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自らを悼むための悲歌 ― ゾルタン・コチシュ《A Tribute》 [音楽]

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Zoltán Kocsis, 1952-2016 (theguardian.comより)

コチシュの追悼盤を聴く。
追悼といっても、コチシュ自身の演奏した曲を2枚のCDにまとめたものである。1枚目はピアニストとしてのコチシュ、2枚目は指揮者としてのコチシュ。
1枚目の選曲には、しかし1曲もバルトークがない。2枚目はほとんどがバルトークだから、という比率の法則も成り立つが、そうだとしてもピアノ曲にわざとバルトークをもってこないというなんらかの意図が感じられる。でもそれはマイナスの印象ではなく、コチシュの懐の深さをあらわす結果となっている。

1曲目から4曲目までがピアノのソロ。順に、コダーイ〈トランシルヴァニアのラメント〉、リスト〈執拗なチャルダーシュ〉、ラフマニノフ〈前奏曲 G-dur op.32-3〉、ショパン〈バラード第1番〉なのだが、この鋭敏でクセのある選曲は何なのだろう。コダーイとリストのエキセントリックさで引きつけておいて、ラフマニノフにつなげて、そしてショパン。コチシュのショパンは降りかかるフリルやレースを拒否している。午睡のスイーツでもない、優雅なアンニュイでもない硬質なショパン。

5曲目から8曲目はミクローシュ・ペレーニのチェロとコチシュのピアノのデュオ。この4曲がCD1枚目のピークを形成している。バッハ (コダーイ編)〈ああ、われらの人生とは BWV743〉、ドビュッシー (コチシュ編)〈小舟にて〉、ラフマニノフ〈ヴォカリーズ op.34-14〉、そしてシベリウス (コチシュ編)〈悲しきワルツ〉。
このなかで最も深く心に突き刺さるのは〈ヴォカリーズ〉である。〈ヴォカリーズ〉はもともとは歌曲であるが、多様な編曲版があり、このチェロの深い響きは、その音だけですでにリスナーの心を摑む。
それは水面に浮かぶ1枚の木の葉のようでもあり、たゆたう舟のようでもあり、しかしなによりもそれは単なる弦楽器が奏でる単純な調べに過ぎないという事実に揺り戻される。ヴォカリーズは言葉のない歌である。声はチェロに変わり、やがて冥府への響きとなる。
〈ヴォカリーズ〉の後の〈悲しきワルツ〉は、愁いはあるけれどむしろ爽やかだ。歩いたり止まったりする伸縮自在のワルツ。それは流れる。水のように。そして混沌となり溶暗となる。

ラフマニノフの〈ひなぎく〉、少し意外なグレインジャーの〈浜辺のモリー〉という小曲を経てモーツァルトの〈ピアノコンチェルト B-dur K238〉。なぜ、単曲のなかにコンチェルトが? と思うのだがこの曲がCD1枚目のもうひとつのピークとなる。
慄然とするほどの細かく際立ったパッセージを刻むコチシュ。一点の曇りも無く、曖昧さが存在しない。モーツァルトのコンチェルトのなかでは難曲であるが、それをものともしない。第2楽章のカデンツァは色のないなかに色がある。常にコチシュの音は硬質だが決して冷たい音ではない。これを聴くと、モーツァルトがなぜ天才といわれるかがわかるはずであるし、誰が書いていたか忘れてしまったが、モーツァルトへの理解力によってその人の音楽的資質が問われるという評価は決して誇張ではないように思われる。

全体では3曲あるラフマニノフが鍵となっているようにも思える。なぜバルトークが1曲もないか、ということへの解答なのかもしれない。
CDパッケージは黒と白に文字が銀色、そしてCDの盤面は黒。なぜコチシュがもうこの世にいないのか、それはモーツァルトがなぜいないのかと同様なほどに、強い喪失感となって私のなかで反芻する。


Zoltán Kocsis/A Tribute (Hungaroton)
http://tower.jp/item/4511682/
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Miklós Perényi, Zoltán Kocsis/Rachmaninoff: Vocalise
https://www.youtube.com/watch?v=koSE_4JxR9c

Zoltán Kocsis, Jiří Bělohlávek/Mozart: Klavierkonzert in A-Dur K488
https://www.youtube.com/watch?v=94g9_cpNtA8&t=193s
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