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薔薇色の脚と偽の夜空 ― 山尾悠子 「夢の棲む街」 を読む [本]

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中川多理人形展 Fille dans l’histoire より

話題があったのに触発されて山尾悠子の『夢の遠近法』を読んでみた。ちくま文庫では『増補 夢の遠近法』というタイトルになっている。日本の幻想文学においてカルト的人気を持つとのこと。

この本の冒頭に収録されている 「夢の棲む街」 は山尾悠子の最初の作品で、『SFマガジン』1976年7月号 (第212号) が初出である。第212号は手元にあるのだが読んだ記憶がない。というか読んだのだとしても、すでに忘却の彼方である。

作品構造は非常に明快で、描写は絵画的であり暴力的だが美しい。主人公あるいは狂言回しと思われるのは街の噂の運び屋〈夢喰い虫〉のバクである。〈夢喰い虫〉は街に噂を流さなければならないのだが、バクの所属していた劇場は閉鎖されていて、噂の出所が無い。それなら他の場所に移ればよさそうなものなのだが、バクはまだ劇場に固執しているようなのである。
劇場はフリークスの坩堝で、演出家が育て上げる〈薔薇色の脚〉とは脚へのフェティシズムが肥大化した脚だけが発達した畸形であり、それら脚たちの元は乞食や浮浪者や街娼であるという。このへんの設定は寺山修司の天井桟敷的である。

フリークスはそれだけにとどまらず、籠の中の侏儒や、娼館に棲息する白い翼の天使たち、しかも天使たちは不潔な環境の中でひしめきあっていて、増え過ぎてシャム双子のように接合していたりする。
街の夜空はプラネタリウムのようで、実際の夜空でなく、作られた夜空のようである。そして街の造型そのものが幾何学的で人工的である。その中心となるのが劇場なのである。星座は 「街を中心とした巨大な半球型の空の平面上に属するもの」 (p.33) なのだ。
さらに空から大量の羽が降ってきて窒息死したり、性的な暗喩を持った人魚の存在があきらかになったりする。
最後のシーンでは劇場に街の全ての人々が集められ、そこで壊滅的な騒動が生起し、そして沈黙が支配するときが来るのだが、提示されるイメージはクリアで、かつ何らかのカリカチュアとも解釈できる。でもそう考えないほうがよいのだろう。

劇場という空間は独特の幻想を醸し出す。それはたとえば高野史緒の『ムジカ・マキーナ』(1995) でもそうだったし、トマス・M・ディッシュの『歌の翼に』(On Wings of Song, 1978) でもそうだし、さらにやや外れてしまうかもしれないがエラリー・クイーンの『ローマ帽子の謎』(The Roman Hat Mystery, 1929) もそうである。しかし 「夢の棲む街」 では劇場もまた幾何学的舞台設定としてのアイテムのひとつであって、短編でもあるため、高野やディッシュ作品のような膨らみを持たない。持たないゆえに、より絵画的でありシュルレアリスティクである。(高野史緒に関しては→2016年05月29日ブログ、ディッシュに関しては→2014年02月01日ブログを参照)

フリークスのイマジネーションが最も効果的に描かれた小説として、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』(El obsceno pájaro de la noche, 1970) が挙げられるが、1976年時点でドノソは日本では翻訳されておらず知られてもいないので、山尾の幻想は独自の感性から醸し出されたものである。(ドノソに関してはONE PIECE展の記事の中に少し書いた→2012年06月12日ブログ)

こうした奇矯な幻想は、稲垣足穂の幻想がごく優しい雰囲気と思えてしまうほどに刺激的で強烈であるが、ただ、偽の夜空を出没させるような空間認識には足穂の影響もあるのかもしれない、と思わせる。また全てが幻想の中で、フラムスティードの星球図譜 (Atlas Coelestis, 1729) だけ具体的なのが面白い (足穂の全集を比較すると現代思潮社版1969-1970と筑摩書房版2000-2001では、筑摩版は柔和過ぎる装丁のような気もする。時代の変遷がそのような変化をもたらしたのかもしれないが)。
世界そのものが書き割りであるという幻想はSF作品にはよく見られるが、書き割りの中心が劇場というのは二重の意味での偽りを意味する。

バクという主人公は〈夢喰い虫〉だから、夢を食う〈獏〉というネーミングなのだろうが、別役実の1972年の戯曲に〈獏:もしくは断食芸人〉がある。末木利文演出で五月舎による公演が行われたという記録がある。断食芸人はカフカのそれであり、カフカの原作から触発されたと思われるこの戯曲自体を私はよく知らないのだが、カフカと獏というこの魅力的なタッグのタイトルを山尾が知っていた可能性はあるかもしれない。

山尾は1985年以降には一時作品の発表が途絶えたため、伝説的な作家となったとwikiの記述にあるが、同じ頃に出現し同じ頃に不在となった少女マンガ家に内田善美がいる。内田は1974年にデビューし、1986年に上梓完結した『星の時計のLiddell』でその活動がほぼ途絶えている。山尾と内田には何の関連性もないのだが、1975年~85年あたりに、傾向は違うけれどどちらもカルトな作品が出現していた暗合の不思議を思うのである。


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山尾悠子


山尾悠子/増補 夢の遠近法 (筑摩書房)
増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)




ホセ・ドノソ/夜のみだらな鳥 (集英社)
夜のみだらな鳥 (ラテンアメリカの文学 (11))
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トマス・M・ディッシュ/歌の翼に (国書刊行会)
歌の翼に(未来の文学)

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胡蝶の夢、孤独な夏の燕 ― アーシュラ・K・ル=グィン『天のろくろ』・2 [本]

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Ursula K. Le Guin’s Blog, 24 July 2017より

gray and tan fantasy ― アーシュラ・K・ル=グィン『天のろくろ』・1 (→2017年09月21日ブログ) のつづきである。

ヘイバーとオアの戦いは、限りなく肥大化する欲望をオアの夢により実現させようとするマッド・サイエンティストと、それを阻止しようとするオアの良心との戦いである。
ヘイバーは何とかして夢を有効なものにしようとコントロールを試みるが、たとえばヘイバーが 「戦争を無くして世界の平和を」 と暗示したことに対して、オアの夢は 「人類共通の敵 (=異星人/the Alien) を出現させる」 という反応になる。必ずしもヘイバーの意図した結果にならないことに対するオアの反応は、「あなたが使おうとしておいでなのはぼくの理性的な精神ではなくて、ぼくの無意識なんです」 と答える (p.146)

訳者の脇明子はオアをドストエフスキーのムイシュキンやアリョーシャ的な性格であるととらえている。底知れぬ受動性や強靱な無垢がオアであり、それはドストエフスキーへのリスペクトではないか、というのである (訳者あとがき/p.312)。
そして、由良君美はル=グィンの『所有せざる人々』(The Dispossessed) の原題はドストエフスキーの『悪霊』(The Possessed) のもじりではないか、とも言う。『悪霊』の英語タイトルには «The Devils» «Demons» などがあるが、最初に英訳されたときのタイトルが The Possessed だったのである。

小説のなかでヘイバーは、身の回りのことなどにはこだわらないような、いかにもマッドな博士として描かれている。対するオアは、ヘイバーのギラギラ感とは正反対であり、男性としては弱々しげで、受動的性格であることをあらわすためか、その外見は細身で色白として描かれている。
この2人は対照的ではあるが、ありがちな設定だ。しかしヘザー・ルラッシュはすごく特徴的で、ドストエフスキーには出て来ないような女性であり、「猛烈で優しく、強くてもろい」 と脇明子は書く (p.313)。
オアに付き添ってヘイバーの治療に立ち会ったヘザーは、いくつもの金属製の装身具を付け、身体中ががちゃがちゃかちかちと鳴り響いている。彼女は褐色の肌をしているが、それは両親が白人と黒人だったことによる。その肌の色をオアは美しいと感じる。
脇明子は、このヘザー・ルラッシュはル=グィンの理想の女性像ではないかと指摘している。

ヘザーは行方不明になったオアを探し出す。それは人里離れた山小屋で、オアは自分が眠ると悪い夢を見てしまうのではないかと恐れて、眠らない努力をしている。今ある現実は実は夢で、もうなくなってしまったと思われているものが真実だったのではないか、とオアは考える。これは胡蝶の夢なのだ、と。
ヘザーはオアを安らかに眠らせようとシロウトな知識で催眠術をかける。ヘイバー博士が良い人になるように。そして月にいる異星人が月からいなくなるように、と。
すると、「月からいなくなるように」 という暗示に対するオアの無意識の出した結果は、異星人が月からいなくなって地球へ攻めてきた、という発想で、地球は大混乱となる。

しかし異星人はコンタクトの方法がわからなかっただけで、好戦的な種族ではなかった。やがて異星人は地球で、人間にまぎれて暮らすようになる。だんだんと地球上でのポジションを獲得してゆく。亀の甲羅のような外見をしているが、おそらくそれは宇宙服のようなもので、その中に何が入っているのかはわからない。
ヘイバーの治療という名の欲望に引き戻されたオアは、人種差別撤廃の夢を見る。すると人間の身体の色は全て灰色になってしまい、皮膚の色の差別は存在しなくなっていた。食べものには味が無く、街をゆく人々は皆灰色だった。その灰色一色の世界にヘザーは存在していなかった。
街中で、悪性の癌に冒された者はそれを隠していただけで逮捕され粛清される。ヘイバーはこう言う。

 我々は健康を必要としている。不治の病を持っている者や、種を退化さ
 せるような遺伝子の損傷をかかえこんでいる者を置いておく余地は、ま
 ったくないんだ。(p.237)

これはナチスの選民意識であり、整然と美しく見える世界は空虚なディストピアなのだ。ヘイバーの欲望はどんどん膨らみ、自分の欲望を満たすためにオアに、さらなる夢を見させようとする。
オアは、街の場末にある異星人の店を訪れ、謎の言葉 「イアークル」 とは何かを訊ねる。イアークルとはオアの夢を形容する異星人の言葉である。異星人はそれには答えず、禅問答のような回答をする。

 「一羽ノ燕デハ夏ニハナラナイ」 とそれは言った。「手ガ多ケレバ仕事は
 軽イ」 (p.260)

 ‘One swallow does not make a summer.’ it said, ’Many hands
 make light work.’ (E: p.132)

そして異星人はオアにビートルズの古いレコードをくれる。それは『友だちがちょいと助けてくれりゃ』(With a Little Help from My Friends) だった。
オアは自宅に帰り、地下の部屋に住んでいる管理人から蓄音器を借りてビートルズを聴く。何度も聴いているうちに眠ってしまう。起きると部屋のなかにヘザーがいて、二人は7カ月前に結婚したことになっていた。

ヘイバーの夢への欲望は果てしが無い。ついにオアの夢を介してでは無く、オアの夢のパターンを機械によって模倣させ、自分自身で夢を見るための増幅機を完成させる。ヘイバーは、もうオアへの治療は必要なくなったと宣告する。
オアは妻のヘザーと一緒に、ヘイバーのもとから去り、食事をしに行く。その途中で世界に異変が起こる。ヘイバーの夢によって、世界が崩壊を始めたのだ。ヘイバーの欲望の果てに作り上げられた巨大なHURADタワーは虚無の中にあった。オアはヘイバーの機械を止めるためにその虚無の中へと侵入する。

 彼はさらに前進を続け、最後のドアにたどり着いた。彼はそれを押し開
 いた。ドアの向こうには無が広がっていた。
 虚無は彼を引き寄せ、吸い込もうとした。彼は 「助けて」 と叫んだ。たっ
 たひとりきりでこの無の中を通り抜けてむこうに行くのは不可能だった。
 (p.262)

 He went on and came to the last door. He pushed it open. On
 the other side of it there was nothing.
 ‘Help me,’ he said aloud, for the void drew him, pulled at him.
 He had not the strength all by himself to get through
 nothingness and out the otherside. (E: p.147)

オアは夢魔 [ナイトメア] の中で増幅機のボタンを押しOFFにする。すると巨大なHURADタワーは消失し、そこはすすけた診療室になっていた。
こうした虚無の恐怖を描くル=グィンの筆致はさすがである。この部分はアースシーの『さいはての島へ』のなかで、世界が壊れていくさまを連想させる。

最終章である第十一章の冒頭に荘子の引用がある。

 星光は無有に尋ねた。「師よ、あなたは存在するのか? それとも存在
 しないのか?」 だがその問いに答は得られず……
                    ――荘子 第二十二 (p.298)

 Starlight asked Non-Entiny, ‘Master, do you exist? or do you
 not exist?’ He got no answer to his question, however....
                 ― Chuang Tse XXII (E: p.151)

訳者は、荘子の英訳をさらに日本語に訳したのでこのようになっているが、元の荘子は次のようである。引用個所の続きを含んでいる。( [  ] 内は直前のルビ)

 光曜[こうよう]、無有[むゆう]に問いて曰わく 「夫子[ふうし]は有りや、
 其[そ]れ有ること無しや」 と。光曜、問うを得ずして、その状貌[じょう
 ぼう]を孰視[じゅくし]するに、窅然[ようぜん]空然たり。終日之[これ]
 を視[み]れども見えず、之を聴けども聞こえず、之を搏[う]てども得ざ
 るなり。光曜曰わく 「至れり。其れ孰[たれ]か能[よ]く此[ここ]に至らん
 や。予[われ]能[よ]く無を有すれども、而[しか]も未[いま]だ無を無しと
 すること能[あた]わざるなり。無を無しとするに及びてや、何に従[よ]
 りてか此[ここ]に至らんや」 (世界の名著 老子荘子 p.461/中央公論社)

光曜がstarlightとなっているので、それをさらに訳すと星光になってしまうのが面白い。

ヘイバーの効力のある悪夢により街は崩壊していた。オアは郊外の混沌の中で異星人に出会う。異星人はオアをアパートで寝かせてくれる。
オアはベッドの上で、「あなたはどこでお寝みになるんですか」 と異星人に尋ねる。異星人は 「ドコデモ、ナイデス」 と答えたが、「二つに区切られたその言葉はそれぞれに等しく深い意味を持って響いた」 (p.299) という。「ドコデモ、ナイデス」 の部分は 「No where」 である。時代的に見て、ル=グィンが意識しているのはビートルズの〈Nowhere Man〉だと思われる。

そしてオアは収容所にいるヘイバーに会いに行く。ヘイバーは 「失われていた」 (p.303)。つまりコミュニケーション能力を失い、廃人になっていた。

ポートランドはヘイバーの悪夢による崩壊から次第に復興し、オアは異星人のキッチン・シンクの店で台所用品のデザイナーとして働いている。そのショールームにヘザーがやって来る。しかしヘザーはオアのことを覚えていない。この時象では彼女はまた別の人なのだ。
やがてヘザーはオアのことをうっすらと思い出す。ヘザーは雇い主に勧められて、ヘザーを隣の喫茶店に誘う。

 彼はヘザーと連れだって夏の午後の暖かな雨の中に出て行った。異星人
 は水族館のガラス越しに外を見ている海の生きものさながらに、ガラス
 張りの店の中に立ち、二人が眼の前を通り過ぎ、霧の中に消えてゆくの
 を見つめていた。(p.310)

オアは無垢の者であったはずなのに、ラストシーンでは記憶の無いヘザーが無垢の者になってしまうというアイロニー。それは起動する毎に初期化されるCLAMPの『ちょびっツ』(2000-2002) の悲しみに似る。そしてあいかわらず雨は降り続く。

ル=グィンが老荘思想に影響を受けていることはよく知られていることであるが、胡蝶の夢もまた荘子である。
人が蝶の夢を見ているのか、それとも蝶が人の夢を見ているのか。もし蝶がこの世界を夢見ていただけなのだとすれば、この世界は何なのか。そうした認識論から見えてくるのは、この小説を単純に夢のエピソードとしてだけではなく、何らかのメタファーとして読み取るかどうかにかかってくる。
そしてまた、限りなき欲望が人間の思考そのものを歪めてしまう狂気は、人間の歴史の中に恒常的に存在するものなのだということを感じさせる。


参照書:
天のろくろ (サンリオSF文庫、1979)
The Lathe of Heaven (Panther Books, 1974)
ゲド戦記 I 影との戦い (岩波書店、1976) [参照は1992年第24刷]
A Wizard of Earthsea (Paffin Books, 1971) [参照は1977年第10刷]


アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (サンリオ)
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8G8V8/

アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (ブッキング)
https://www.amazon.co.jp/dp/4835442210/

アーシュラ・K・ル=グィン/ゲド戦記 (岩波書店)
少年文庫版「ゲド戦記」セット(全6巻) [ アーシュラ・K.ル=グウィン ]





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gray and tan fantasy ― アーシュラ・K・ル=グィン『天のろくろ』・1 [本]

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Ursula K. Le Guin (1980)

アーシュラ・K・ル=グィン (1929-) の『天のろくろ』(The Lathe of Heaven, 1971) は Amazing Stories に発表後、1971年のネビュラ賞、1972年のヒューゴー賞、1972年のローカス賞を受賞したル=グィンの最も活発な創作期の作品である。作品リストを見ると1969年『闇の左手』(The Left Hand of Darkness)、1971年がアースシー (ゲド戦記) の2作目『こわれた腕輪』(The Tombs of Atuan)、1972年が『さいはての島へ』(The Farthest Shore) である。そして1974年『所有せざる人々』(The Dispossessed) と続く。

だが、不思議なことにこの『天のろくろ』のみ、入手しにくい状況にある。1979年にサンリオSF文庫の1冊として刊行されたが、この文庫そのものが廃刊となってしまった。廃刊後、本書は復刊されていないので (オンデマンド出版はあるが、現実的な価格ではない)、古書にたよるしかない。『サンリオSF文庫総解説』(2014) という本があって、これを見ながら古書を探せということらしいが、それより全てを復刊して欲しいものである。但し、なかにはやや超訳みたいなのもあるのだというが、そうした翻訳にはまだ当たっていない (それをいうのなら、ハヤカワミステリの初期にもトンデモ訳は存在する)。

以下、ネタバレがあるので未読のかたはご注意ください。

ストーリーはとてもシンプルで、主要な登場人物は3人しかいない。
ジョージ・オアは自分の見た夢が現実となってしまう恐怖から逃げようとして薬中毒となり、自発治療処分 (VTT=Voluntary Therapeutic Treatment) とされ、治療を受けるためにウィリアム・ヘイバー博士の診療所を訪ねる。
オアは独白する。17歳のとき、まだ両親と暮らしていた。同居していた叔母が、執拗に性的な行動をとってオアを誘惑してくる。オアは夢を見る。夢の中で叔母はロサンゼルスで交通事故に遭って死に、電報が来る。目を覚ますと、それは現実であり、はじめから叔母などいたことがないことになっていた。(p.21)
ヘイバーは最初、オアを精神分裂病者 (と翻訳されている) では、と見立てるのだが、オアの夢が本当に現実を変えてしまうことを発見する。その変化度は歴史そのものを変えるほど強大で、オアのみが改変前と改変後の複数の記憶を持っているが、その他の人々は変わったことに気がつかない (ないしは、一種のパラレル・ワールドであるともいえる)。

ヘイバーは最初は好奇心から、次第に現実を自在に変化させられることに夢中になり、オアの夢の改変パワーをツールとして利用するようになる。そして自分自身の権力と地位を増加させてゆく。町医者はやがて巨大な建物を有する研究所長に昇格してゆく。ヘイバーはつまりマッド・サイエンティストのカリカチュアである。

オアは自分の夢がヘイバーの私欲に利用されていることを知り、それを阻止するため、弁護士であるヘザー・ルラッシュに相談する。ヘザーはヘイバー博士の治療に立ち会い、オアの夢が現実に変化することを目撃する。
オアが、毎日地下鉄が混み合っていてイヤだ、といっていることに対し、ヘイバーが 「混雑に悩まされない夢を見るんだ」 と暗示をすると、オアは世界の人口が激減した夢を見てしまう。巨大なビルが霧散してしまう窓外の風景を、同席したヘザーも見てしまうのだ。

 七十億に近い人口をかかえ、それがなおも等比級数的に増えつつある実
 在 (もうない) 世界の記憶と、総人口が十億にも満たず、今なお安定して
 いない実在 (現に) 世界の記憶だ。(p.109)

オアだけが複数の記憶を持ち、効力のある夢を見る毎に世界は変換してゆき、幾つもの記憶が重層する。
オアはヘイバーに対して抵抗しようと試み、「自分を道具として使うことは拒否しなければならない」 (p.125) と思いながらも、医療行為だから従わなければならないとするヘイバーの強制力の下に萎縮してしまう。

 ぼくにはどんな運命もない。あるのは夢だけだ。そして今他人がその夢
 を操っている。(p.125)

 I haven’t any destiny. All I have is dreams. And now other
 people run them. (E: p.67)

主人公のオア (Orr) というネーミングはゲド戦記 I『影との戦い』のエピグラフに出てくるエア (Éa) を連想させる。

 ことばは沈黙に
 光は闇に
 生は死の中にこそあるものなれ
 飛翔せるタカの
 虚空にこそ輝ける如くに
     ――『エアの創造』――

 Only in silence the word,
 only in dark the light,
 only in dying life:
 bright the hawk’s flight
 on the empty sky.
      ― The Creation of Éa

おそらくエアという名前はアースシー世界における創造主 (=神) として設定されているが、オアという名前がそれと似た語感であることは、その創造が空虚な創造ではあるにせよ、彼が 「クリエイター」 である暗示となり、また 「either or」 の or でもあることを感じる。
物語の終わりのほうで、ヘイバーはオアに皮肉めかして言う。

 「[君は] どちらでもあり、どちらでもなし。それとも、あるいは [イー
 ザー・オア] というわけだ」 (p.231)

 Both, neither, Either, or. (E: p.118)

そして二項対立的な言葉の群れは、ゲド戦記のテーマであると同時に『闇の左手』のテーマでもある。

冒頭でオアが診療所に行きヘイバーと出会ったとき、ヘイバーは自分のことを夢の専門家であると自己紹介し、夢屋 (An oneirologist) とも言い換える。
oneirology (夢学、夢判断) という言葉はある程度大きな辞書でないと載っていないのだが、oneiro- という語はギリシャ神話のオネイロス (Oneiros) が語源で、オネイロスは夜の女神ニュクスの子どもであり、兄弟たちとして、モロス (死の定業)、ケール (死の運命)、ヒュプノス (眠り)、タナトス (死)、モーモス (非難)、オイジュス (苦悩) といった不吉な名前が並ぶ。

この小説の舞台はオレゴン州ポートランドであり、それは作者ル=グィンが長年住み慣れている土地である。小説の中のオレゴンでは地球温暖化による推移の上昇により地球の気候が変化してきて、雨が降り続いている。それは映画《ブレードランナー》(1982) のイメージに近い。

 オレゴン州の西部では昔から雨が多かったが、今ではなまぬるい雨が、
 片時も止まずに絶えまなく降りそそいでいた。そこで暮らすのはまるで
 永遠に注がれ続ける暖かいスープの中で生きているようなものであった。
 (p.47)

 It had always rained in western Oregon, but now it rained
 ceaselessly, steadily, tepidly. It was like living in a downpour
 of warm soup, forever. (E: p.29)

1970年代には地球は寒冷化しつつあり、これから氷河期が来るかもしれないという説もあったのだという。そんな時期に今の温暖化する地球を予言するようなル=グィンの想像力は的確である。

(→2017年09月23日ブログへつづく)

参照書:
天のろくろ (サンリオSF文庫、1979)
The Lathe of Heaven (Panther Books, 1974)
ゲド戦記 I 影との戦い (岩波書店、1976) [参照は1992年第24刷]
A Wizard of Earthsea (Paffin Books, 1971) [参照は1977年第10刷]


アーシュラ・K・ル=グィン/天のろくろ (サンリオ)
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https://www.amazon.co.jp/dp/4835442210/

アーシュラ・K・ル=グィン/ゲド戦記 (岩波書店)
少年文庫版「ゲド戦記」セット(全6巻) [ アーシュラ・K.ル=グウィン ]





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リベラ・メ ― フォーレ《レクイエム》を聴く [音楽]

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Gabriel Fauré

アンドレ・クリュイタンスのフォーレの《レクイエム》は、Venias盤の The Collection の話題のときにすでに触れたが (→2015年10月14日ブログ、→2015年10月18日ブログ)、クリュイタンスのフォーレは、レコードを買い始めた頃、つまりごく若い頃に私が買い求めたLPのなかの1枚で、その時代を思い出すととても懐かしい。単純に音楽だけでなく、それを聴いていた身の回りの情景とか友達などのことまでもが思い浮かぶ。
その頃の私にとってLPはとても高価だったから、所有枚数も少なく繰り返し聴くしかなかったのだが、同じように繰り返し聴いたのがフランクのヴァイオリン・ソナタで、でもフォーレとフランクという選択は偶然だったのか、それとも好きだったから選んだのか、今となっては判然としないけれど、渋い子どもだ、とも思う。

クリュイタンスのレクイエムには2種類あるが、有名な1962年パリ音楽院管弦楽団との演奏が白眉であって、1950年のモノラル録音のほうは古風で鄙びた音がするが印象としては弱い。
ヘレヴェッヘにも2種類の同曲の録音があるが、期待して聴いてみたら、予想に反してキツい感じがして一度しか聴いていない。クリュイタンス盤の刷り込みがあまりに強過ぎるのかもしれないとは思うのだが。

CDになってからも何回もリリースされていてリマスターもされているし、エソテリック盤も持っているのだが、でも音ではなくて内容なのだと思う。もっと極端にいえばディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる〈リベラ・メ〉の歌唱がその頂点にある。

全音のオイレンブルク版のスコアには、この曲の成立までの経緯が解説されていて参考になる。
最初は全部で5曲しかなく、7楽章に増やし、また各部を書き足していって最終稿ができあがったという。フォーレは管弦楽曲を書くことがあまり得意ではなかったとのことだが、レクイエムは他人の助けを得ずに書いたため 「結果は風変わりなものとなっている」 とある。
それは 「フル・オーケストラで鳴る部分は1小節もない」 というところにもあらわれていて、この曲にはオルガンが加わっているが、フォーレはもともと、オルガン伴奏だけのレクイエムで良いと思っていたような節がある。弦楽の音はオルガンで弾かれている音を単に分散しているだけに過ぎないような個所が多いからだ。
そして基本的にヴァイオリンが無い。ヴァイオリン・パートが加わっても、おざなりである。管楽器の使い方も同様にごく控えめだ。それでいてヴィオラとチェロにはそれぞれディヴィジの部分がある。そのため弦楽の重心は低く、それによってしっとりとした質感が生まれているようにも見える。
ヴァイオリンが無いのはブラームスのドイツ・レクイエムの最初でも、バッハのカンタータ18番でも見られるが特殊な効果を生み出す。

また、普通のレクイエムの書式なら用いられるべき歌詞を使っていないということも書かれている。ディエス・イレもラクリモサもないのは、フォーレが 「歌詞の劇的な扱いが必要とされる場合、それを除外した」 のだという。つまり 「容赦ない審判の日」 を外したというのだ。

〈リベラ・メ〉はチェロとコントラバスによる単純なピチカートの繰り返しパターンから始まる。オルガンもピチカートと同じ音にプラスして和音を弾くが、それはところどころに加わるヴィオラと同じ音だ。ヴィオラはほとんどが全音符でしかないのに、その暗くて強い音の重なり。ヴァイオリンは無い。そのシンプルな構成の上に乗るバリトン、フィッシャー=ディースカウの声は凜として深い。
最初のソロが終わって35小節4拍目からピアニシモでヴィオラが4分音符で5つの上行する音を刻み、37小節からコーラスとなるが、ソプラノとヴィオラの音はユニゾンで、ディヴィジになっているもう一方のヴィオラは3度上という、シンプルというよりは簡単過ぎるようなオーケストレーション。
さらに53小節からのPiù mosso、コーラスはDies illaと歌う。4分の6となり、決然としたホルンの、ずっと同じパターンと同じ音を吹き続けるだけのリズムのところどころにトロンボーンが重なる。劇的なものを除外したといわれるこの曲のなかで、最も劇的な暗い意思があらわれる。
ここからヴァイオリンが加わるが旋律線はヴィオラと同じで、弦の重なりの増強に過ぎない。コーラスが一区切りする69小節の最後で、ホルンの4つの4分音符に続いて、70小節目から83小節まで、4分休符+4分音符×5のパターンの執拗な繰り返しがさらに暗い輝きを増す。コーラスは次第に棒読みのようになり、やや曖昧な感じに収束していくところが上手い。
84小節から2分の2拍子、最初のリズムに戻り、そして92小節からコーラスがLibera meをユニゾンで歌う。このユニゾンのシンプルさと訴求力の高さは一種のおそろしさのような、と同時に諦念のような感情を同時にあらわしているように聞こえる。
コーラスが静まると124小節からバリトン・ソロが前をなぞるようにLibera meを歌い、131小節からピアニシモでコーラスが加わり、全体は溶暗のなかに消えてゆく。そのソロの1小節前、123小節から終わりまでずっと、ディヴィジになった一方のヴィオラがd音を持続させているのだ。

単純そうに見えて、ひとつひとつが揺るがせにできない音の連なりであることが次第にわかってくる。でもそれは単に構造的にわかろうとしているだけで、曲の本質は聴いてみたときの直感による。
最初に、そんなに考えもしないでレコード棚からフォーレを選び取った若い頃の私と、遙かな時間を経た今の私とは、年齢だけ重ねているけれど思っているほど進歩はなく、きっと同じに違いない。なぜならフォーレに対する想いと心の奪われかたは変わらないからである。若い頃の私は今の私を知らないが、そのときフォーレを選び取ったことは、未来の私に告げる予言のようなものだと無意識のなかで感じていたのかもしれない。


André Cluytens/Fauré: Requiem (ワーナーミュージック・ジャパン)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00JBJWEM8/
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Fauré: Requiem (libera me)
André Cluytens/Dietrich Fischer-Dieskau
https://www.youtube.com/watch?v=JZN-THpFMfc

André Cluytens/Fauré: Requiem (全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=tmrQHRnT4Mw

Laurence Equilbey/Fauré: Requiem (動きのあるYouTube・全曲)
https://www.youtube.com/watch?v=PnQl18sVyig
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星に願いを — ビル・エヴァンス [音楽]

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ビル・エヴァンスの1962年のアルバム《Interplay》はクインテットによる軽快な印象の佳盤である。軽快という形容は第1曲目の〈You and the Night and the Music〉(あなたと夜と音楽と) によるものだ。

1961年のヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴ・レコーディングの後、突然、スコット・ラファロを失い、エヴァンスはしばらく活動を休止する。翌1962年、チャック・イスラエルをベーシストに迎えたピアノ・トリオで《Moon Beams》《How My Heart Sings!》をリリースするが、ハービー・マンを加えた《Nirvana》やジム・ホールとのデュオ《Undercurrent》、そしてフレディ・ハバードとジム・ホールに、リズム・セクションもパーシー・ヒース、フィリー・ジョー・ジョーンズというクインテットによるこのアルバム《Interplay》と、しばらく模索の時期が続く。
ただ、エヴァンスの本領はピアノトリオにあるので、ピアノトリオ以外のアルバムは、模索というよりは気分転換的な意味合いが強い。

《Interplay》は1961年初頭にレコーディングされたキャノンボール・アダレイ名義のアルバム《Know What I Mean?》(1962) と並んで、エヴァンスの音楽の明るい部分を捉えている。それはやはり管楽器という強いキャラクターが加入していることが大きい。

〈あなたと夜と音楽と〉[→a] におけるエヴァンスのソロは、フィレディ・ハバードの音に引っ張られるようにシャープでくっきりとしていて、爽やかな演奏である。普段ならピアノだけでテーマ部分を表現しなければならないのに、このアルバムでのテーマはトランペットとギターがからまり、全体的に華やかだ。
1959年にレコーディングされたMilestoneレーべルのアルバム《On Green Dolphin Street》(1975) にも〈あなたと夜と音楽と〉が収録されているが、ピアノトリオなので音数も少なく、それにやや無骨である。
では《Interplay》の〈あなたと夜と音楽と〉がなぜ軽快で洒落ているかというと、フレディ・ハバードとジム・ホールの演奏はもちろんだけれど、最も重要なのはパーシー・ヒースのベースである。単純に規則的に刻んでいる4ビートなのだが、その正確無比さとセンスの良さが楽曲全体を支配している。ラファロや、この後のレギュラーなピアノトリオの一員となるエディ・ゴメスのように音数の多い難しい弾き方をしなくても、十分に存在感を出すことのできるベースである。

そして〈あなたと夜と音楽と〉の次の曲、スローな〈When You Wish Upon a Star〉(星に願いを) の緩やかでしっとりとした肌合いで、見事にエヴァンス節が意識される [→b]。
〈星に願いを〉はネッド・ワシントン/リー・ハーラインによるディズニーのアニメ《ピノキオ》(1940) の主題歌であるが、このアルバムでのクインテットの演奏は、その有名なテーマをほとんど表に出さないようにわざと画策しているかのようだ。メロディは複数の楽器に分割され、コード進行だけが暗示的にほのかにテーマをかたちづくる。曲の終わり頃になって、やっと本来のメロディが出てくるが、ひねくれているといえばその通りだし、シャレていると言われても、ああなるほど、と答えるしかない。

比較対象としてたとえばキース・ジャレットを聴いてみると、ちょっと変わったアプローチから入るけれど、やがてわかりやすくテーマの提示がある。これがジャズの通常の展開である [→c]。
マイルス・デイヴィスが〈枯葉〉で、テーマをストレートに吹かないという手法を繰り返し使っていたことがあったが、しかしマイルスの場合、そうはいってもそのコード・プログレッションの流れを追うことは比較的容易であり、それは〈枯葉〉のほうが〈星に願いを〉より有名曲だから、ということかと考えると単純にそうとも言い切れない [→d]。エヴァンスの場合、どんなに音を崩していってもテーマの気配が残っていればそれでよいのだとする考えがあるようだが、それはやや高踏的な思い切りでもある。

今、聴いている《Interplay》は《Bill Evans 5 Original Albums》というリヴァーサイドの廉価盤セットのなかの1枚である。最近はオリジナルの収録曲以外に別テイクをプラスして発売されることが多いが、この廉価盤セットは、本来のオリジナルの仕様ということにこだわっているようだ。アルバム1枚で30分~40分くらいの短めな収録時間は、アナログレコードというメディアからくる制約なのだが、そのシンプルさが潔癖ともいえる美しさに転化しているのかもしれないと思ってしまうのである。


Bill Evans 5 Original Albums (Riverside)
Classic Album Selection




[a]
Bill Evans/You and the Night and the Music
https://www.youtube.com/watch?v=bxKo7kp5a6Y
[b]
Bill Evans/When Your Wish Upon a Star
https://www.youtube.com/watch?v=8kuKTHzI1jo
[c]
Keith Jarrett/When Your Wish Upon a Star
https://www.youtube.com/watch?v=gyntl24zkZs
[d]
Miles Davis/Autumn Leaves (live 1964)
https://www.youtube.com/watch?v=cuhFQAzgnFQ
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サンレコ10月号を読みながら、やがてちわきまゆみに [音楽]

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『Sound & Recording Magazine』10月号の表紙は中田ヤスタカ。でも、ポストEDMとか言われてもなぁ。EDM自体よく知らないし、EDMってジャンルとして広過ぎるような気がするし。
中田ヤスタカは、中田ヤスタカ個人としてのアルバムを出すみたいです。「今の日本だと、ボーカリストじゃない人の名義で作品が出ていたら、“?”って思う人が大半だと思うんです」 って言っているけど、そうなのか? その言葉だけで判断しちゃうと、ますます偏狭になっていくJ-popっていう感じがしますね。

そんなわけでパラパラ見ていても、つい、古いほうの話題に興味が行ってしまう。土岐麻子のベスト盤の紹介がありますが、プロデューサーであるトオミヨウとの会話が面白い。スタジオのなかにローズがあるのはいいとして、その上に乗っているRE-201っていうのがすごい。これ、テープエコーですが、やっぱりデジタルとは違うんだろうなぁ。エンドレステープという発想の、いかにもアナログライクなテープエコーっていうシステムを考えたこと自体がすごいと思います。
結局、こうしたアナログによるディレイとかプレートリヴァーブとかって、つまりスチームパンクですよね? (違うか)。

機器ついでにいうと、レヴューのなかではSE-02というローランドとスタジオ・エレクトロニクスのダブルネームになっているモノシンセに食指が動く。機器の上半分のデザインがスタジオ・エレクトロニクス、下半分のシークェンサー・ボタンみたいな部分のデザインがローランドで笑います。大きさもコンパクトだし本来のスタジオ・エレクトロニクスほどじゃないけど、遊べるよね。ローランド・ブランドっていうところに安心感があります。

それはまあいいとして、soundbreakingの世界という記事は、レコーディングに関するドキュメンタリー映像《soundbreaking》というDVDの紹介なんですが、ジョージ・マーティンをはじめとするサウンド・プロディースの歴史の話らしい。そのレヴュアーが岡野ハジメ。
私にとっての岡野ハジメはPinkではなくて (Pinkはよく知らないですけど、今、見ると時代性が色濃く表れているパフォーマンスでやや恥ずかしい)、さりとてラルクでもなくて、なんといってもちわきまゆみのイメージが大きい。

ちわきまゆみというとMean Machineというバンドもあったけれど、あれはお遊びだし、まゆみねえさんとか呼ばれて、もう黄昏れてる感じだし、で、重要なのは東芝EMI時代のアルバムです。1986年から88年にかけての3年間に限る。個人的な好みでは《Gloria》です。
ちわきの言っていることは、たとえば来日したマーク・ボランに会ったとか、年齢と実際の音楽シーンが少しズレてるような気がするんだけど、つまりそれだけ彼女が早熟だったということ。

岡野ハジメはグラムロックなんてもう忘れられてしまった時代にグラムだった。イエモンの菊地英昭とかマルコシアス・バンプとかもグラムの香りがするけど、岡野のグラムっぽいファッションは本当に俗悪なグラムで (ほめ言葉です)、そういうファッションの岡野がバックにいるちわきまゆみの動画を見たことがあるんだけど探せませんでした。

ちわきの衣裳はグラムというよりボンデージというのかコスプレっぽくって、そういうのがカルト的には流行ってたのかもしれないけど、表面的には徒花みたいで、それがカッコイイんです。
〈CiNIMACHiNEBURA〉はアナログの12インチシングルしかないけれど、最もボンデージしてます。〈リトルスージー〉のイントロはボランの〈20th Century Boy〉のパクリですね。
それとFMでヤン冨田とちわきのDJ番組があって、変な曲ばかりかけていて、すっごくさりげなくアヴァンギャルドだった記憶があるのですが、う〜ん、記憶違いなのかもしれない。

尚、《Gloria》のCDにはジャケット違いのデジパックがあります。偶然、ヤフオクで手に入れた。内容は同じだけれど。
ということでサンレコから話題はズレまくりでした。


Sound & Recording Magazine 2017年10月号
(リットーミュージック)
Sound & Recording Magazine (サウンド アンド レコーディング マガジン) 2017年 10月号 [雑誌]




Roland Boutique SE-02
Roland ローランド / Boutique SE-02 Analog Synthesizer ブティーク【送料無料】【yrk】



PINK/Maxell CM: Keep Your View
https://www.youtube.com/watch?v=HzUU-fdj2aE

PINK/Climb, Baby Climb
https://www.youtube.com/watch?v=5lSFCnPZmT8

ちわきまゆみ/リトルスージー
https://www.youtube.com/watch?v=_7odpF5hURM

Roland Boutique SE-02
https://www.youtube.com/watch?v=zYLloIcu7us&feature=youtu.be
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川上未映子×穂村弘『たましいのふたりごと』を読む [本]

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少し前に出たとき、買いそびれていたのだけれど気になっていた本、川上未映子×穂村弘『たましいのふたりごと』(2015) を書店で見つけたので買ってきた。
単純に対談するのでなく、こだわりのある言葉を幾つか決めて、それについて語るという趣向である。言語に対する感性の高い二人なので、ファンとしてはとても安心して読めるし、それでいてところどころ 「おいおい」 の部分もあるし、で面白い。

たとえば〈上京〉というお題に関して、川上未映子はこう言っている。

 川上:中原 (昌也) さんとか蓮實 (重彦) さんはもともと東京のひとで、
    やっぱりシネフィルにとって東京で育ったかどうかは大きな問題
    なのかも。どれだけ小さなときから映画を観てきたかというとき
    に、大きな格差がつくって言ってました。(p.103)

「言ってました」 というのは川上の夫である阿部和重が言ったという意味なのだが、私はシネフィルではないので、ああそうなのか、と思ってしまう。たしかにマイナーな作品だとどうしても東京偏重はあるのかもしれないけれど。あ、ジャームッシュの特集のユリイカ買ってくるの忘れた。
対する穂村弘は、北海道から東京に出て来て原宿を歩いたときふわふわしたと言っているが、その気持ちはちょっとわかるかもしれない。修学旅行生が竹下通りをハイな感じで歩いていたりするのを見たことがあるからだ。でも原宿って、昔はもっと落ち着いた街だったのになぁ。

〈晩年〉では穂村が塚本邦雄をさらっと引用する。

 穂村:塚本邦雄の 「紅鶴 [フラミンゴ] ながむるわれや晩年にちかづくな
    らずすでに晩年」 という歌にあるように、自分では晩年って自然
    には意識できない。(p.104)

晩年とは 「それまで何かを成し遂げたひとが最後に辿りついた境地」 だと思うので、という穂村に川上は 「春夏秋冬の冬のイメージですね」 と応じるが、穂村は、ここまで 「だらーっときてるから (笑)、たぶん晩年にもならない」 という。
晩年ってある意味、死語なのかもしれなくて、塚本の、一首のなかに2回同じ単語を使うのはすごくカッコイイと思うし、『晩年』というタイトルの本からスタートした作家もいたけれど、現代にはそうしたニュアンスの晩年と形容されるようなたそがれ感はすでに存在していない。

〈大島弓子〉で盛り上がってしまうのはやはり世代なのだろうか。

 川上:穂村さんが大島弓子についてどこかで書いていた、「もっとも弱
    い者が最弱になったときに最強になる」 というのがすごく好きな
    んです。

と言うと、

 穂村:大島弓子は透明な革命を作品化していると思うんだけど、作中で
    主人公たちが社会的に強くなっていく過程はけっして描かなかっ
    た。少女や子猫たちの真実をこの上なく描いたけど、それが大人
    になったときにどのようにあるべきかというヴィジョンは描いて
    いない。
 川上:お母さんと子どもの関係もよく出てきますけど、本当のお母さん
    というようりも弱い立場の子どもがお母さん的な役割を演じる話
    がすごく多い。『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンみたいに、
    自分も子どもなのに、子どもたちをキャッチするということをす
    ごく描いていますよね。(p.108)

大島弓子は、成熟する強さは描かなかったけれど、成熟によって失われてしまう何かの哀しさを描いたのではなかったかと川上はいう。確かにサリンジャーのテーマは弱々しげなファンタシィでありセンチメンタリズムなのかもしれないが、それが 「最弱になったとき最強になる」 という意味とも呼応しているようにも思える。
穂村はさらに言う。

 穂村:大人の主人公がほぼいないということは言えるよね。大島弓子だ
    けじゃなくて、萩尾望都や佐藤史生といった二四年組周辺の人々
    は、マイノリティであることの自覚が作家性を支えていて、女性
    であることや同性愛者であることといった問題を先取りしていた
    と思うけど、あの時代に少女マンガというエンターテインメント
    の枠組のなかで、ああいう作品を描いていたのは本当に画期的だ
    ったと思うなあ。SFとも隣接していたのは、たぶん思考実験とい
    うところで通底しているからで、すごくラディカルだったよね。
    (p.109)

SFといっても創生期のSFはパルプ・フィクションと呼ばれ、通俗なエンターテインメント性だけでなく、SFという虚構の世界を借りたセクシィなイメージの作品さえ多かった。萩尾などの世代が最初に出会った頃のSFも冒険活劇的なストーリーが主流として存在していたはずで、しかしそうした肯定的世界観が陰影を帯びるようになったのは、たとえばフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968) とかJ・G・バラードの『結晶世界』(1966) などの出現からで、この2冊の翻訳が出たのはどちらも1969年、世界に対する美学を変化させた視点を持っているという点で、エンターテインメントでありながらそうでない部分が併存している。
それが直接的に影響しているとは言えないが、そうした時代だったからこそエンターテインメントの枷のなかでのマイノリティへの視点という方向性も可能だったのだといえる。この前、ポール・ウィリアムズの『フィリップ・K・ディックの世界』が再刊されて、いま読んでいるのだが、ディックはたとえばグレン・グールドと同じように特異点だったのか、それとも時代の変調するサイクルのなかで捉えても構わないのか、微妙なところだ。

〈憧れ〉は最も笑った項目で、せっかく憧れの歌人という話から始まっているのに、憧れはそれ自体で完結しているという川上に対して穂村が、

 穂村:なかなか憧れだけで完結できなくて、つい 「甲本ヒロト 革ジャ
    ン」 とか検索しちゃう (笑)。(p.114)

という部分、穂村は、憧れの人と同じ服とかギターとか欲しいと思わない? と食い下がるのだが、川上は 「そのひととおなじ物を持っても、なんにもならないよ」 と突き放す。それに対して穂村が、

 穂村:みんな 「川上未映子 ウィッグ」 とかで検索してると思うよ
    (笑)。(p.114)

と切り返すのに笑いました。物欲ダメみたいに言っておきながら、ハイブランドのことになると2人の立場が逆転したりする (p.206)。

〈コンビニ〉や〈ファミレス〉では川上がそういう店でバイトをしていた頃のいやな思い出という意外な展開になるのだが、川上未映子にとってはそれは過去のことだけれど、そういういやな状況のなかに今も閉じ込められている私には、よりダイレクトな印象となって響く。

〈午後四時〉は、「曇天の午後四時はおそろしい」 (p.202) という意味での午後四時なので、その曖昧な時間を誰もが意識して共有しているのか、それとも無視しているのか、気づいてさえいないのか、という問題であって、たぶんそれは 「たそがれは逢魔の時間」 という言葉に似ている。もちろん大島弓子でもあるのだけれど、そもそも 「たそ-かれ」 という語源そのものが不確実な 「生」 というものの感触をあらわしていることにほかならない。

ランダムに出されている項目が、それなりにストーリー性をもたされているような、それともストーリー性を持つようにもっていけることができるのが2人の作家性なのかどうかはわからないが、でも対話というものは方向性が見えていないようでも確実に進んでゆくものであり、こうした対話が文章となって固定化されているのは心が和む。

最近思うのだけれど、話すことによって見えてくる会話とそうでない会話とがあって、見えてこない会話は、心をひどく疲れさせる。少し話がずれるが、たとえばファストフード店などにおける 「~で、よろしかったでしょうか」 というような言い回しは、責任回避の思想がマニュアル作成者の根本にあり、対話を拒否しようとする姿勢が見える。モノさえ売れればそれでいいという思想なのだからそれはそれでも仕方がないのだが、しかし同様な会話も日常のなかに多く見られる。それはきっと相手の存在をとらえないで壁に向かって話しているのと等しい会話だからである。


川上未映子×穂村弘/たましいのふたりごと (筑摩書房)
たましいのふたりごと (単行本)




ザ・クロマニヨンズ/ペテン師ロック
https://www.youtube.com/watch?v=7KOxEnvvhGo
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