていて、なぜなら彼らは神を持つ民族だからであって、対して日本の音楽は神を持たない民族であるという思いを持つ (p.540)。
一方で、晩年の武満はスクエアな西欧伝統音楽に開眼し、ブラームスやフォーレ、モーツァルトを見つめ直している (p.605、p.664、p.742)。西洋音楽、日本の音楽、そして日本以外のアジアの音楽、そうしたなかで武満の心は揺れていたように思える。
武満にとって《ノヴェンバー・ステップス》はそのピークだったのだろうか。その後の作品において技法的な、いわゆる方法論は深化する。しかし挑戦ということでいうのならば、《ノヴェンバー・ステップス》の成功以降、武満は追う立場から追われる立場に変化した。名声を得たかわりに何でも試行できる精神性はより自由になったように見えながら、実は束縛が存在する。

しかし、こうして辿ってきて何か私のなかでひっかかっているものがあって、それは瀧口修造のことである。瀧口に対して武満は、父親であるかのような信頼感を抱いていたというが、しかし具体的な2人の関連性についての話題はこの本にはほとんどない。
武満は瀧口からピエール・ブーレーズの名前を知ったという (p.116)。それはその頃の日本においては突出した尖鋭的情報であったはずだ。

《マージナリア》(1976) は瀧口の 「余白に書く」 (marginalia) に連動した武満の作品であるが、瀧口は晩年、マスメディアを対象とした評論的な文章を書かなくなり、ごく小さなmarginalia的な創作に終始したのだという。そこに瀧口の世相への批判と対抗の精神を感じる。
でありながら瀧口の、正面切った音楽に対する発言は少ない。それはなぜなのだろうか。アンドレ・ブルトンはシュルレアリスム運動のなかで、音楽のポジションをほとんど認めなかった。それは単純に音楽が嫌いとか苦手とかではなくて、もっと深い意味があったように思える。排除したのではなく、取り入れることができなかったように私には思えるのだが、これは仮説の端緒であり、私の思考は常に演繹的であり、まだ具体的な姿を持たない。

瀧口の全集『コレクション瀧口修造』発刊時の販促パンフレットがあって、そのなかに1958年、ブルトンを訪問した瀧口が、ブルトンの書斎で2人で話している写真がある。そこから醸し出されるのは静謐の予感だけで音楽はない。

     *

さて、今回も河野悦子からのオマケの誤植チェックであるが、734ページ下段のノド側に、行が版面より1行ハミ出している。誤植とかなんとかいう範疇を越えていて、この苦しまぎれさは結構笑える。私のは第1刷だがその後、修正された可能性は、たぶんないでしょうね。


立花隆/武満徹・音楽創造への旅 (文藝春秋)
武満徹・音楽創造への旅

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